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教育者

「教授、起きてください。ハッセ教授!」


 メルヴィは教務室の机に座って前を見ているように見えるが、明らかにうたた寝をしているハッセに対して小声で声をかけた。


 どこかの誰かが研究棟で「永遠の腐敗の息吹」というとんでもない術をかけてくれたおかげで、研究棟自体が立ち入り禁止になっている。おかげで仕事中は他の教師と一緒になるこの教務室にて仕事をしないといけない状況だ。


 他人のことなど明らかに何も目に入っていないハッセはともかく、若輩のメルヴィとしては学園の名だたる教授達と席を同じにしているだけでも気をつかってしまって、肩が凝って仕方がない。いや、それだけではない。ハッセの奇行に対する冷ややかな視線を受け止めるのは自分なのだ。


「ハッセ教授。()()()()()()()


 メルヴィは小声と呼べる範囲で、最大限にドスを効かせて声をかけた。だが反応は一切ない。これはだめだ。メルヴィはハッセが座っていた椅子を思いっきり蹴飛ばした。


「ガシャン、ドン、ザザザー!」


 ハッセが派手にひっくり返ったのは、メルヴィの計算より床の摩擦係数が少なかった事が主たる原因であり、副次的な要因として、自分が与えた力がちょっとだけ予定より大きかった事によるものだ。


 だがその結果はメルヴィの予想を大きく超えるものだった。派手にひっくり返ったハッセの脚は、彼の紅茶と食べかけの菓子が載った盆をひっくり返し、さらに机の上の書類の束を床に撒き散らすという結果をもたらした。


『なんでこの床はこんなに滑りやすいんだ?』


 メルヴィはそう思ったが後の祭りだ。授業後の帰り支度の時間で少しざわついていた教務室の中はシーンと静まり返っている。


「おほほほほ。大変失礼しました」


 メリヴィは誰にも視線を合わせないようにしてそう答えると、床に転がっているハッセの耳を引っ張った。


「ハッセ先生、黒い虫一匹如きにそんなに驚いてはいけません!」


「黒い虫? 一体なんのことだ」


「はい。先ほど教授が見たと思しき虫です。とても素早いのでどこかに行ってしまいました。食べ物を出しっぱなしにしているからです」


 再び業務室にざわめきが戻る。教授達が互いに挨拶をしながら、壁際にある上着をとっては部屋を出ていく。まだ何人かは残っていたが、部屋の中は閑散とした雰囲気を醸し出していた。


「虫についてだが……」


 ハッセが床に散らばった書類を拾いながらメルヴィに声をかけた。紅茶については全てハッセの服が吸収した様だが、それについてはハッセは何も気にしていないらしい。


「虫については終了です」


「そうかい。まあいいけど。そういえば夢の中で誰かが私を呼んでいた様な気がするのだけど、もしかしたらそれはこの世界に平行に存在する……」


「全くもって違います。それは私です」


「なんだ。並行世界の実在性と世界線の分岐に関するいい事例だと思ったのだが……」


「それよりも、これを見てください」


 メルヴィは床の上の書類をやっとまとめて机においたハッセに声をかけた。


「借り物競争、二人三脚? 何だいこれは?」


「生徒会から上がってきた一年生の自由競技に関する希望案です」


「こんな競技があるとは知らなかったな」


「私もです。過去の自由競技に関する資料を確認しましたが、この二つの競技に関しては影も形もありませんでした」


「へー。それは興味深いね。極めて創造的な活動だよ」


「創造的なのはいいのですが、かなり危険でもあります」


「危険?」


「はい。女子代表から案として上がっている借り物競争ですが、規則は示されていますが境界が存在しません。つまり生徒側の企画によってどの様なものでも持ち込めるということになります。秩序が存在しません」


「とりあえずは物理的な存在である必要はあるとは思うけどね」


「男性の下着とか書く可能性もあるのですよ?」


「物理的な存在ではあるね」


「そういう問題ではありません。それにもっと問題なのは男子生徒からの提案です」


「二人三脚かい?」


「はい。これは男女の足を結んで走らせるという道徳感の欠片もない競技です。断固として拒否すべきです」


「メルヴィ君」


「はい」


「これについての決定権は僕にあるという理解で合っているかな?」


「はい。イラーリオ教授が退職されて、次の正式な主任教授が決まるまでは、臨時であっても教授が主任教授です」


「まあ、主任かどうかなんて大した問題では……」


「あります。何より給金が違います。私の給金も変わるんです。絶対に失ってはいけません」


「給金についてはさておき、決定権があるというのであればなんの問題もない」


「はい。教授が拒否すればそれで……」


「承認するよ。これは教育者として絶対に認めるべきものだ。二人三脚とダンスの何が違うというのかな? ダンスにおいても手は繋いでいるよ。それを足に替えてはいけない理由があるのかな?」


「密着感が違います」


「ダンスで腰に手を当てる方がよほどに密着感があると思うけどね。そもそも前例をただ踏襲するというのは学問を志すものにとっての禁忌のようなものだよ。それは先達への敬意とは全く異なるものだ。この生徒の自主性と挑戦を拒むようなことを私は決してしないよ。むしろ最大限の協力をさせてもらう。必要があれば……」


「は、はい。了解しました。ではその旨、生徒会の方へは回答しておきます。そう告げると、メルヴィは慌ててハッセの元を立ち去った。


 教務室の外に出たメルヴィは額の汗を拭った。そして背後の扉を振り返る。この汗は暑さによるものでは決してない。そして前を向くと大きく深呼吸をする。


『必要があれば』


 メルヴィはハッセがその台詞の先に何を言おうとしたのかを十分に理解していた。


『穴だ』


 そして自分も決してその例外ではない。生徒達はどうやら私の事を怖がっているらしい。確かに側から見れば、そう見えるかもしれない。だけど彼らはまだ本当の恐怖を、それをもたらすものがどの様な者なのかをまだ知らない。


* * *


「イサベルさん、オリヴィアさん、やりました!借り物競争が通りました」


 先ほどメルヴィ先生が届けてくれた書類の中身を見た私は二人に向かって叫んだ。


「やりましたね」「よかったです」


 イサベルさんもオリヴィアさんも歓声を上げる。そして三人でそれぞれ両手を叩きあった。これは本当だったら乾杯すべき案件ですよ。今晩でも早速三人で祝杯をあげたいところです。この学園の食堂ではお酒は出してくれないんですかね。乾杯は大事です!


「でも三人で一緒の組になれないのは残念ですね」


 オリヴィアさんがいかにも寂しそうに口を開いた。


「本当にそうですね。代表なんかにならなければよかったのですが」


 イサベルさんもオリヴィアさんに同意してみせる。


「でも代表になったからこそ、借り物競争を通せましたからね。贅沢は言えません」


 私は二人に答えた。そうです。恋の為ですからね。そのためには多少の犠牲は仕方がありません。いや、恋に犠牲は付き物です。むしろそれが恋を愛へと高めるのです!


「その通りですね。でも正直なところ、とても寂しく思います」


 オリヴィアさんはそう言うと私達二人を見た。もう、なんていじらしいんでしょう。これです。この台詞が言えれば世の男なんて全てイチコロです。女性の私から見ても可愛くて仕方がありません。


 エルヴィンさんは擦れてなさそうですから、イチコロどころではないと思います。これはある意味ではイサベルさんよりも無敵かもしれません。


「もう組みの中の各競技の参加者は決められましたか?」


 イサベルさんが私に問いかけた。それが私をオリヴィアさんが、世の男たちの守ってあげたいという心を全て集めて、裏から世界の全てを支配するという妄想から現実へと引き戻した。


「私のところはくじ引きにしてしまいましたので、大体決まりました」


「私のところも同じです。フレデリカさんはいかがでしょうか?」


『えっ、くじ引き!?』


 しまった。そういう手があったのか。真面目に誰にどの競技が向いているかなど考えていた私は、もしかしたら愚か者だったのだろうか? だけど私の赤組の場合、そのような提案をすると、ローナさんとかメラミーさん辺りから思いっきりバカにされそうな気もする。


「まあ、ぼちぼちです。リレーの参加者だけまだ決まっていないです」


 リレーは一番配点が高いので慎重には慎重を期す必要があります。それにですね、やるからには勝ちに行かせて頂きます。それにイサベルさんにはこれ以外で勝てる気がしません!


「代表にされた時にはどうなることかと思いましたが、とりあえずは何とかなりそうですね」


 イサベルさんがにっこりと微笑んだ。


「カーン、カーン!」


 お昼の終了5分前の鐘が鳴った。今日の午後はイラーリオ先生、もといあのおっさんの授業だけど、授業はあるのだろうか?


 少なくとも私が椅子を打ち下ろした怪我から、まだ復帰出来ているとは思えない。とても顔を合わせる気にはならないので、できれば私が卒業するまでずっと自習になってくれたりはしないだろうか?


 だが教室の前の入り口の窓のところに人影が映っている。もしかしてもう復帰? なんてしぶといおっさんなのだろう。あの嫌味男を無視して、もう一、二発は腹に蹴りを入れておくべきだった。


 他の生徒達も入り口の人影を察知したのか、慌てて席へと戻り始める。イラーリオ先生は時間前だろうが自分が教室に入った時に、既に生徒が着席していないと途端に機嫌が悪くなる。私も自分の席に着席すると、カバンから教科書とノートを取り出そうとした。


 入り口のドアが開いて、誰かが教室へと入ってくる音がする。鞄を覗き込んでいる私からはその姿は見えないが、足音を聞く限り、あのおっさんの足音ではない。やっぱり自習で、メルヴィ先生が自習用の教材を持ってきてくれたのだろうか?


 メルヴィ先生は別の意味であのおっさんよりもよほど恐ろしい。私は慌てて教科書とノートを探し出すと頭を上げた。


『あれ?』


 なんだろう? これは夢? もしかしたらお昼ご飯を食べたら眠くなってそのまま寝てしまったのだろうか?


「イラーリオ先生に代わって、本日より当分の間、この教室の数学を担当させていただきます」


 そう言うと、壇上の女性は教室の中をぐるりと見渡した。


「ロゼッタです。皆さん、よろしくお願いいたします」


「え、ええぇえぇええ!!」


 教室の中に私の奇声が響き渡った。

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