隠し事
「次は私の番ね!」
そう言うと、サンドラは羽のついたボールを手に持つと、手の平でバランスを慎重にとる。それを階段ホールの床におかれた遊戯板に向かって放り投げた。ボールは小さくバウンドすると、100の数字が示された場所の手前、20の数字のところで止まる。
「な、なによ!?」
ニコライはボールを投げたサンドラの機嫌が如実に悪化するのを眺めた。本来はとてもかわいらしく造形されているはずの顔が、苦虫を噛み潰した様になっている。
「今度は僕の番だな」
ニコライはそう告げると無造作に羽がついたボールを放り投げた。それは小さくバウンドすると、サンドラの赤い羽根のボールを板の上から弾き飛ばし、するすると滑って100の数字の箱の真ん中に止まった。
「ニコライ、ずるい!絶対にずるい!」
サンドラが口をとがらせてニコライに抗議する。ずるいも何も、ニコライとしてはサンドラに無理矢理付き合わされているとしか思っていない。
サンドラが子供なのは見かけだけのはずなのだが、サンドラはこのような小さな子供が行う遊戯を好んでいて、下手をすると半日とか付き合わされたりもする。
「ルール上は何も問題ないはずだよ」
ニコライはサンドラの抗議にわざとらしく冷静に答えた。サンドラの機嫌がさらに悪化するのが分かる。ニコライとしてはサンドラがボールも遊戯板も蹴り飛ばして、このゲームを終わらせてくれることを心から期待していた。
「うん!?」
だがサンドラは急に表情を変えると、小さく声をもらした。
「どうした?」
「ふふふ、珍しいもの、みーつけた!」
サンドラはそう叫ぶと、さもうれしそうに床の上でスキップダンスの様な物を踊り始める。
「これはローレンツが喜ぶかな? 喜ぶよね。でもこんな面白そうなもの、すぐに教えるのはもったいないかな?」
ニコライはサンドラの言葉に慌てた。
「おい、サンドラ。ローレンツが絡んでいるのならすぐに教えないと。後でばれたら大変なことになるよ!」
だがサンドラはニコライの言葉にまるで幼子の様にいやいやをして見せる。
「ふふふ。いやよ。いやいや。だってとっても面白そうなんだもの」
サンドラはさも嬉しそうに答えると、ニコライに向かってニヤリと笑って見せた。
そして手にしていた羽根つきのボールを後ろ向きに放り投げる。それは遊戯板の上にあったニコライのボールを二つ弾き飛ばすと、100の数字のど真ん中にちょんと乗った。
「あのね、サンドラ。僕らが何でここにいるかぐらいは分かっているだろう?」
「ふふふ、ふふふ……」
サンドラはニコライの呼びかけを無視すると、遊戯板やボールもそのままに、そう含み笑いを漏らしながら階段を駆け上がっていく。
「ちっ!」
ニコライの口から舌打ちが響いた。
「もう、僕は力を使っちゃいけないんだけどな」
そうぶつぶつと独り言を漏らすと、目を瞑って片手を軽くあげた。だがすぐに目を開く。
「サンドラ!」
ニコライはそう叫ぶと二階の階段横の通路を見上げた。そこには小走りに自分の部屋へと向かうサンドラの姿がある。
「隠すとはどういうことだ!」
「ニコライ。あれは私のものなの。勝手なことをしては駄目よ。したらあなたを食べちゃうよ」
サンドラは二階の通路から顔を突き出すと、ニコライに向かって口の端を大きく持ち上げて見せる。そして赤い舌で唇の周りをぺろりと舐めた。
「ふふふ、楽しい!面白い!」
呆気にとられているニコライの耳に、サンドラの呟きと、部屋の扉が閉まるバタンという音が響いた。
* * *
マリアンは洗濯物を入れた桶に外で暖めておいた日向水を注いだ。もっとも日が短くなってきているのと気温が下がっているので、日向水というより井戸から直接汲み上げたままよりはましという感じだ。
そこに粉状にしておいた石けんを溶かすと、手を入れて洗濯物を軽くかき回す。回すにつれて桶の中に白い泡が湧き上がってくるのが見えた。
少し遅い時間でもあったので洗濯場には人の姿はない。マリアンは小さく鼻歌を歌うと、フレデリカの肌義を一枚手に取り、洗濯板で洗い方を始めた。
鼻歌はいつの間にかすり込まれてしまったフレデリカの調子外れの鼻歌だ。もっともそれはもともとはフレデリカの鼻歌ではない。前世で百夜という少女が歌っていた鼻歌だった。
それをフレデリカが歌うようになって、いつの間にかマリアンの頭にもすり込まれた。何かあるといつの間にかこれを口ずさんでいる自分がいる。
ザバーン!
誰かが下手で洗濯桶から洗い場に水を流す音が響いた。どうやら自分と同様に出遅れ組がいたらしい。マリアンは邪魔にならないようにと、桶をすこし上手の方へ移そうとした。
「気をつけな。ジャネットの動きがおかしい」
下手で洗濯物を洗濯板にぶつけて脱水する音と共に低い声が聞こえてきた。マリアンは声の方をふりかえる事なく鼻歌を口ずさみ続ける。
「しらない間に宿舎を抜け出している」
「今までもそうなのではなくて?」
マリアンは洗濯板で洗濯物をこする音に紛れさせつつ、声の主に問いかけた。
「客に会うためならそうだ。でも頻繁すぎる。色気づいたガキに迫られているのなら、むしろ危険だから頻度を下げるはずだよ。間違いなく何かを企んでいる」
「根拠は?」
「根拠なんてものはないさ。私はあの子とは付き合いが長いんだ。だから分かるよ。何より楽しそうなんだ」
「楽しい?」
「そうさ。あの子は何をしていてもいつも投げやりだった。なのに今はとても楽しそうなんだよ。だけど普通の人の楽しいとは全く別の種類のものさ。きっとあんたにとって厄介なやつだよ」
「教えてくれてありがとう」
「礼はいらないよ。あんたには借りがある。もっとも私があんたに返せるのはせいぜいこの程度の事だ」
イヴェタはそこで言葉を一度切ると、用心深く辺りを伺った。
「ジャネットもそうだけど。ここにも気をつけな。ここは並のお化け屋敷なんかよりよほどに怖いところなんだ。だれかがいつ消えてもおかしくないところだよ」
そう告げたイヴェタの声はより低く、何かに怯えて震えている様にすら感じられた。
「よっこらしょ」
イヴェタはわざとらしく声を上げると、干し場の方へと歩いて行く。そこには何人かの侍従たちが洗濯物を干している姿が見えた。
「どこの世界にいても、危険がない場所なんてないのね」
マリアンはそう独り言を漏らすと、いつの間にか覚えてしまった再び調子外れの鼻歌を再び歌い始めた。