誘惑
ロイスは郊外にあるその建物を見上げた。それは蔦に覆われた古い石造りの建物が尊大な姿で建っている。そのファサードは真っ赤に染まった蔦の葉で覆われていて、晩秋の風に微かに揺れていた。
魔法職などの待ち伏せを避けるために、月例会の会合の場所は毎回変わる。それは直前になって、あるいは走り始めた馬車に何者かによってもたらされる事になっており、この場所はロイスが初めてくる場所だった。
辺りにはロイスと同じ目的でここに乗り付けた馬車、それも重々しくはあるが、目立たぬ色と作りの馬車が何台か既に停まっている。そして御者台に座る者達の動きに隙はない。
彼らはロイスを直接に見ることはしなかったが、帽子の影から自分の動きに視線を向けているのを感じる。少し前までは、ロイスもそこに座り、会合に来るものに注意深く視線を向けるべき立場だったのだ。
入り口で真っ白な口髭を生やした侍従が、ロイスの背中から外套を脱がすと、奥へと腕を差し出した。その立ち振る舞いは完璧だ。それはそうだろう。「執事」の異名を持つ王都の裏の支配者、ヴォルテの配下の者達だ。
ロイスは完璧な礼をして見せる侍従をチラリと見ると、無言で建物の中へと入った。黒御影石だろうか? 鏡の様に滑らかな床が、天井に吊るされたシャンデリアの黄色い光を映し出している。
「ロイス、随分と早いお出ましじゃないか?」
背後からかかった声にロイスは足を止めた。すぐに何か柔らかいものがロイスの背中に押しつけられる。そして胸に真っ白な腕が、紅いマニキュアをした指が絡みつくのが見えた。
「アルマの姐さん。姐さんこそ着くのが早すぎやしませんか? この時間は私のような、末席のものが来るべき時間ですよ」
「そうかい? 私はそうは思わないけどね。愛しい男と会えるんだ。早く来て待つのは、女としては当たり前のことじゃないのかい?」
「ご冗談を。私の様な下々が縮み上がるだけですよ。それにこんな末席を揶揄うのは困ります」
「そうかね。あんたと私はもう他人じゃないんだよ」
そう言うと、アルマはロイスの横に立ってその腕に自分の腕を絡めた。運悪く手洗いから出てきたらしい男が、アルマとロイスの姿を見ると、慌てて廊下の端へとその身を寄せる。アルマは街道筋の顔役だと思われる男をチラリと見ると、ロイスの方へ顔を寄せた。
「少しぐらい他の者達に見せつけても悪くはないだろう?」
アルマが上目遣いにロイスの顔を眺める。だがすぐに怪訝そうな顔をして見せた。
「ロイス、タイが曲がっているよ」
アルマはロイスの首元に手を差し出すと、そこにある黒タイを指で直した。
「あんたのところには、これを直すぐらいの事をする女はいないのかい?」
「うちのところは男やもめでしてね。そのような気が効くやつは誰もいません」
「おや、そうかい。私はミランダの娘があんたの世話をしていると思っていたのだけど違うのかい?」
「マリアンですか? 前にも言いましたが、あの子は堅気にするつもりです」
「本気かい?」
「はい。姐さんの申し出は嬉しいですが、あれは堅気にします。ミランダの姐さんもそれを望んでいました」
「それは残念だね。ミランダの意思を継いで、私に代わって王都を仕切ってくれると思っていたんだけどね。でもロイス、私の言葉も本気だよ。まだ女として男に見てもらえるうちに引退して、どこかのんびりしたところで暮らしたいと思っているんだ」
「アルマの姐さん、姐さん抜きにこの王都の仕切りは務まりません。それはここにいる者達全てが分かっている事です」
「つまらないお世辞を言うね。それは男の理だよ。私はこれでも女だ。女には女の理というものがあるのさ」
そう言うと、アルマは例会が行われる部屋の手前の談話室の入り口で、ロイスに腕を回したまま侍従から飲み物を受け取った。ロイスも差し出された盆の上から飲み物をとる。
談話室の中にいる、それほど数が多くはない男達が、入り口に立つアルマとロイスの方を振り返った。だがそこに立つアルマの視線を受けると慌てて前を向く。
「本当はずっとこうして腕を回していたいところだけど、立ち話も味気ないね。その辺に座らせてもらおうか」
アルマはそう告げると、談話室の窓際にある長椅子へとロイスの腕を引いていった。そしてロイスの横に座ると、その膝の上に肘を軽く置いて、ロイスの前へとグラスを差して見せる。
「あの夜の思い出に」
「思い出に」
ロイスはそう答えると、その差し出されたグラスに己のグラスを合わせた。
キーンという金属のベルを鳴らした様な音が辺りに響く。それは男達が話すのをやめて静まり返っていた談話室の中に、楽器の調べのように響き渡った。
「随分静かじゃないかい。毒蛇か何かでもいると思っているのかい?気分が悪いね」
談話室の者達が慌てたように何かを語り始めた。グラスを口にしたアルマはその姿を満足そうに眺めると、ロイスの方を向いた。
「ロイス、さっきの話だけどいい事を聞いたね。私はてっきりミランダの娘があんたの世話をすると思っていたんだけど、それは私の勘違いかい?」
「もちろんです。そもそも私とは歳が離れすぎていますよ」
「そうかい。男は私の様な年増じゃなくて若い子に惹かれるものじゃないのかい?」
「アルマの姐さんは私が初めてあった時より、今の方がよほどに魅力的だと思いますが?」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。思わず鼓動が早くなるよ」
「ご冗談を」
「嘘じゃないよ」
そう告げると、アルマはロイスの手を自分の胸元へと差し込んだ。ロイスの指先にアルマの豊かな乳房が触れる。
「ほら、私の心の臓がどれだけ早く鼓動を打っているか分かるだろう。ロイス、あんたを世話する女が誰もいないのなら、私があんたの世話をして……」
「お嬢さん、ここは親睦会ですので、その様な男女の睦言はこれが終わってからにしていただけませんでしょうか?」
入り口の方から落ち着いた声が響く。その声にアルマは胸元に差し込んでいたロイスの手を戻すと、ドレスを直して長椅子から立ち上がった。ロイスもそれに倣って立ち上がる。見ると部屋にいた男達全員が立ち上がって入り口の方に向かって頭を下げていた。
「皆さん、これは親睦会でそれもまだ開場前の談話室です。私のことなど気にせずにお話を続けてください」
そう言うと、男は笑みを浮かべて辺りを見回した。アルマは白髪の入り口の男性に向かって淑女の礼をすると、頭をゆっくりと上げた。
「ヴォルテ叔父様、随分と早いお着きではないでしょうか?」
「そうですね。今回は会場を郊外にしていたのを忘れていましてね。思ったより早く着きました」
そう言うと、アルマに向かって紳士の淑女に対する礼をして見せた。
「それにどうやら冷え混んできたせいか、王都では風邪が流行っている様ですよ。郊外の新鮮な空気をゆっくりと味わうのは、我々の健康にもとても良いような気がします。最も健康法は人それぞれでしょうがね」
そう言うと、ヴォルテは口元に笑みを浮かべて見せた。
「はい、ヴォルテ叔父様。バリーさんの様に健康にとても気をつけていても、急な不幸に会われる方もいらっしゃいますので、十分に気をつけるべきですね」
「そうですね。我々は所詮は人ですので、運命に逆らうことはできません。それでも日々の健康こそが第一の宝ですよ」
「はい、叔父様。私はこの様な素敵な殿方と話をさせていただくのが、自分の健康には一番良いように思います」
そう言うとアルマはロイスの腕をぎゅっと掴んでみせた。部屋の中にいた男達の視線がロイスに向けられる。その目はこの絡んだ腕の意味を推し量っていた。
「それがお嬢さんの健康法ということであれば、多少は仕方がありませんな。ですがあくまで今日は親睦会であることをお忘れなく。それに風邪には十分に気をつけてください。どうやらいま王都で流行っている風邪はとても質が悪いものの様です」
「はい、ヴォルテ叔父様」
「そうそう、ロイスさん。今回の親睦会の席次ですが、いろいろと出席できなくなった方もいるようで、あなたの席次については、もう少し右側でもいいのではという話がありました。なので席に座る際には名札の確認をお願いします」
「はい。承知いたしました」
ロイスはヴォルテに向かって頭を下げた。バリーとその兄弟分だった者達が消えた。その分だけ席が右にずれたということらしい。ヴォルテはロイスに向かって軽く片手を上げると、談話室にいる他の者達に声をかけ始めた。
「流行り病ね。ロイス、あんたも気をつけるんだよ。ヴォルテおじさんがそう言うのだから、相当に質が悪い風邪なんだろうね」
そう言うとアルマはロイスに向かって、まるで十代の小娘の様な朗らかな笑みを浮かべてみせた。