引き抜き
「これが店の帳簿だ」
ライサ商会の店主、確か名前はカールとかいう男が、テーブルの上の書類の束を叩いて見せた。そこから上がった埃があたりに舞う。
「そしてこちらがこの店の裏帳簿だ。本当の帳簿はこちらだと言っても間違いはない」
そう言うと別の山の帳簿、こちらは先ほどの山よりは大分こじんまりとした帳簿を叩いた。そこからはほとんど埃は上がらない。エイブラムは隣に座るコリーと顔を見合わせると、何か口を開こうとしたが、何も絞り出すことが出来ずにいた。
どういう経緯かは未だによく分かっていないが、イーゴリ商会を無事に辞められて、それも幼馴染のコリーと一緒に辞められて、ともかくこの自由な気分を満喫しつつ、酒場の片隅で未来を語りあったところまでは何も問題が無かった。
だが店を出たとたんに、真っ黒な窓がない馬車が目の前に止まって、中から現れた男から「元イーゴリ商会のエイブラムさんに、コリーさんですね?」と声を掛けられた後からが問題だった。
二人はいつの間にか背後に居た男達によって、馬車の中に押し込められると、王都の外れの方にあるらしい屋敷へと連れて行かれた。
イーゴリが俺達に自由を与えたのは、手っ取り早くあの世に送るためだったのかと、わが身の浅はかさを恨む間もなく、この居間へと連れてこられてこの男と対面することになった。
男はライサ商会の店主だと、俺達二人に向かって投げやりに自己紹介すると、いきなり君達二人に店の全てを任すと宣言した。引き抜きの誘いだとしても、あまりに荒っぽいやり方だ。
「店の者には君が新しい番頭で、私の代理かつ代表でもあると言ってある。君の友人については君が好きな役職に就ければいい。色々と都合があって裏帳簿は分散してあるから、これ以外にももう少しある。それも間もなくここに届くはずだ」
男の顔は青白く、かってはとてもふくよかだったと思えるその頬はげっそりと痩せている。もしかして医者か何かに、死病にでもかかっていて手遅れだとでも宣言されたのだろうか? 俺が知る限り、ライサ商会も死にかけであることについては、似たようなもののはずだ。
「隣のエイブラムも同じだと思いますが、正直な所、私達はどうしてここに招待されたのかも含めて、何も話が見えていません」
隣に座るコリーが男に向かって口を開いた。その通りだ。イーゴリを辞められたことだって狐につままれた思いなんだ。
「君達は何も聞いていないのか?」
男がとても驚いた顔をしてこちらを見た。男の言葉に再びコリーと顔を見合わせる。
「いえ、何も?」
「使いもか?」
男がささやくように俺達に告げた。その声は商人が商談をする声ではない。穴の向こうから来るものに対する恐れを語っているような声だ。
そう言えば、イーゴリの番頭も俺に向かって最後に何か言いよどんだときも、何かをはばかるような、恐れるような声をしていた。俺達の裏で一体何が動いているんだ?
「旦那様、よろしいでしょうか?」
背後の扉を軽くノックする音と共に、誰かが入室の許可を求める声が聞こえた。若い女性の声だ。この家の侍従か下働きの娘だろうか?
「あ……あい……開いている。は……入り給え」
目の前の男は慌てふためきながらその声に答えた。この男は一体何を恐れているんだ? 税務省の緊急査察をくらってもこんなに驚いたりはしないぞ?
「失礼します」
店員の制服だろうか?
袖と裾に白いレースが縁どられた紺色の地味な服を着た若い女性が、扉の向こうで頭を下げている。彼女は濃い茶色の表紙の帳簿の山を乗せた、銀色の台を押して部屋の中へ入って来ると、頭を上げた。
栗色の目に同じ色の長い髪を、頭の高いところにまとめて下ろしている。肌はかすかに日焼けしている様に見えた。この子は……。
「ご……ご苦労さん」
「どちらに置けばよろしいでしょうか?」
「あ、あっ……この帳簿の横に……ここに台ごと置いてくれ」
男は何度もどもりながら、少女に決して目を合わせることなく答えた。何でこの男はこの年端も行かない娘を恐れているんだ?
「はい。それと旦那様に伝言を承っております」
「伝言?」
「はい、帳簿の残りの件でご相談があるそうです」
「帳簿?」
「はい」
「分かった。す……すぐに行く。君は……帳簿を、卓に置いて、お二人の手伝いをし、し給え」
「申し訳ないが、しばし席を外させてもらう」
男はそう言うと、まるで逃げるように扉の外へと消えて行った。
「エイブラム様、ご無沙汰しております。どうかごゆっくりとお過ごしください」
少女はそう言うと、俺に向かって頭を下げて見せた。そして男の後を追うように部屋から退出する。コリーは閉じた扉をじっと見つめている俺に気が付くと、声を掛けてきた。
「エイブラム、もしかしてお前が酒場で見た幻の話は……」
「ああ、コリー。あの子だ」
* * *
「そっちはどうだ?」
顔に浮いてきた油をハンカチで拭いて、隣で帳簿に目を落とすコリーに声を掛けた。
「大体見えた。典型的な循環取引だな。だが大胆すぎるというか、これだけ気合を入れて大規模にやるとは恐れ入るね。商会というより詐欺師そのものだよ」
コリーが帳簿に目を落としたままこちらに答えた。まあ、そんなとこだろうな。
「額的には?」
「ごく一部のまともな売り上げを除いて、大口の売り上げに見えるものはほとんどそれじゃないかな。ただぐるりと回しているだけじゃない。ライサ商会が大元になって、下ろしたものを先で分割してさらに再委託、それを買い戻すというやり方だ。ご丁寧に帳簿だけじゃなく、一部は物も実際に回して偽装している。もっとも回している物の在庫評価自体もあてにはならないから、帳簿だけでやっているのと大差はない。単に手間賃が増えているだけだね」
中身は何もない、すっからかんか。いや、ないものをあるように見せているのだから、コリーが言う通り詐欺師そのものだ。
「こっちも実態が見えた。資産のほとんども戻ってくる当てのないカスティオールへの貸付だ。それを手形化して循環取引の決済に使って飛ばしている。監査をやったら、全部損金の引き当てを迫られるところだ。当座の現金はカスティオールからの税収をそのまま横取りして、なんとか資金繰りをつけていたみたいだな。カスティオールと一緒になっての自転車操業だ。それもここ数年は、カスティオールでの穴がらみの騒動で先細りしている」
「まともな売り上げと言うのは?」
「一部の鉱山への労働派遣に関する手数料商売。これはカスティオールの難民相手だね。利益と言ってもこれは、道義上どうかというような上前のはね方だよ。それと運送部門だけはまともに見える。もともとはカスティオール向けの海運だったんだが、カスティオール領から物がほとんど出ないもんだから、他向けに切り替えた。その辺りが唯一のまともな稼ぎだというのだから笑えるね。だけどこれも船の償却は終わっているから、見かけだけの黒字かもしれない。帳簿上は船の維持に必要な資金が投入されている様には見えない」
「店の者は?」
コリーがこちらに問い掛けてきた。経理担当のコリーからしたら労務管理は俺の仕事という事だ。
「辞めた者も多いが、他に行きようがない奴の吹き溜まりという所だ。おそらくだが、あちらこちらの店の手癖が悪い連中が、ここの連中を使って穴埋めやら成績の偽装に使っているんじゃないかな。店からの払いはほとんどないのに、まだ残っているやつがいるのはそのせいだと思う。海運は上が全部抜けたせいか、元々は現場のまだ若い奴が仕切っている。海運だけがまともなのは、そのせいだろうな。俺がまだイーゴリにいたら、ここの海運だけは買ってもいいと思う」
沈みかかった船にも人はいるらしい。それが海運だというのはまるで洒落のようだ。
「カスティオールに対する貸し付けについても、少し前のやつを調べてみたが、取引としては実態があったのかすらよく分からないやつがいっぱいある。まるで落ちぶれた商会がのっとり屋にしゃぶられる時みたいだよ」
「カスティオールに、取引が分かるまともな人がいなかったという事か?」
「むしろ逆で、カスティオールの方がライサに骨までしゃぶられていたんだろうね。ライサ商会はカスティオールと一緒につぶれかかっていると言われていたけど、帳面を見る限りは、この商会がカスティオールが衰退した原因の一つと言ってもいい」
詐欺師というだけじゃなく、泥棒でもあったという事か。
「組合だけじゃない。内部監査も何もなしだ。伸びるときは良いが、落ち目になった時の同族経営の弊害という奴がてんこ盛りだな」
同族も伸びるときには上意下達が効いていいが、店が傾くと悪い面が急激に出る。イーゴリもその一歩手前だった。俺達はそれを避ける為に必死に努力していた。今ではどうでもいい話だ。
「そうだね。循環取引にはここだけじゃなく、いろいろな商会が絡んでいる。それをネタにうまく借受を帳消しにできれば、海運と労務斡旋でうまく行ける気もしなくはないよ。労務斡旋はともかくピンハネだけでめちゃくちゃだ。そもそもカスティオールからの難民には教育が行き届いている人も多くて良質な労働力なのに、一律鉱山いきだ。こんなめちゃくちゃなやり方はない。事業の継続性という議論以前だ」
意外だな、生粋の経理屋のコリーも俺と同じ感想を持っている。
「それよりここがつぶれて、この循環取引と裏取引が全部表に出たら、王都の商会は大混乱だな。数年、いや10年ぐらいは立ち直れないかもしれないぞ。組合の監査が全く効いていない証拠そのものだ。こいつの闇は相当に深い。すぐにでも商会が集まって協議するような話だ。先に税務省やら商務省あたりに漏れたら大ごとだからな」
俺とコリーは帳簿の山に囲まれながら床に座っている。床には俺とコリーが書き留めた数字が山と書かれた紙が散らかっていた。正直な所、なんでこんなことを二人で真剣にやっているのかすらよく分からない。自分達とは関係がない店の関係がない話だというのに。
どうやらコリーも同じことを思いついたらしい。
「はははっははは、」「ははははは!」
俺とコリーの口から同時に笑い声が漏れた。
「何で俺達はこんなことを真剣にやっているんだ?」
「おかしいね。イーゴリをやっと辞められたばっかりだと言うのに」
「お二人が本当の商人だからではないでしょうか?」
俺とコリーは腰を浮かして、帳簿の山の向こうから聞こえた声の方を見た。
そこには例の鳶色の髪の少女が、銀の台を手にいつの間にか部屋の中に居た。