難民
ここではありとあらゆるものが、煤と泥に侵されていく。
モニカは真っ黒な煤と泥で汚れた父親の麻の肌着を洗いながら、そう心の中でつぶやいた。地下からの排水から流れ出る洗い場の水は、この季節でも指先の感覚がなくなるぐらい冷たい。
頭を上げれば見える煙突の先からは、真っ黒な煙が上がっている。銅を精錬するための焼鉱窯から上がる煙だ。そこからは銅鉱に含まれる、卵の腐ったような硫黄の匂いも漂ってくる。これをまともに吸い込むと咳が止まらなくなり、涙も止まらなくなる。
もうすぐ早朝組が上がってくる時間だ。商家に勤めていた父親を含め、カスティオールからここに連れてこられたものは、一番深い坑道から水抜き坑を作る作業に従事させられている。辛く、そしてとても危険な作業らしい。昨日も一人、小規模な落盤で亡くなっている。モニカは父が無事に戻って来れることを天にいる母親に願った。
向こうから首を下げて背をまるめた、疲れきった男達の集団が見える。早朝組だ。父さんは無事だろうか?
モニカは洗い場から腰を上げると、父親の姿を探した。焦げ茶色の安全帽をかぶった姿が見える。良かった。今日も無事に戻って来れたらしい。体を拭く布か何かを用意してあげて、すぐに休めるようにしてあげないと。モニカはそう思って、自分たちが押し込められている小屋の方をふり返った。
何だろう?
小屋の方に向かって、坂の下から登ってくる幾人かの人影がある。鉱山の労働者ではない。前をいく二人は紺色の商会の制服のようなものを着ていた。背後の二人はその護衛のようで、明らかに只者じゃない雰囲気を纏わせつつ、辺りを伺いながら登ってくる。
男の方は詰襟の服を着ており、日差しを避ける為か、頭には山高帽のようなものを被っていた。女性の方は自分と年がそれほど変わらない感じだ。襟元や袖元、裾元に白い縁取りがある服を着ていた。男性の秘書か何かだろうか?
モニカは懐かしむように、そしてうらやむようにそれを見つめた。自分もここに来る前は父を手伝って、商会で似たような制服を着て働いていたのだ。
商会の者がまた、労働時間やら生産性やらうるさく言ってくるつもりなんだろうか? こちらは囚人ではないはずなのに、ほぼ囚人の扱いだ。だがここを所有しているロキュス商会の制服とは違う。彼らの制服はもっと明るい灰色のはずだ。一体誰だろう。
彼らは小屋を囲む柵のところまで上がってくると、先頭の絹帽を被った男が警備担当に声を掛けた。警備担当が柵を開けて中へと入ってくる。そしてその一人が小屋の方へと駆けて行くのが見えた。
小屋から人がぞろぞろと出て来た。どうやら小屋と柵の間のちょっとした広場になっているところに、皆が集められているらしい。鉱山から出てきた父親たち早朝組も、そちらの方へと誘導されている。まるでここに連れて来られた時のようだ。何かある。
モニカは洗濯物を手桶の中に押し込めると、父親の姿を追って広場へと向かった。
「父さん!」
「モニカか?」
真っ黒に汚れた顔をした父親が、目だけを光らせてこちらを見た。
「一体何?」
「さあ、分からん。だがあの制服は……」
「皆さん、お忙しいところ申し訳ありません。お疲れでしょうから、どうかお座りになって聞いてください」
父親が何かを告げる前に、広場の前に進み出た詰襟の男が口を開いた。そして絹帽を取ると、こちらに向かって頭を軽く下げる。隣にいる制服の女性もこちらに向かって頭を深々と下げた。
「初めまして、ライサ商会の代表を務めさせて頂いています、エイブラムと申します」
男は帽子を女性に渡すと、女性から書類の束を受け取った。「ライサ!」、私達をだましてここに送り込んだ張本人!?
居並ぶ人達からうめき声のような、言葉にならない怨嗟の声が上がる。彼の背後に居た護衛らしき男達が手にした弩弓を上げそうになったが、男の横に立つ少女がそれを制した。驚いたことに、護衛の男達がそれに従ってすぐに弩弓を下ろす。
「皆さんに色々とご迷惑をおかけしていることはよく分かっています。その点に関しては、全面的に謝罪させていただきます。本日こちらにお伺いさせていただきましたのは、これからの皆さんの派遣先に関する件です」
周りにいる人たちが顔を見合わせる。ここでも十分に地獄のような所だというのに、もっとひどい所に送り込むつもりなのだろうか?
「あんた達は!」
居並ぶ者の一人が声を上げたが、男が片手をあげてそれを制した。
「ここに残りたいという方以外については、派遣先について、これまでの職業や経験を元に再度調整させていただきます。まことにすみませんが、契約上の問題とこちらの都合もあって、労務契約そのものを破棄することはできません。ですが、ご要望については最大限考慮するつもりです」
「あんた達、何を勝手な事をしているんだ!?」
鉱山副所長が、何人かの警備員をつれて広場へとなだれ込んできた。父が言うには所長は技師あがりだが、この副所長は商会の本店のお偉方か誰かにつながっている腰ぎんちゃくで、ひたすら威張り散らしては無理な要求だけを繰り返す男だと言っていた。
丸顔のちょび髭をした男が、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている。
「ライサ商会代表のエイブラムです。この件については、そちらのダリエル代表の署名で一筆頂いております。それにこちらの方々の派遣契約はうちの商売で、そちらが口を出す話ではないと思いますが?」
そう言うと、隣にいる少女に向かって顎をしゃくって見せた。少女が革の書類挟みの中から一枚の紙をだすと、それを副所長の前に差し出した。今や額に青筋を山ほど立てている副所長が、少女の手から書類をひったくると、見もしないでそれを破ろうとする。その瞬間だった。
少女に腕をひねられた副所長の体が一回転したかと思ったら、派手な音を立てて地面へとたたきつけられていた。そして少女はその上体を足で押さえながら、その手から書類を引きはがすと、ライサ商会の代表と名乗った男に渡した。
気が付くと副所長が連れてきた警備員の胸に向かって、護衛の男達が弩弓の狙いを定めている。代表と名乗った男も驚いた顔をして、副所長を踏みつけている少女を見つめていた。
「こ……こんなことをして、許されると思っているのか!?」
地面にたたきつけられた痛みに耐えながら副所長が喚いた。
「自分が署名した書類が、自分のところの店員に破られたなんて知ったら、ダリエル代表がどれだけ怒り狂うか想像もつかないぞ。あの人は商会の代表なんかより、どこかの軍隊にでもいた方が似合いそうな人だからな」
そう告げると、男が地面に横たわる副所長の目の前に書類を差し出した。それを見た副所長の顔がさっきまでとは全く違う色、真っ青に変わった。
「いや、連絡がなかったから……分からなかったんだ……」
「副所長殿、あなたとは後で時間をとって話すので、先にこちらの話が終わるまで事務所で待っていていただけないだろうか?」
男はそう言うと、少女に向かって足を退けるように指示して、再び私達の方に向き直った。彼女が少しばかり残念そうな顔をして足をよける。
「申し訳ないがこちらはとても人手不足でして、面接の手伝いをお願いしたい。どなたか事務の経験がある方で、こちらの作業を手伝ってくれる方はいませんか? 皆さん、面接が終わるまではこちら優先でお願いします。鉱山に残りたい方を含めて、仕事はお休みとします」
周りを見回した男に向かって、私と隣にいた父が手を上げた。他にも幾人かの人達が手を上げており、少女が手を上げた人達を回って書類を配っている。
彼女が私の前に来て書類と羽筆を差し出した。どうやら守秘義務に関する書類らしい。私が立ち上がるために、手を差し出してくれた彼女の顔を見あげると、そこには冷ややかではあるが、整った顔に栗色の目があった。その目には私の様におどおどした感じは全くない。どこまでもまっすぐで、自信と信念に満ち溢れているように見える。
「モニカです。よろしくお願いします」
彼女の手を取って立ち上がった私は、彼女に向かって頭を下げた。
「マリアンです。どうかよろしくお願いします」
彼女は手を前に揃えると、私に向かって深々と頭を下げた。ああ、なんて人なんだろう。あの酒樽のような男を投げ飛ばせるのに、私に向かってこんなに丁寧にあいさつをしてくれる。
母が死んでから、カスティオールを出てから、ずっと辛いことばかりだった。だけどそれはきっと、この人に会うための試練だったんだ。
間違いない、絶対にそうに決まっている!
* * *
二頭の馬で引かれる郊外用の馬車は、ときおり腰を浮かせるような揺れをしながら、王都への道を走っていく。郊外用でバネもそれなりにいいものを積んでいるはずだが、あまり役にたっているようには思えない。無駄話なんてものをしようとすると、舌を噛みかねないから、みんな押し黙って馬車に乗っている。
何も話をせずに黙っているなどと言うのは、商人の尊厳にかかわりそうなところではあるが、隣に座る、押し黙ってブラインドの隙間から外を眺めている事務服姿の少女を見ているとそんな気も失せてくる。未だにこいつの存在は謎だ。何なんだ、あの副所長を放り投げた手際は?
コリーが調べた限りでは灰の街の出身というのは間違いなく、最近父親を亡くしている。そして、昔の母親の縁で灰の街の顔役に引き取られたそうだ。灰の街の出身だから、自分の身は自分で守るだけの何かを身につけていたということだろうか?
この子について色々と考えるのはもっと後でいい。それより先にやることが山ほどある。
エイブラムは向かい側に座る親子に目をやった。父親は少しばかり青白い顔をしている。本人曰く、あまり乗り物に強い質ではないと言っていた。この男にとっては俺が話しかけるだけ迷惑だろう。その横に座る娘はマリアンと同じ年、あるいは少し上ぐらいだろうか?
この二人はカスティオールにある商会に勤めていたらしい。事務の経験者として、面接やら書類のまとめ等を手伝ってもらったが、俺から見てもその手際の良さは際立っていた。どの順番でどのようにすれば効率がいいかを的確に判断すると同時に、作業中でもそちらの方が効率がいいと判断すれば、それに切り替える事もできた。つまり自分で考えて自分で実行できるという事だ。
人数のあまりの多さに、やはりコリーに押し付けるべきではなかったかと考えていたが、杞憂だった。そのほとんどはこの二人がやったようなものだ。他に手伝いを頼んだ者達も、いつしかこの二人の指示で動くようになっていた。俺は二人が回してくる書類を眺めているだけで済んだ。
少しは大目に見ろとは言ってあるが、コリーの掃除が終わった後に、どれだけの人が残っているかは分からない。本来のコリー基準で行けば、一人も残っていない可能性だってある。ともかく手が足りない。こんなところでくすぶらせておくなんて言うのは、人材の有効活用の真逆なんてものではない。
この二人は間違いなく掘り出し物だ。いや掘り出し物どころの騒ぎじゃない。どこかまっとうなところにすぐ移ると言うかもしれないが、その間だけでも手伝ってもらう。
俺は少しばかりふっくらとした、大人しい感じがする娘の方を見た。気のせいだろうか、少しばかり頬が赤いような気がする。風邪か? 違うな。その子の視線は一点を見据えている。
その視線の先にはマリアンが表情が読めない、もしかしたら不機嫌なのかもしれない顔で座っている。まさかな? いや、この年頃の女の子ならあり得る話だ。
この子は、マリアンに惚れているのか?