質問
「初めましてエルヴィンさん、紫組のイアンです。隣にいるのは同じく紫組のヘルベルトです」
エルヴィンは不意に声を掛けてきた、目の前に立つ鳶色の髪をもつ男子生徒と、その隣に立つ、それよりも頭半分以上背が高い黒髪の男子生徒を見上げた。黒髪の方の背の高さは自分と同じか、それよりも高いかも知れない。
二人が着る制服には綺麗に折り目がついており、綻びはもちろん、汚れなどどこにもない。今朝仕立て屋から届いたばかりの様にすら見える。自分が着ている誰かのお古とは全く違う。
『イアン?』
エルヴィンはその名前に、慌てて椅子を後ろに引くと立ち上がった。
「イアン王子様。不意の事で申し訳ありません」
エルヴィンは頭を下げた。王子がいきなり自分のところを訪ねてくるなどというのは想像もしていない。いや、自分が学園に入る前は剣の腕を認められて、王子から声を掛けられるなどというのを夢見ていたが、学園に入学してからこの方、様々な現実を前にそのような夢などは何処かに置き忘れていた。
そうだ。頭を下げただけではいけない。エルヴィンは膝をついて頭を垂れようとした。
「ちょ、ちょっと待ってくれないか?」
そう告げると、イアン王子が自分の方に手を伸ばして傅こうとしていた自分の体を持ち上げた。
「ここは王宮ではないので、その様な儀礼は不要にてお願いしたい」
目の前でイアンが慌てた様に声を上げた。その横の黒髪の生徒もエルヴィンに向かって首を横に振って見せる。その背後に見える生徒の何人かも、自分に向かって苦笑しているのが見えた。
『場違いを丸出しだ』
生徒達の表情に、エルヴィンは自分の首の後ろが熱くなるのが分かった。ヘクターなら平民出でも、下手な貴族の師弟以上にうまく振る舞えるのだろう。だが自分はその様な器用さは全く持ち合わせていない。
見るとその隣にはヘクターも立っており、こちらを心配そうに見ていた。その目はまるで「しっかりしろ!」と自分に言っているように見える。そしてその口が大きく動く。その動きは「あ」「い」「さ」「つ」と読めた。
「あ、はい。エルヴィンと申します。よろしくお願い致します」
エルヴィンの答えに、イアンの口元に小さく微笑みらしいものが浮かんだ。少なくともこの人は自分の事を無礼者とかそういう風に思っている訳ではないらしい。
「新人戦については急な欠席をしてしまいまして、ご迷惑をおかけしました」
そう言うと、イアンはエルヴィンに向かって頭を下げた。一国の王子様がその辺の石ころの様な自分に向かって頭を下げている? あまりの事態に、エルヴィンは頭の中が真っ白になりそうになる。慌ててヘクターの方を見ると、その口は「へ」「ん」「じ」と動いた。
「いえ、迷惑だなんてとんでもありません」
「いや、そのせいであの赤毛に関わってしまったのだから、大変な迷惑をかけてしまった事は間違いありません」
何故かそうキッパリと告げたイアン王子の横で、一緒にきた黒髪の生徒が手で口元を抑えながら含み笑いをしている。イアンがそれをジロリと見ると、慌てて急に真面目な顔をして見せた。
「赤毛? フレデリかさんですか?」
「ええ、そうです。彼女です」
エルヴィンに向かってイアンが深く頷いて見せる。
「フレデリカさんについても、迷惑だなどとんでもありません。どちらかと言えば、色々な事について、目を覚まさせてくれたように思います」
その通りだ。剣技を披露してそれで何とかしよう、あるいは出来るなんて思っていた自分の慢心を見事に砕いてくれた。
「ヘルベルト、ヘクター君、ちょっとエルヴィン君と二人で話をさせてもらってもいいだろうか?」
イアンが傍らに居たヘルベルトとヘクターに向かってそう告げた。
「そうだな。その方がいいな。ヘクター、すまない俺はどうも『君』づけは苦手でね、できれば名前で呼ばせてくれ。俺のこともヘルベルトで頼む」
そう言うと、背の高い男子生徒は馴れ馴れしくヘクターの肩に手をやると、背後でこちらを伺っていた生徒達の方へと向かっていく。
「ヘクター、あんたは女に相当モテるだろう。紫組の連中はあまりこの手の話には乗ってきてくれなくて、興醒めなんだ。おい、そこの君達、君達は婚約者が既に決まっている口かい?」
そう手近に居た生徒達に声をかける。
「まあ、いてもいなくても関係ないが、もうすぐ運動祭だろう。女子生徒、それも運動着姿の女子生徒達を見れるまたとない機会だ。どんな感じの女の子が……」
そして周りにいる生徒達も次々と巻き込むと、賑やかに雑談を始める。イアンはその姿をチラリと見ると、
「相変わらずだな」
と呟いた。そしてエルヴィンに向かって小さく肩をすくめて見せる。一体この人は自分ごときと、二人で何の話をしたいと言うのだろう?
「あ、あの、本日は新人戦の件でわざわざこちらまで……」
エルヴィンは恐る恐るイアンに問いかけた。
「新人戦の件で一度謝りたかったのは本当だが、実はそれとは別にもう一つ用事があってね。そちらはあまり他の人間に聞かれたくはない話なんだ。それで新人戦の件と合わせて、こちらに寄らせてもらった」
「もう一つ?」
「先ほど話に上がった例の赤毛から、頼み事を仰せ使ってね。手紙を君に渡せと言われた」
『王子に頼み事!? しかも手紙を渡すのを頼む!?』
エルヴィンは男子の教室にいきなり現れた赤毛の少女の姿を脳裏に浮かべた。あれも相当に驚いたが、王子に頼み事、それも自分の様なところを訪ねるような頼み事をするとは、あの少女は一体何者なのだろう。
確かにカスティオールは落ちぶれてはいても侯爵家だから、位は決して低くはない。それでも一国の王子に頼み事が出来る身分とは到底思えない。
それにどうしてイアン王子は彼女の事を名前ではなくて「赤毛」と呼ぶのだろう? とても親しい仲と言うのなら分からなくもないが、王子の口調は親しい者を呼ぶ感じではない。むしろとても厄介な相手かの様な口調だ。
「新人戦の罪滅ぼしだよ。確かにあの子にも迷惑をかけたからな。これを渡して欲しいと頼まれた」
そう言うと、イアンはさりげなく、そして目立たぬ様に白い封筒をエルヴィンへと差し出した。エルヴィンもそれを受け取ると、素早くポケットへと仕舞い込む。
「フレデリカさんからのですか?」
「いや違う。あなたが助けた別の女性、オリヴィア・フェリエ嬢から君へのお礼の手紙だそうだ」
「もし返信をするのであれば、ヘクター君は君の親しい友人だそうだから彼に頼むといい。彼女も一年生の代表なので、少なくとも運動祭までの間は生徒会の会合で彼女に会う機会がある」
そうだった。ヘクターは平民出にも関わらず代表に選ばれている。
「それに一年生だけの会合の場であれば、そこにいる関係者はヘクター君を含めて私とヘルベルト、それに相手もあの赤毛にコーンウォール嬢にフェリエ嬢だから、それに茶々を入れたり外部に漏らすような人もいない。もっとも、」
そう言うと、イアンはエルヴィンに向かって片目を瞑って見せた。
「ヘクター君を含めて、他の誰にも気取られたくない場合は、私の方で預からせてもらうのもやぶさかではないよ。これでも一応は王子だから、立場上、口は硬いつもりだ」
そう言うと唇の端を持ち上げて見せた。
「ま、まさかそんな事を頼む訳には……」
「これは冗談ではないよ。さっきも言った通り、ここは学園だ。ここの生徒としては私と君との間で特に差がある訳ではない。もっともそれが建前上であることぐらいは理解しているつもりだ。だからと言って、私が君の手伝いをしてはいけない理由にはならないだろう?」
「は、はい」
「それにその方が安全だ。私の方から姉に頼める。直接に渡そうとして見つかったら、君は間違いなく退学だ。前回は運が良かった」
「確かに仰る通りです」
「それと私の方からも君に聞きたいことがある」
「何でしょうか?」
「あの、赤毛。失礼。フレデリカ嬢についてだ。もし差し支えがないのなら教えてほしい。口止めされていたり、何か問題があるのなら答えなくてもいい」
エルヴィンはイアンに向かって頷いた。
「どうして彼女はここまでわざわざ君に会いに来たんだ?」
「さあ、正直なところ良く分かりません。ただ『新人戦の仲直りだ』と言っていました」
「仲直り?」
「はい。一緒にお弁当を食べて仲直りをしたいと言っていました」
「仲直りも何も、単なる試合だろう?」
「はい。新人戦ですが、自分はどうやら色々と舞い上がっていたらしく、試合自体をよく覚えていないのです。実際のところはかなり失礼な戦い方をしてしまった様で、その件だと思います」
「覚えていない?」
イアンが不思議そうな顔をした。
「はい、お恥ずかしい限りです」
「なるほど。助かりました。立場上、女性の名前を口にしたと漏れると、色々と勝手な噂が出たりします」
それで「赤毛」と呼んでいたのか。エルヴィンはイアンがフレデリカの事を名前で呼ばない事に納得した。
「なのでこの件についても、私があなたに尋ねた事は他言無用にてお願いします」
そう言葉を続ける。エルヴィンはイアンに深く頷いて見せた。イアンはエルヴィンの頷きに納得したのか、背後を振り返ると、教室の真ん中に出来ていた生徒達の集団の方を見つめた。その中心には少しばかり大きな声をあげてはしゃいでいる背の高い人物がいる。
「えっ、それでその婚約者というのは一体どうしたんだい?」
「もちろん怒りまくりでしたよ。決闘だと叫んで大騒ぎになりました」
「まさか本当に決闘に!?」
「いや、流石に両家のものが間に入って……」
それを見たイアンはエルヴィンに聞こえるぐらいの大きなため息をついて見せた。
「ヘルベルト!」
「なんだイアン、そちらの新人戦の謝罪とやらは終わったのか?」
「もちろんだ。ちゃんと受け入れてもらったよ」
「イアン、お前もこっちに来たらどうだ。めちゃくちゃ面白い話だぞ。俺は青組の方が性に合っているな。教室替えをしてもらいたいぐらいだ」
「何を言っているんだ。お前みたいなうるさいのがいたら迷惑だ。見ろ、お昼休みも終わるというのに、皆さん弁当を食べ終わっていないじゃないか?」
「そんなの後で授業中にこっそり食べれば……」
「匂いでバレるに決まっているだろう。大変お騒がせしました。さっさと行くぞ!」
「おい待てイアン、袖を引っ張るな。千切れたらどうするんだ!」
エルヴィンは教室を出ていく二人の姿を呆気に取られて見ていた。あれが王子? 自分が想像していたのとは全く違う。もし剣を交えられたとしても、自分はやはり勝てなかったのではないだろうか? エルヴィンはそんな気がした。
「エルヴィン」
そっと目立たぬように自分の横にきたヘクターの声に、エルヴィンは我に返った。
「今度は王子様だぞ。一体どうなっているんだ? それに何を聞かれた」
「新人戦の事だ。よく覚えていないと言ったら怪訝そうな顔をしていたよ」
「それだけか?」
「ああ」
エルヴィンはヘクターにそう答えてから、自分がヘクターに初めて何か隠し事をしていることに気がついた。だがあの子がどうしてここに来たか聞かれただけだ。大したことではない。
「お前は幸運の女神様に惚れられでもしているのかもしれないな」
ヘクターがボソリとつぶやいた。エルヴィンは一体何の事だと答えようとしたが、それは口から出て行かなかった。確かにそうだ。もしかしたら、自分は授業の合間に白日夢でも見ているのかもしれない。
* * *
「ヘルベルト、お前にしてはよくやった」
「おや、イアン王子様が俺を褒めるなんて珍しいね」
「そうか? お前はあの手はうまいな。だが女子生徒の前では最低だ」
「その件については少しは反省しているつもりだ。あまりに美人揃いなんで思わず見惚れてしまっただけだよ。男としては当たり前だろう?」
ヘルベルトの言葉に、イアンはジロリとその顔を睨んだが、口元に笑みを浮かべるとヘルベルトの肩に手をやった。
「その意見には同意しないが、先程は本当によくやってくれた。これでソフィア姉さんに殺されずに済む」
「その通りだ。ああ見えても、こちらも本気も本気だったよ。何せソフィア様からのお達しだからな」
そう告げたヘルベルトの顔にも安堵の表情がある。
「それでどうだった?」
「立ち振る舞いや目の動きを見る限り、かなりの腕の持ち主だ。それが試合中に我を忘れるとは、やはり何かおかしい。しかも相手はあの赤毛だぞ?」
「そうだな。いくら相手が赤毛の美人だからと言っても、そこまで舞い上がったりはしないな。それにあのヘクターという男は同門だろう。あちらも油断ならない男だよ」
「それで裏は?」
イアンはヘルベルトに自分が頼んでいた調査の結果を訊ねた。
「家から途中報告は戻ってきている」
王家が持つ力は国家権力そのものなので、王子と言うのは権威はあっても実質的な力は何もない。イアンとしてはヘルベルトの実家のアレンス家に頼るぐらいしか方法が無かった。
「彼の実家のトルレス家は典型的な没落貴族だ。男爵位はあっても領地を含めて実態は何もない。ヘクターはその幼馴染で普通の庶民の家だ。二人は一緒の剣の道場に通っていた」
「それだけか? どうして学園に入れたんだ?」
「問題はそこだ。表向きは道場主が知己に当たって推薦を取ったと言うことになっているが、この道場主につながる人物には二人を押し込めそうな有力者は見当たらない。せいぜい推薦状だけは書いてやるぐらいだよ」
「とすれば?」
「おそらく金が動いて入学枠を買い取っているのだろうけど、その金の出どころを含めて、そこまではまだ調べきれていない。この辺りは二人だけじゃなくて、色々と絡んでくる話だから面倒だよ。俺たち如きが下手に手を突っ込むと、火傷どころでは済まない」
ヘルベルトがイアンに向かって肩をすくめて見せた。
「その通りだ。だがカスティオールの現状を考えると、赤毛に対して何か仕掛ける為にしてはあまりに手が込みすぎている。正直さっぱりだな」
「おや、切れ物イアン王子でも筋が読めないのか?」
「茶化すな。それにどうして赤毛が直接乗り込んで行ったんだ。何か知っているのか? まさか単に背が高い男が好みという事は無いだろうな」
「イアン?」
「何だ?」
「お前もしかして嫉妬……いっ、痛い!」
ヘルベルトが片足をあげて廊下を跳ね回る。
「馬鹿なことを言うな!」
イアンの声が少しばかり大きく辺りに響き渡ると、廊下を歩く生徒達が二人の方を振り向いた。