沼
肩の痛みに脂汗を流しながらも、イラーリオは何とか自分の研究室の前へと辿り着いた。既に遅い時間のため、廊下にも辺りの研究室にも人のいる気配はない。イラーリオは研究室の鍵をポケットから取り出すとその扉を開けた。
中からは古い紙の匂いがかすかに漂ってくる。自分はこの研究室を得るために一体どれだけの努力をしたのか、他の人間には理解など出来まい。
イラーリオは自分の執務机の上に向かうと、その上にあった学生達の宿題やら成績をつけた書類を、床へと乱暴に払い落とした。そして椅子に座ると、引き出しから便箋を取り出して、机の上に置いてあった羽ペンに手を伸ばした。
相手には王子もいる。貴族達では腰が引けるだろう。むしろそれを忌々しく思っている平民の有力者の方が役に立つ。そのために平民出の学生達に色々と便宜を図ってきたのだ。
だがそれがこんな事態を引き起こすとは。イラーリオは己が運命に嘆息しつつ、肩の痛みに堪えながら便箋に助力を請う文章を書き始めようとした。しかしその手は直ぐに止まった。
「何だ?」
何かの尋常ならざる気配に、イラーリオの口から思わず言葉が漏れた。耳を澄ませたが、部屋の中も廊下も特に音はしない。だが間違いなく何かの気配がする。イラーリオは椅子に座った体を捻ると背後を振り返った。
その動きに肩が悲鳴を上げたいぐらいに痛む。だがイラーリオは自分に向かってくる何かの気配に、その痛みすら忘れていた。しかし背後には誰の人影もない。そもそもここは学園だ。外部から侵入者が入ってくるなどはあり得ない。
『自分の気のせいだろうか?』
イラーリオは心の中で、それは自分の逼迫した状況が作り出した妄想ではないのかと考えた。だがまるで子供の頃に暗闇を恐れた時のように、何かがそこに潜んでいる気配はむしろ濃くなるばかりだった。
それになんだこの饐えた匂いは。食べかけて、そのままにしてしまっていた食べ物でもあったのか? そんな事を考えたイラーリオは、学生達のノートや書類が散らばった床の先に、小さな染みの様なものがあるのに気がついた。先ほど机の上のものを払った時に、インク瓶まで落としてしまったのだろうか?
しかしその黒い染みは単なる液体ではなく、何かに震えている様にも見える。そしてそれは急速に広がっていくようにも見えた。それに間違いない。この耐えられない匂いは、この染みのようなものから湧き出ている。
『まずい!』
イラーリオはその黒いインクの染みのように見えるものが、決してインクなどではないことを理解した。床にある染みのようなものは既に両手を広げたぐらいの大きさになっている。
すぐにここから逃げないといけない。イラーリオは慌てて椅子から立ち上がると、横を回って、その染みの先にある扉の方へと向かおうとした。だがイラーリオが扉に向かって一歩を踏みだした瞬間に、足元が染みの方へと滑っていくのを感じる。
『どういうことだ!?』
視覚的には何も見えないが、自分の足には床がまるでその染みに向かって、急斜面になっているかのように感じられた。そう考えている間にも足はずるずると、ずるずると、染みの方へと滑り落ちていく。
イラーリオは慌てて机の方へ手を伸ばした。だがその手の先は机の手前の何もない空間を虚しくすり抜けただけだ。イラーリオの体は存在しないはずの斜面を滑り、その黒い染みの様に見えるものへと滑り落ちていく。そして足先がそれに触れた。
「うおーーー!」
イラーリオの口から恐怖の叫びが漏れた。自分の足先から何かがゆっくりと剥がれていく様な、いや何かに食まれている様な感触が伝わってきた。イラーリオが自分の足先の方を見ると、そこでは自分が着ていた靴やズボンの裾が穴だらけになっており、自分の肌が露出している。
いや、そこに見えるのは肌だけではない、自分の黄色い脂肪が、そしてその下の赤い筋肉組織もが顔を覗かせている。それすらもゆっくりと失われていき、その先に何か白いものが顔を出した。骨だ。
そして鼻腔には先ほどの饐えた匂いがさらにきつく漂ってくる。イラーリオはそれが何の匂いなのかを理解した。それは自分の体が腐っていく匂いだ。
『永遠の腐敗の息吹』
イラーリオは魔法職ではないが、教授としての知識が自分の体を蝕んでいるものの正体を告げた。
「こ、ここは学園だぞ!」
誰だ。誰がこんな術をこの学園の中で仕掛けているんだ。この中で魔法職が術を仕掛けるなんてのは、外部から侵入者が現れて学園の警備部が対応するか、護衛役が自分の保護すべき生徒に命の危険が及んだ時しか使えないはず……。
そこまで考えたイラーリオは、自分に対して術を掛けることが出来る存在について思い至った。
「ま、まさか、カスティオールだぞ!あの家がこんな、こんな術が使える魔法職なんかを雇える訳が……」
侍従を連れて来れれば御の字のはずだ。だが現実には自分の足は脛の辺りまで骨……いや、もうそこには骨すらない。全て腐り落ちた。イラーリオがその現実に気がついた途端、ありとあらゆる痛みがイラーリオの身体中を駆け巡る。
「うぉーーーー!」
イラーリオの口から再び叫び声が上がった。今度の叫びは恐怖だけではなく、その耐え難い痛みに耐えかねた叫びでもあった。だが自分の意識は失われていない。いや、失わせてくれないのだ。これは、これは、自分の頭がこの腐敗の息吹に全て失われるまで続く。
『一体、どうして、どうしてこんなことになってしまったんだ!』
口から叫び声を上げながら、イラーリオは必死に自分がどこで道を誤ったのかを考えていた。単に簡単な依頼を引き受けただけだった。そうだ、ある女子生徒を追い出すための簡単な依頼だ。これまでも何度もやってきたはずでは……やってきたはずだ……。
* * *
「部長。こちらです」
アルベールにそう呼びかけた警備部の若い夜勤担当者の顔は蒼白だった。それはそうだろう。普通の人間にとって、魔法職が力を振るった跡を見ることは稀だ。それもこのような術を見るなどということはまずない。間違いなく一生忘れることなどできないだろう。運がなかったとしか言いようがない。
「了解した」
アルベールはその緊張した顔に向かって頷いて見せた。その表情に、つい先日まで自分の相方を務めていた若い執行官の姿を思い出す。
「吐きたかったら無理せず吐き給え。ただし後で掃除が大変ではないところでだ」
夜勤担当者は無言で頷くと、手で口を抑えながら廊下の隅の方へと駆けていく。アルベールは開け放たれていた扉の中へと入った。
何かが腐ったような饐えた匂いが濃厚に漂ってくる。アルベールは思わず鼻の下に手をやった。扉の中には廊下の隅で吐き続けている若い男と違って、もっと年嵩が行っている警備官がアルベールに向かって軽く頭を下げた。
「あなたはこの手には慣れている様だね」
「はい、部長。少しは。魔法職ではありませんが、若い時は王宮魔法庁で執行官補をやっていました。最も彼の様に耐えきれずに辞めてしまいましたがね」
「なるほど」
「それでもこんな酷いやつは見たことがありません。一体誰が? 捜索班を編成しますか?」
「不要だ。誰がやったかは分かっている。カスティオールだ。今回の懲戒に関する件での私的制裁権の行使だよ」
「カスティオール!? それに私的制裁権? こ、これがですか?」
「そうだ。おそらくこれを成した当人に言わせれば、これでもまだ生ぬるいと言うに違いないがな」
そう言うと、アルベールは床にある黒い染みの上にあるものに視線を送った。そこには半分ほどに溶けて、鼻から上しかなくなった頭が乗っている。そしてゆっくりと黒いしみの上へと沈み込もうとしていた。だが見開かれた瞳にはまだ微かに光がある。それは部屋に入ってきたアルベールの方へとゆっくりと動いた。
アルベールは床の染みに沈みゆく男を含めて辺りの状況を確認する。学園長が告げてきた状況に間違いはないようだ。あの人は学園内の全てをいつも見ているという噂があるが、本当のことなのかもしれない。それに何も告げられなかったと言う事は、この男は彼から存在自体を見限られたと言う事だ。
アルベールはそこまで考えを纏めると、主任の袖章を付けた男に声を掛けた。
「廊下のやつに警備部まで走らせて、反魂封印のための準備と、人手を駆り集めさせろ」
「贄はどうします?」
「これを開けた人は間違いなく穴は閉じてくれるだろう。だが不測の事態への対応は常に必要なのではないのかな?」
「おっしゃる通りです」
「それにこれは別の意味で対処しないと、この棟、いやこの場所自体が利用不能になる」
年嵩の警備官はアルベールに向かって小さく頷くと、大股に廊下を若い警備官の方へと歩いて行った。
アルベールは視線をかつてはイラーリオだった物へと戻す。やはり警告に意味は無かったようだ。それに自分の研究室に戻るとは、わざわざ罠に自分から飛び込むのと同じだ。魔法職を敵に回すと言うのがどういう事なのか全く理解していない。いや、魔法職が相手という事自体を理解していなかったのか?
「だからすぐに逃げろと言ったのだ。最も逃げきれたかどうかは……。無理だったろうな。これは相当に怒っている」
だがイラーリオがアルベールの問いかけに答えることは、もう永遠になかった。
* * *
メラミーは勝手に作った合鍵で談話室の扉をわずかに開けると、その隙間から中へと体を差し込んだ。そして後ろ手に音が立たないように、ゆっくりと扉を閉める。談話室の中は灯はなく暗い。
だがカーテンが完全には閉じられていなかったため、外から差し込んでくる月明かりが、部屋の中に置かれた椅子や机の影をうっすらと映していた。メラミーはそれらを避けて窓際にいくと、その窓の一つの鍵を外してわずかに隙間を開けた。
外から流れ込んでくる夜風が、メラミーの蜂蜜色の前髪を揺らす。それを合図にしたかの様に窓の前に黒い影が浮かんだ。
「どうなったの?」
「どうやら失敗したようだ」
「何ですって!?」
そう小さく叫んでしまってから、メラミーは背後を振り返った。談話室の扉は厚い。このぐらいでは声が廊下に漏れることはないだろう。
「あんなに偉ぶっておいて、結果はこれ?」
「中身がない奴ほど偉ぶって見せるものだ。俺には良く分かる」
「私もよ。ここにいる奴らはそんなのばっかり。本当にうんざりする。でも私達の依頼だとばれることはないの?」
「どうやら首になったという話だから、こちらの事を根掘り葉掘り聞かれる心配はなさそうだ。ここの奴らもとかげの尻尾切りで終わりにしたいだろうからな。だが父親のところへは顔を出すかもしれないぞ」
「そうね。それについてはお父様に、何か適当な理由と対処を伝えておかないといけないわね」
「メラミー」
「何なの改まって?」
「俺のためにこんなに危ない橋を渡る必要はあるのか?」
「危ない橋? あなたの為だけじゃない。私の為でもあるのよ。私は私のやりたいようにやる。それこそが私が生きる目的なの。だから私の邪魔をしたあの赤毛は絶対に追い出してやる!」
「そうか、そうだな」
男はそう告げると、窓の隙間から差し出された唇に向かって己の唇を重ねた。