腕
「見てください。間違いありません」
レオニートは副長官のアメデオが指し示した床の軌跡を、連絡通路の上から冷めた目で一瞥した。
床の上には星振が描く連続した曲線ではなく、まるで上から落ちた水滴が跳ねたかの様なめちゃくちゃな紋様が描かれている。この星見の塔に携わる者にとって、それが意味するものはただ一つだ。
「アメデオ君、この件については?」
「はい。箝口令は引いてあります」
「箝口令? そんな物は何の役にも立たない。これを知っていると思われるもの全員に、正式な星振に基づく宣誓をさせるんだ。もちろん君も例外ではない」
「そこまでする必要が……」
アメデオはそこで言葉を飲み込んだ。レオニートの目は真剣だ。つまりこのことを誰かに漏らした場合は命を取ると言っている。
「彼が星見官になってどれだけ経つ? 10年か? それとも20年か?」
「い、いえ」
「5年で腕になっても間違いなく天才と呼ばれるのだぞ。それがあの者はまだ一月を超えていない。それもその半分は病棟で寝ていたのだ。これが極秘でないのなら、一体何が極秘になるんだ?」
「はい、申し訳ありません」
「星見の塔の責任者として、彼を直ちに『腕』と認定する。腕としての警護と保護を今すぐに手配しろ。ただし他の腕達とはまだ接触させるな。私の方で相方を誰にするか考える」
「はい。承知致しました」
レオニートはアメデオが連絡通路を控えの間へ向かって移動していくのをじっと見つめた。
「愚か者めが!」
思わずその背中に向かって罵声が漏れた。自分の後釜を狙うような優秀な者であってはならないが、この事態が理解できないような愚か者なのは論外だ。
こんな短期間で星晨の力を使った物理的な干渉ができる者、腕になれるような者はこの世の人にはいない。つまりこれにはこの世の人以外の力が働いている可能性が高い。
コーンウェル候と志を同じにするレオニートはその様な力が存在し、自分達を影から支配している事を理解している。それからの真の開放の為の器だ。
現時点ではあの男は純粋にこちらの依頼した任務を、イサベル・コーンウェルとそれを保護するアルベールを忠実に監視している。そしてその邪魔をしていた者を星振による物理的干渉で排除した。だが自分が何をしたのか、やった当人も分かっていないだろう。
これまでの行動を見る限り、あの男に手を貸している何かは自分達に敵対している訳ではない。かといって味方だという保証もない。
故にレオニートとしてはエドガーをこの任務から外すのも躊躇われた。外した場合、それがどの様な結果をもたらすのか想像も出来ない。
問題はそこだ。制御できていない力とはそれがどんなに強力だろうが無意味、いや、単に危険なだけの存在に過ぎない。
「あの男に対する監視の仕方こそが大事ということか……」
レオニートはそう呟くと再び床の紋様を眺めた。何とも面倒な話だ。そして下にいるものに対して腕を振る。レオニートの合図に、床の端で待機していた男達が星振が描いた軌跡を素早く消しにかかった。
* * *
少女がこちらを見ている。だがそれは影絵の様な黒い姿だけで表情も何も見えない。それでもそれが自分を見つめているのだけはハッキリと分かった。
「フフフフ、面白い!楽しい!」
影がエドガーに語り掛ける。影はとても小柄で、その語り口はまだ幼い子供の様だ。だが本物の子供の様なあどけなさは何処にも感じられない。そこには子供が持つ無邪気な残忍さだけ存在している。
「次は何を壊すの?」
少女の影がエドガーに対して語りかけた。
「壊す?」
「そうよ。お邪魔虫の次。何も壊すものがないとつまらない!」
「壊すものなど何もない」
「エーー。つまんない。つまらないおもちゃは嫌い。つまらないと壊しちゃうよ」
表情は何も見えないが、エドガーはその影がニヤリと笑った様に思えた。
「フフフ、でもまだ壊してあげない。まだよ。まだよ」
影がエドガーの方に向かって手を伸ばす。やはり表情は見えないが、その口にある真っ赤な唇だけが見えた。それが薄く開いて、同じように真っ赤な舌が上唇を舐め回している。エドガーは身を翻してその影の手から逃れようとした。
「あなたは私の物。私のおもちゃ。ずっと、ずっと……」
「俺はお前のおもちゃじゃない!」
エドガーの目の前に見慣れない天井があった。水漏れの染みの一つもない真っ白な白い天井だ。昨日レオニート長官から塔が変わるから、宿舎も移れと言われてここに来たのだ。
星見官を務めるようになってから、エドガーは僅かな肌着と制服、それに最低限の物、それも官給のものだけしか使っていない。なのでほとんどその身一つでここに移って来ていた。
そう言えばここは何処なのだろう。昨日の夜は馬車に乗って移ってきただけなので何も思わなかったが、ここに着いて以来、物音一つ聞いた記憶がない。入った時から宿舎というよりは何処となく監獄めいた雰囲気が漂っていた様な気もする。
「やっとお目覚め?」
不意に足元の方から急に声が掛かかった。エドガーが慌てて寝台から飛び起きると、足元に置かれた椅子の背もたれを前にして、自分と同じぐらいの年齢の女性がこちらを見て座っている。
その姿は緑の髪に派手なピンクのリボン、さらに上着は白いレースがあしらわれた薄いピンクというちぐはぐな格好だ。そして背もたれに乗せた腕の上で気だるそうな表情を湛えている。
女性はエドガーに向かってフンと鼻を鳴らすと、おもむろに手にした書類ばさみの上の紙をめくって見せた。
「エドガー、エドガー・ラッセル。王宮魔法庁に入って2年弱。入った後は執行部で執行官補。そして先月にいきなり星見官に移動。そして最初の勤務後に体調を崩して一週間ほど入院。そして復帰。あんた何者?」
女性は書類から視線を上げると、疑わしそうな顔でエドガーの方を見た。
「執行官補時代の成績を見る限り、可もなく不可もなく。評価もあんたの上司だった執行官があんたには見所があると書いてあるだけ。それだけの人間がいきなり星見官になって、この黒曜の塔の配属になった訳?」
「君は一体誰なんだ?」
「誰とは失礼ね。あんたの同僚に決まっているでしょう。それもあんたのお守りを押し付けられた、とってもかわいそうな、そしていたいけな女よ」
そう言うと女性はエドガーに向かって片目を瞑って見せた。だが特に何も反応を見せなかったエドガーの表情を見ると、ちょっとだけ機嫌が良くなったかに見えた顔を不機嫌そうにする。
「もしかして、あんたは『腕』についても、黒曜の塔についても何も知らないでここに来ているの?」
「黒曜の塔?」
エドガーの当惑した声に女性がさらに顔をしかめる。
「あのはげ親父はそれもひっくるめて、全部私に押し付けるつもりなのね。組ませるのなら全部の資料を寄越せと言ったら素直に寄越す訳だわ」
そう告げると下を向いた。独り言だろうか、「あの親父ぶっ殺す」とか、「残った毛を一本一本抜いてやる」とか物騒な台詞がエドガーの耳に聞こえてくる。やがて女性は諦めたように顔を上げた。
「ここの男はおっさんばっかりだから、『年が近い若い男の面倒を見ろ』と言う言葉に釣られた私も悪いのか。よくも私の乙女心を弄んでくれたわね。でもあんた不健康で暗い顔をしているけど、元々は可愛い顔をしていたみたいだから、磨けばなんとかなるかな?」
「だから、君は一体誰なんだ?」
「あんたは本当のお馬鹿さんね」
エドガーの体が寝台の上から持ち上がった。
『「目に見えぬ手」、簡単な術じゃない。一体いつ詠唱したんだ!?』
エドガーが首を捻って下を見ると、女の手にはいつの間にかピンク色の杖が握られており、床には紙が撒かれていた。その紙の上に簡易陣が描かれているのが見える。簡易陣にも関わらず、その詠唱の速さと正確さにエドガーは舌を巻いた。
「私は腕の一人、『ナターシャ・グーテルマン』、あなたの相棒にして監視者」
女が冷めた目でエドガーを見ながら声を掛けた。
「相棒?」
「そうよ。腕は基本的に一人では行動しない。でも助け合う為なんかじゃない。お互いを監視するためよ。それでも相棒だからね、特別に私の本名を教えてあげたの。少しは感謝しなさい。だけど普段その名で私を呼んだら殺すからね。私の二つ名は『斧』よ。初めまして『大足』さん。これからよろしくね」
そう告げると、いつの間にか手にした棒付きの飴をエドガーに向けて振りかざした。
「ドン!」
部屋の中に大きな音が響いた。それは空中に浮かんでいたエドガーの体が寝台の上へと落下した音だった。