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石ころ

 ジャネットは濃い紺色の侍従服に、いつもはその上から着ている白いエプロンを外した姿だった。そして辺りを用心深く伺いながら、その手に紺色の目立たぬ色の敷布も持ちつつ、真っ黒に見える学園の端の林を目指して歩いている。


 上限の月はあるがその光はか弱く、足元を照らすには暗い。だが白亜の塔についた灯りがそれを補ってくれている。それにジャネットは林へと続く小道はよく知った道だ。


 林の入り口で木立の影に身を隠すと、ジャネットは中を窺った。この手の依頼をしてくるものの中には、仲間内の遊びでけしかけられて来たりする者もいる。そんな遊びに巻き込まれたりすると厄介なだけだ。


 いくら警備員達の鼻を撫でてやっているとはいえ、騒ぎを起こして表沙汰になったりしたら、厄介どころの話ではない。ともかく足がつかないで、用心深く振る舞うのが大事だ。


 向こうは退学ぐらいですむが、ジャネットの方はその場でメナド川の魚の餌になってもおかしくはない。


 それでもこの学園に通うボンボン達の払いは気前が良かった。しかもあっという間に事が済んでくれる。屋敷勤めに比べてよほどに面倒がなく口も固い。


 ジャネットにとってはともかく都合がいい相手だ。場合によっては何もしなくても、勝手に金だけ置いて逃げていく場合もあるぐらいだ。


 そんな事を考えながらジャネットは林の中を覗っていた。だが人の気配はない。もしかしたら空振りなのかもしれなかった。依頼をしておいて、直前になって逃げるなどというのはよくあることだ。


『あんたとは全部が、何もかもが違うのさ』


 ジャネットの頭の中に不意に自分の声が響いた。だがその声は自分の中の知らない誰かが喋っているように聞こえる。


「…二度と同じことはしないで」


 ジャネットの目に栗色の目を持つ、頭の後ろで髪を高くまとめた少女の姿が見えた。マリアンだ。マリアンは木立の向こうからジャネットの方をじっと見つめている。


「ひっ!」


 その姿にジャネットの口から小さく悲鳴が漏れた。


『あんたとは全部が、何もかもが違うのさ』


 再び頭の中に自分に対する声が聞こえる。


『なんだい!なんなんだいあんたは!』


 ジャネットは心の中で自分自身に対して悲鳴を上げた。そして思わず身を寄せていた木の幹に背を預ける。気づくとまるで空気が吸えなくなってしまったかの様に息が荒い。


 ジャネットは腕に持つ折畳んだ紺色の敷布を力いっぱい抱きしめた。そして心の中で自分は普通なんだと呪文の様に唱える。そうしているうちにやっと息が普通に出来る様になった。


 気がつけばこちらをじっと見ていたはずの栗毛の少女の姿も消えている。ジャネットは自分に対して必死に言い聞かせた。あれがおかしいんだ。あの女が異常なんだ。


 いま自分がしようとしている事も、屋敷に勤める女達が多かれ少なかれやっている。何も特別な事ではない。こうして小金を稼ごうとしている自分が普通だ。そう己の心に告げると、林の奥へと慎重に足を踏み入れた。


 その奥に木立が切れてちょっとだけ開けた場所が見える。闇に慣れたジャネットの目はそこに小柄な人影があるのを見つけた。そして僅かに差し込む月明かりにその銀色の髪が輝くのが見える。


「初めまして」


 その少年は腰かけていた切り株から立ち上がると、ジャネットに向かって丁寧に淑女に対する礼をして見せた。そして顔を上げてにっこりと微笑んで見せる。その姿にジャネットは警戒した。


 その顔はまるでどこかの彫像が動き出したのではないかと思えるぐらい整った顔だ。女の方が飛びつく顔をしている。そもそも貴族の子弟の様には見えない。普通はもっと尊大で強がった態度をとるはずだ。それに女の扱い方を知らないようにも思えない。


「お金は先に頂きますけどいいですか? それにちゃんと払えるんですかね?」


 ジャネットはわざとつれない言い方で声を掛けた。その言葉に少年が頷いて見せる。ジャネットは少年の顔ではなく、その仕草や着ている制服、靴に視線を向けた。


 それは明らかに着古されたもののようにしか見えない。間違いない。たまにいる平民出のそれもなんとか背伸びして潜り込んだ口だ。


「はい。それはもちろんです」


 本当に金はあるのだろうか? ジャネットは疑わしく思ったが、少年の態度からは特に狼狽えるような様子はない。


「私は敷布の準備をしますので、そちらはお金の払いをお願いします」


 ジャネットは頷くと手にした紺色の敷布を地面に敷こうとした。


「ジャネットさん。私の用事はあなたとそこに寝っ転がる事じゃないんですよ」


 敷布を引いていたジャネットの手が止まる。そして頭を上げる事なく、林の外へ逃げるために足を反対の方へ向けようとした。


「逃げないでください。それでは私が困るんです」


 いきなりジャネットの背後から声が聞こえた。おかしい。さっきまで前に立っていたはずじゃ。そう思った時にはジャネットの体は敷布の上に押しつけられ、仰向けに転がされている。そして灰色の目がじっとジャネットを見つめていた。


「これでも剣の修行を、人を殺すための訓練をして来た者です。私が言っている意味は分かりますよね。なので、お願いですから暴れたり声を出したりはしないでください。それにこれはあなたにとっても、決して悪い話じゃないんです」


 そう言うと少年はジャネットに朗らかな笑顔を向けた。


「あなたはある人の元から逃げ出しましたよね。僕にあなたが逃げ出すのを手引きした人物が誰かを教えてもらいたいのです」


「分かったよ。どうやら年貢の納め時というやつなんだね。殺すのならさっさと殺しな。どうせそれを言っても言わなくても同じ事でしょう?」


「おや、どうしてそんな風に思うんですか?」


 少年がジャネットに首を傾げて見せる。


「だってそうじゃないか。私みたいな女はその辺の石ころみたいなもんだ。どこに行こうが何が起きようが、誰も気にしてなんかくれない。いてもいなくても同じさ。今までも、そしてこれからもそうだ」


 ジャネットの頭にまた例の声が響く。これから解放してくれるのなら、自分で死ぬ勇気などない自分を殺してくれるのなら、むしろありがたいくらいだ。


「ジャネットさん、僕はこれは悪い話じゃないと言ったはずです」


 そう言うと少年はジャネットの体を押さえていた手を退けると、敷布の上に膝を抱いて座り込んだ。そしてジャネットに手を差し伸べてその体を引き上げる。


「ジャネットさん、私の名前はヘクターです。あなたの想像通り、平民のくせに背伸びしてここに潜り込みました。あなたと同じですよ。その辺の石ころみたいな者です。このままだとせいぜいが貴婦人とか呼ばれている豚達の慰み者ですね」


 そう言うと、ジャネットの方を振り向いた。小娘なら一発で惚れさせそうな仕草だ。


「それでも何かに変われるかもしれないじゃないですか?」


「変われる?」


「そうですよ。石ころ以外の別の何かに変わるんです。そしてこれは僕らが変われるチャンスかもしれないんですよ」


 ヘクターはそう告げると、ジャネットに対して笑顔を向ける。自分よりはるかに年下の少年にも関わらず、その笑顔にジャネットは自分がとうに失くしていたはずの何かを思い出した。


「それならやっぱり敷布を使うべきだね。男女にもなれない相手を信用なんて出来ないよ」


 そうヘクターに告げると、今度はジャネットがヘクターの体を押し倒した。

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