無詠唱
トカスは簡素な付き添い人控えのテントの下で大きくあくびをした。どうやらやっとこの運動祭とか言うのも終わってくれたらしい。トカスは前に置いた椅子に乗せていた足を下ろすと、腕をあげて大きく背伸びをした。
暗殺ギルドから依頼を受けていた時にはたまにのんびりするのも悪くはないと思っていたが、これはむしろ拷問に近い。もしかしたらあの男は暗殺ギルドを崩壊させた事を実は恨んでいて、自分が一番苦しむ方法でその罰を与えようとしているのではないか、そんな気さえもしてくる。
トカスは伸びをしながら、ぐるりとテントの中を見渡した。他の付き添い人達、実質的には護衛役と言う名の監視役は、使用人らしい態度で男性同士女性同士で座りながら、差し障りのない範囲で小声でおしゃべりなどをしている。
最も使用人とは思えない態度で足を投げ出して座っているトカスの周りには誰もいない。だがもう一人周りに誰も寄せ付けることなく座っている人物がいた。もちろんトカスの様なふざけた態度をとっているからではない。
その人物は濃い紺色の制服に全く飾りっけのない黒い手袋をして、テントの下であるにもかかわらず、黒い日除けの傘をさしていた。そして背筋を伸ばし、微動だにすることなく座っている。
最初に学園の事務官らしき男性が、「先生、こちらではなく教員の控えの方へ」と告げたが、それを一瞥しただけで全く動く気配はなかった。事務員も諦めたらしくその後は声を掛ける事もなく、そのままここにじっと座っている。
「やっと終わりましたね。御家のべリッタお嬢様の走りはなかなかお見事でした」
「いえ、そちらのマルチェ様もサバーニー家の名に恥じない見事な演技で……」
テントの下では付き添い人同士での追従と謎の謙遜に満ち溢れた中身のない会話が続いている。それを聞いたトカスはフンと鼻を鳴らした。その大層立派なお嬢さんやらお坊ちゃんが、いざ己の命が終わると分かった時にはどれだけ泣き叫ぶか知っているのか? 思わずそんなことが頭に浮かぶ。
トカスにとってはこいつらのおしゃべりはともかくうるさい上に気に障って仕方がない。オリヴィアがお姫様抱っこされた時に、一部の者達が「はしたない!」とか漏らしたのを聞いた際には、思わず全員を穴の向こうに送ってやろうかと思ったぐらいだった。
だが赤毛の少女が鳶色の髪の王子と二人三脚とか言う競技をしたときに、付き添い人の一部が「王子様相手になんてふしだらな!」と言う発言をしたときは見ものだった。テントの前の方で日傘を手に座っていたロゼッタがゆっくりと後ろを振り返ると、そこに座っている面々を見回した。
発言者やそれに追随しようとしていた何人かが「ひっ!」と、小さく声を漏らした。その目の冷たさは数々の死線を潜ってきているはずのトカスでさえ、首の後ろの産毛が逆立つような気がしたくらいだった。それ以降しばらくの時間は誰も声を上げるものはいなかった。
おかげでトカスはよく昼寝をすることができた。だがその退屈な時間ももう終わりだ。片付けを終えた生徒達が教室へと戻っていく姿が見える。その時だった。トカスは懐の中に入れている伸縮式の杖に手を伸ばした。
『何だこれは!』
トカスの目に一陣の風が舞うのが見える。それは枯れかけた芝生の上を横切ると、貴族どもが座っていた派手な天幕を持ち上げ、それを天高く吹き飛ばした。
魔法職としての感覚が何らかの力が動いたことを感知している。だがその術式もそれを呼び出すための穴が開いた気配もどこにもない。トカスがいざという時のために張っておいたあらゆる術への対抗策は、そのどれもが力の元を捉えてはいなかった。
『無詠唱!』
たかが一陣の風だ。だがそれを引き起こしたものは間違いなくトカスの師が真言と呼んでいたものだ。トカスは全ての神経を張り詰めて魔法職としての感覚を研ぎ澄ませた。やはり詠唱や穴が開いた気配は何処にもない。
本来、魔法職が使う力と言うものは、他の魔法職から見れば夜中に銅鑼を叩いて行進する様なものなのだ。それを完全に消す事など出来ない。だから魔法職同士の争いは腹の探り合い、足の引っ張り合いに終始するのだ。
一体どうやって張り巡らせたか分からないこの学園の数々の魔法的仕掛けにしても、トカスが時間をかけ骨を折って調べた限りではやはり通常の力、穴の向こう側の力を使っている。だがこれは全く違う何かだ。
トカスはテントの先にいる濃紺の制服をきた女性を見つめた。この女の仕業なのか? だがこの女からは何の気配もしない。この女ではないのか? ならば一体誰なんだ? トカスはいつの間にか立ち上がっていた。そして懐で杖を握る手は汗でべっとりと濡れている。
「今日の運動祭は無事につつがなく終わった様ですね」
不意にかかった声に、トカスは直接に心臓を掴まれたかの様な思いがした。いつの間にか一部の隙もなく濃紺の制服を着たロゼッタが隣にいる。
「私はこれにて失礼させていただきます」
ロゼッタはトカスにそう告げると、日傘を閉じてゆっくりと使用人宿舎の方へと去っていく。トカスはその背中を思わず驚きの表情を浮かべながら眺めた。トカスに声をかけたロゼッタの口元には、トカスがこれまで見たことが無い表情、笑みが浮かんでいた
* * *
「これは一体何なんだ!」
灯も何もない真っ暗な部屋の中に、驚きとも戸惑いともどちらとも言えない叫びが上がった。
「ま、間違いない。器だ」
そう答えた声は震えている様にすら聞こえる。
「だが誰なのかは全く分からぬ」
「こちらが放った白血は全て何者かによって排除されてしまった。なぜだ? どうしてあれが見えた」
最初の声が上げた台詞には焦りの色がある。
「外からの干渉なのは間違いない」
「外から? ならば腕か? 王宮魔法庁が干渉したということか!?」
その答えに驚きの声が上がった。そしてしばしの沈黙の時が流れる。
「まさか、エイルマー達の仕業か?」
再び上がった声はどこか訝しげる様な口調だった。
「あれにそれほどの力があるはずはない。あれらが己のものだと思っている力は全て我々が与えたものなのだ」
「では何が?」
「それを詮索するのは後で良い。ともかく間違いなく器はこの中にいる。シモン? お前の鳥は何かを見つけられなかったのか?」
今まで会話に入っていなかった声が二つの声を制した。そしてシモンに問いかける。しかしその呼びかけにシモンの答えはなかった。
「シモン? 聞いているのか?」
たまらず声が再度聞き直した。その時だった。部屋の中に黄色い明かりがいきなり灯った。それはシモンが片手に持つ油灯の灯りだ。その小さな黄色い明かりが、もう片方の手に持つ銀色の鳥籠を映し出している。その籠の中では緑と赤の派手な羽をした鳥が、鳥籠の底に力なく落ちているのが見えた。
「許さぬ」
シモンの口からいつもの寝言の様なおっとりとした口調とは違う、明らかに殺気を含んだ声が漏れた。その小さな黄色い明かりは天井から吊るされた多くの銀色の鳥籠も映し出している。その背後の壁には羽を持ついくつもの大きな黒い影が、その羽を忙しげに、そして苛立たしげに動かしていた。
「この仇は必ず打たせてもらう!」
シモンはそう告げると、手にした油灯の火をふっとかき消した。
第5章「疾走」これにて終了です。長い章になってしまいましたが、お付き合い頂きまして、ありがとうございました。お忙しいとは思いますが、ここまでの感想を一言でも頂けますと、とてもやる気が出ます。いや、それだけを楽しみに書いています。どうか今後ともよろしくお願い致します。