閑話
昼休みに入ったばかりの教室では、男子生徒達の楽しげな声が響いている。その多くは仲の良いもの同士で教室の机を集めて昼の弁当を食べながら、授業の宿題や、あるいは近く行われる運動祭で、女子生徒達を身近に見れる事への期待など、様々な会話をしていた。
最も全員が全員という訳ではない。その中に入れずに、一人でお昼の弁当を広げている極少数の者もいる。
明らかにその一人であるハッシーは、教室の入り口に一番近く、そして一番後ろの自分の席に座りながら、背後を通る他の男子生徒の話し声を聞きつつ、自分の中に湧き上がってくる負の感情を持て余していた。そもそも自分がこの学園に通う必要などはなかったのだ。
ハッシーの実家であるモト家は、かろうじて大店と呼べそうな商店を経営する家だったが、平民の分を弁えて、目立つ事なく堅実に商売をするのがモットーの家だった。
それの風向きが少し変わってしまったのは、自分の母親、限りなく没落貴族としか言えない子爵家の娘が、モト家の長男、自分の父親の嫁になってからだ。
自分の父親は自分とそっくりであり、物事をはっきりと言うことができない。ともかく当たり障りがないことを一番とする人間だったが、母親は全く違った。ともかく自分のやりたいようにやらないと気が済まない。その母に気の弱い父が逆らえる訳などなかった。
母は自分が貴族の出である以上、自分の息子は学園に入れるべきだと主張した。父はそれに対して口をもごもごと動かして反論らしきものを述べたが、母の耳に届く訳がない。困った事に、自分は将来の家の手伝いの為に私塾で学習をしていて、学園での入学基準をちょっとだけ超えていた。
結果ハッシーはほんの僅かだけいた、それぞれが書いた舞台劇の脚本を回し読みするのを趣味とする、同じような目立たぬ少年達とすら別れ、一人この学園の宿舎に入ることになったのだ。
だがここに居るのは大貴族の師弟はもちろんの事、平民だとしても、名だたる商家だったり、軍人だったりの息子達である。そのあまりにもキラキラと輝いている姿に、ハッシーは純粋に恐れおののいた。
自分と同じような年にも関らず、ばっちりと化粧に髪型を決めて登校してくる女子生徒に至っては、ハッシーからしてみれば、得体が知れないとしか言えない存在だ。
新人戦で剣を振るい、この教室まで乗り込んできた赤毛の女子生徒に至っては、得体が知れないを通り越して、もはや人外としかいえない存在だった。その娘に廊下でいきなり声を掛けられた時には、本当にちびるかと思ったぐらいだ。
ハッシーが知っている女性といえば、母親を除くと、家の手伝いをしている女性達。それも化粧気など全くない素朴な人達だけだ。ハッシーはその素朴な人達、今は自分の母親に牛耳られてしまっている可哀想な人達を心から懐かしんだ。そして自分の母親に対する呪詛の言葉を、心の中で呪文の様に繰り返した。
もしハッシーが魔法職だったら、彼の母親は100回以上は穴の向こう側へと送られている事だろう。ハッシーの苛ついた心は母親だけではなく、この教室にいるキラキラしすぎる男子生徒達も、想像の中で次々と穴の向こう側へと送り込んでいた。
その結果、ハッシーの心の中では、ここは既に無人の教室になっている。そうでもしないと、ここで生きていくことなどは出来そうに無かった。
そんなハッシーだったが、この学園で一つだけ楽しみにしていることがある。国語の宿題を提出した時に、うっかりそのノートに自分の戯曲を書いたままで提出してしまったことがあった。それに気がついた時には血の気が引く思いだったが後の祭りだ。
だがその宿題を生徒達に出した、やはりとても地味なエスタバン先生は自分の宿題に関する採点だけでなく、ハッシーが書いた短編の戯曲、「巣から落ちてしまった雛を思う少年」について、添削と感想を添えて返してくれたのだ。
それを見たハッシーは涙が止まらなかった。それを何度も何度も明け方になるまで読み返した。そして次にエスタバン先生が宿題を出した時にも、こっそりと短編の戯曲を書いて出したのだ。
やはりエスタバン先生から、とても丁寧な感想が付けられてそれは戻ってきた。今のハッシーにとってはそれだけが心の拠り所だ。次は何の戯曲を書こうか?
「そこの君!」
お昼を食べるのも忘れて、そんな事を考えていたハッシーの背後から声がかかった。自分の事とは思えなかったが、思わず振り返ってみたハッシーの視線の先に、とても背が高く、それでいてすらりと均整の取れた体つきをした男子生徒が、教室の入り口からこちらを見ている……様な気がする。
ハッシーは前を向くと、慌ててその生徒から目を逸らそうとした。これは決して自分に対するものではない。
「君、君、ちょっと教えて欲しいのだけど」
だが手遅れだったらしい。自分とは住む世界が全く違う住人は教室の中へと入ってくると、自分の机の前に手をついてこちらを覗き込んだ。
「この教室にエルヴィン君という生徒がいると思うのだけど、誰だか教えてくれないかな?」
これは、この嫌な感じは前にもあった。そうだ、あの赤毛に会った時と同じだ。ハッシーは己が精神をこの世界から隔絶すべく、頭の中で歌を、子守唄を歌い始める。
「おい、聞いているのかい?」
「ヘルベルト、それが人に物を尋ねる態度か?」
「えっ、俺は誰がエルヴィンか聞いただけだぞ?」
「お前の様なうっとうしい奴が声を掛けてくること自体が迷惑だ。俺なら彼と同じく、間違いなく無視する」
「あ、あのなイアン。お前は俺の事を何だと……」
「申し訳ない。連れがうるさくて失礼した」
誰か別の人物の声がする。ハッシーは思わず頭の中で歌をやめて顔を上げた。鳶色の髪と鳶色の目を持つ男子生徒がこちらを見ており、自分に向かって小さく頭を下げる。誰だ? いや、待てよ、イアンという名前は……
『この人がイアン王子?』
王族だ。いや、王家だ。貴族より遥かに上だ。おかしい。何かおかしい。貴族であることをいつも鼻にかけている母親と同じ、いやそれ以上に態度がでかくて鼻持ちならない男でないといけないはずだ。なのにどうしてこんなに腰が低いんだ?
「だけどイアン、誰だか……」
「ヘルベルト、問題ない。知っている人を見つけた。ヘクター君!」
ハッシーは教室の中を颯爽と歩いていくイアンの後ろ姿を見つめた。その先にはこの教室で最もキラキラ、いやハッシーから言わせれば、ギラギラと真夏の太陽の様な光を放っている男がいる。だが彼は臆する事なくそちらへと歩んでいく。
「イアンさん? 青組の教室まで一体何の用事ですか?」
なんなんだ。どうしてこんなにも完璧なんだ? ハッシーは自分の心の中だけで、古の大魔法職の誰もなし得なかった様な大穴を開けると、この世界の全てをその中へと放り込んだ。