一目惚れ
オリヴィアは立ち上がると、忘れ物がないか部屋の中を見回した。部屋の中は窓から差し込んでくる夕日に赤く染まっている。生徒会で使っているこの小さな会議室の机の上に、幾つかの書類の束があるだけで、特に誰かの忘れ物の様なものはない。
自分と一緒だと遅くなるので、イサベルさんとフレデリカさんの二人には先に宿舎に戻ってもらっている。オリヴィアとしても、いつもいつも二人が自分に合わせてくれるのは心苦しい。でも体力も大分ついてきた様な気がするので、二人に迷惑をかけずに済むようになるのは、そう先の事では無いように思えた。
「フフフフ」
オリヴィアの口から小さく笑い声が漏れた。一年生の女子生徒の自由競技を、フレデリカの提案した借り物競争にすることに決めた後の、打ち合わせを思い出しての笑いだった。それは前半の組み分けの為の話し合いとは違って、本当に楽しい時間だった。
三人で借り物のアイデアを出し合ったのだが、フレデリカさんの暴走ぶりは中々だった。それにその中には自分やイサベルさんも知らない言葉もいっぱいあった。
「イケメンです!」
フレデリカさんの言った自分の知らない言葉の一つだ。何かと聞いたら、フレデリカは「容姿が優れている殿方の事です」と答えた。それを借り物競争に入れるといった時には驚いた。
イサベルさんもそれは人によって違うのでは無いかと言ったが、フレデリカは首を横に振ると、「ゴールの審判が認めるかどうかで決めればいいのです。要は私達の好みの問題です!」と答えた。
その真剣な表情に、オリヴィアもイサベルも思わず大笑いをしてしまった。もし家にいてそんな笑い声をあげたら、間違いなくお母様に叱られてしまう事だろう。
フレデリカさんは自分の事を屋敷に引きこもっていたと言っていたが、本当の事なのだろうか? 少なくとも橙組にいる女子生徒の中では、フレデリカさんが市井の言葉に一番通じているような気がする。
「フフフフ」
杖を手に戸口に向かったオリヴィアは、もう一度含み笑いを漏らした。今度の笑いは自分とイサベルさんでフレデリカに仕掛けたお礼についてだ。きっとフレデリカさんは驚くに違いない。そして自分が彼女にしてもらった事のお礼になるはずだ。
「トン、トン、ガラ!」
最初のノックから間を置かないで、いきなり部屋の扉が開いた。そこには背が高い男子生徒が、驚いた顔をしてこちらを見ている。
「あっ、あの?」
オリヴィアは驚いて手にした杖を落としそうになったが、どうやら相手の男子生徒もとても驚いている様子だった。
「申し訳ない。いや別に何か……俺は……」
どうやら自分より相手の男子生徒の方がよほどに狼狽えているらしい。オリヴィアは小さく深呼吸をして息を整えると、男子生徒に向かって声を掛けた。
「ヘルベルト様、何かご用事でしょうか?」
「あっ、はい。こちらに過去の自由競技に関する資料があると聞いて、そちらをお借りしようと思ってきました」
ヘルベルトは頭をかきながらオリヴィアに答えた。男子生徒との合同の会議では、いつも砕けた態度と表情を取っては、イアン王子から小言を言われている姿はそこにはない。オリヴィアはクスリと小さく笑った。
自分がフレデリカさんやイサベルさんが一緒に居ないと何も出来ないように、この人もイアン王子と一緒の時とそうでない時では別なのかもしれない。オリヴィアはそんな事を考えた。
「書類でしたら、こちらにあります」
オリヴィアは杖を机に立てかけると、机の上の書類の束に手を伸ばした。だがそれはそれなりに量があり、オリヴィアの腕はそれをうまく持ち上げることができない。それはオリヴィアの両手の中から床へと滑り落ちそうになった。
その時だった、誰かが自分の背中に触れたのが分かった。固く大きな胸だ。そして差し出された手が、オリヴィアの手から滑り落ちそうになっていた書類を全て掬い上げた。
「失礼。順番が分からなくなってしまうと大変なので……」
ヘルベルトが少しばかりバツの悪そうな顔をしながらオリヴィアに告げた。その黒い瞳がオリヴィアの瞳を見つめている。オリヴィアはその瞳の中に自分の顔が大きく写っているのを見た。
ヘルベルトは二人の距離がとても近い事に急に気がついたのか、慌ててオリヴィアの背後から離れた。そして照れ隠しのためか急に真面目な顔をして見せる。
「女子の自由競技は決まりましたか?」
「は、はい」
「えっ、もう決まったんですか?」
オリヴィアの言葉にヘルベルトが驚いた顔をする。
「はい。フレデリカさんのおかげで決められました」
「男子は全然決まりそうに無くて。参考までに何を選ばれたのでしょうか?」
「借り物競争です」
「借り物競争? なんですかそれは?」
「すいません。競技の内容についてはまだお伝えできません。失礼させていただきます。鍵は……」
「鍵は私の方でお預かりさせていただいて、間違いなく返却しておきます」
「それではヘルベルト様。失礼させていただきます」
オリヴィアはそう告げると、ヘルベルトを残して部屋を後にした。
* * *
ヘルベルトはオリヴィアが廊下の角を回って階段の下へと消えるまで、じっとその後ろ姿を見つめていた。そしてはっと我に返ると辺りを見回す。そして自分がオリヴィアの後ろ姿を見惚れていたのを見た者はいないか、辺りを確認した。
「なんて美しいんだ」
ヘルベルトの口から思わず言葉が漏れる。そしてそれを聞いた者がいないか再び辺りを見回した。最初の会合でその姿を見た時から、ヘルベルトはオリヴィアに心を奪われていた。
その白く透き通る様な肌は、満月の光の元で咲く月下美人を思い起こさせる美しさであり、そして誰かが常に助けてあげないと、失われてしまいそうな儚さもあった。
だが見かけとは異なり、その心は決して弱くなどない。ヘルベルトはオリヴィアがフレデリカを助けるために、会合を退席すると告げた時の表情を思い出した。
その友を思う決意に満ちた黒い瞳には、間違いなく凛とした美しさがあった。彼女が病気を克服できたのも、きっとその芯の強さがあったからに違いない。なんていじらしい娘だろう。これで惚れないなら男とは呼べない!
「困ったな」
ヘルベルトはそう口にすると、小さくため息を漏らした。どうやら彼女の心はある男の方へ向いているらしい。しかし何かが既に決まってしまっている訳ではない。もしかしたら自分にもまだ機会はあるかもしれない。
今日もイアンがいなくて、金髪と赤毛も居ないときに、彼女と会って話をする機会を得たのだ。それだけじゃない、彼女が書類を落としそうになった時に、偶然に彼女に触れる事が出来て、さらにその髪の匂いを嗅ぐことすらできた。神様は自分にも機会を与えようとしている気もする。
ヘルベルトは教室で見た、自分と同じぐらい背が高い男子生徒の事を思い出した。彼女が怪我をしそうな時に助けることができたなんて、何て運のいい男なんだ。一生分の幸運を使い果たしたとしか思えない。
でもそんな都合のいい偶然などあるのだろうか? 男子生徒が近づくことが禁じられている女子宿舎への道筋で、偶然に彼女がつまずいて転びそうな時に、偶然にそれを助ける?
『あまりに出来過ぎじゃないのか?』
ヘルベルトは思わず首を傾げた。これは自分の嫉妬からくる猜疑心だろうか? いや、まともな奴かどうか、一度は直接に話をして見る必要がある。それに家の者にやらせている最終の報告も急がせよう。
ヘルベルトはそう決めると、オリヴィアの髪の甘い香りを思い出しながら、自分が抱えている過去の自由競技に関する資料に視線を落とした。
「なんだこれ?」
その視線の先、紙の余白に何やら下手くそな絵といくつかの説明が書いてある。
「二人三脚?」
「おい、ヘルベルト。いつまで待たせるんだ。さっさと自由競技を決めないと……」
ヘルベルトの背後から、彼が一番よく知っている者の声が上がった。イアンだ。
「おい、ヘルベルト!聞いているのか?」
「イアン。決まったよ」
「何がだ?」
「自由競技だ。これで決まりだよ」
ヘルベルトはイアンの方を振り返ると、その下手くそな絵が描かれた紙を、イアンの前へと突き出した。