学び
「フレデリカさん。教室は静寂の中で知性を働かせるべき場所であり、そのような声を発すべきところではありません」
奇声をあげてしまった私をロゼッタさんがジロリと睨んだ。他の人からは単に見ているだけのように思えるだろうが、私にははっきりと分かる。これはやばい目です。
「はい、申し訳ありません」
「以後は気をつけてください。それでは前任のイラーリオ先生の方から出されていた課題について、私の方から皆さんにお返しさせて頂きます」
そう言うと、ロゼッタさんは皆が提出したノートを教壇の上へと置いた。そこには私のノートはない。それに気がついた瞬間に背筋に冷たいものが流れた。今感じている恐怖に比べたら、目玉おばけなど全く大した事がないようにすら思えるぐらいだ。
そして何冊かを横によけると、残ったノートの山を指でつついた。やはりまずいです。この仕草をするロゼッタさんは要注意です。明らかにそこに何か問題があることを示しています。
「こちらの提出内容ですが、おそらく過去に提出された誰かの解答を写したものと推測します」
そう告げるとロゼッタさんは教室の中を見回した。皆さん、これはとってもまずいです。皆さんは明らかに踏んではいけない物を踏みました。これがどれだけまずいことか早々に理解すべきです。
「学ぶと言うことは先人の努力を元にする物ですから、それを理解することはとても大事な事です。ですがそれをただ写すという作業は学習と呼べる物ではありません。むしろ先人の努力に対する冒涜のような物です」
ロゼッタさんの発言に教室の中が凍りつく。どうやら私以外の人にも、目の前に立つ黒髪に黒い目を持つ女性が只者では無いことが理解出来た様だ。
「正解を書くことだけが目的ではありません。仮に書けなくても、思考の過程こそが学びであり、知性と呼ぶべきものです」
そう言うと、ロゼッタさんはいくつかのノートを広げて見せた。そこには寸分違わぬ図と回答らしき文言が書いてある。
「人は多くの事を理解し、多くの知識を積み上げてきました。その中には新しい発見だけではなく、先人の理解の間違いに対する訂正も含まれています。皆さんが学ぶと言うことは単に知識を記憶として得るのではなく、その価値を理解し、さらに先を見い出せるような知性を得る為のものなのです」
ロゼッタさんが微かに唇の端を持ち上げて、私達に微笑んで見せた。
「皆さんにはそのような学習を、そして人が人たる知性を備えた人物になることを期待します。それを支援することこそが、私達教師の仕事であり責任でもあるのです」
そう言うと、ロゼッタさんがチラリと私の方を見た。
「何もしないと言うのは論外です」
その顔には先程の微笑みの名残すらない。とても冷ややかな表情だ。ま、まずいです。これは当分の間は睡眠時間がなくなりそうな気がします。ロゼッタさんは私から視線を外すと、背後に座るオリヴィアさんの方へ視線を向けた。そして山から取り分けた一冊のノートを手に取る。
「オリヴィアさん」
「は、はい」
オリヴィアさんが驚いた顔をしながらロゼッタさんに返事をした。
「こちらの回答はイラーリオ先生が期待した答えと一致はしていないと思いますが、このノートに記述してある条件に関する疑問については見事です。厳密に言えばイラーリオ先生の出した条件では解は一意に定まりません。この様な推察及び、前提条件に関する考察というのはとても大事なことです」
「はい。ありがとうございます」
「今後は知識の幅を広げて、考察で終わることなく、結論まで導ける様になってください。知識とは断片ではなく集合体であり、多角的に活用すべき物です」
「はい」
ロゼッタさんがオリヴィアさんに頷いて見せた。私は沢山の時間をロゼッタさんと過ごしたが、褒められたことは殆ど無い。勉強については特にそうだ。いきなり褒められたオリヴィアさんがとても羨ましく思えてしまう。
「では今日の授業を始めます。皆さんには相似という考え方と、それが現実の問題においてどのように活用できるものなのかを説明します。教科書を閉じて黒板に注目してください」
そう言うと、ロゼッタさんは一本の木とそれの高さを測ろうとしている人物の絵を書いた。私にとってはとても懐かしく感じる絵だ。
「フレデリカさん」
「はい!」
「長さが分かっている棒でこの木の高さを測る方法について説明をお願いします」
「え、えーとですね……」
思わず顔をそむけて下を向いた。なぜだろう。この絵とロゼッタさんに呆れられた事は事細かに覚えて居るのに、回答が全く思い出せない。
「どうかしました?」
ロゼッタさんの問いかけに顔を上げる事すらためらわれた。上げればロゼッタさんの視線を直視することになる。
「はい。黒虫が足元を通った様な気がしたので気になりました」
「黒虫!?」「キャーーーー!」
しまった。適当な理由を間違えました。教室の中に生徒達の悲鳴が飛び交う。上げてしまった視線の先ではロゼッタさんがじっと私を見つめている。明らかにその黒い瞳はとても冷ややかで、取り付く島もないようにしか思えなかった。