共犯
旧校舎の二階の奥、その重々しい扉の存在はすぐに分かった。旧校舎はほとんどの部屋が倉庫がわりに使われている。誰かを閉じ込めておくにはうってつけの場所だ。つまり、その目的は補講なんかでは決してない。
イアンはポケットから細長い鍵を取り出すと、扉へと差し込んだ。扉の中では何かが暴れ回っているような音がする。もしかして何かが起こってしまった後なのだろうか?
焦る心を必死に抑えつつ鍵を回すと、イアンは全身の力でその扉を押した。雨戸が締め切られているのか中は薄暗い。その薄暗い部屋の中で、床に転がった油灯の黄色い光を背景に二つの人影があった。
一つは椅子に座り、机で大きな腹を押さえられている人物。そしてもう一人の小柄な人影は、机の上に上がって、その椅子に座っている人物に向かって、椅子を振り下ろそうとしていた。
座っている人物は首を後ろに反らして、その椅子の一撃を逸らそうとしている。だが椅子の一撃はその男の肩口へと激突すると、「ドン」と鈍い音を立てた。
「うおー!」
痛みのせいか、それとも怒りのせいか、男の口から悲鳴とも雄叫びとも分からぬ声が響いた。そして男が体を後ろに倒しながら、腕を使って、その机を無理やり跳ね上げようとしているのが見える。だが机の上の人物はもっと上手だった。
その小柄な人影は男の顔を蹴り上げると、そのまま机の動きに合わせて背後の床へと着地した。手には椅子をそのまま持っている。そして机を飛び越えると、椅子ごと床に倒れた男の元へと突進した。
『これ以上やらせてはいけない!』
次の一撃は間違いなく致命傷になる。イアンは部屋の中に飛び込むと、小柄な人影の振り上げた腕を抑えた。油灯の灯りに赤く光って見える瞳が、こちらをじっと見つめている。
「そこまでだ!」
だがその少女はそのままイアンの腕を振り解くと、床に倒れている男に向かって椅子を振り下ろそうとした。床の男は鼻血を流しながら、腕を前にしてそれを必死に避けようとしている。
女性の力でもこれを上から打ち下ろせば、腕の骨が折れるぐらいの怪我はする。いやもっと酷いことになる。イアンは慌てて振り下ろそうとした椅子をその手から奪った。
「邪魔をするな!」
怒りに燃えた声が部屋の中に響く。
「フレデリカ嬢、これ以上やれば君も罪を被ることになる!」
イアンの呼びかけに、赤毛の少女は肩で息をしながら口を開いた。
「まだよ!そいつはまだ動ける!」
この子は男子授業棟で見た娘と、本当に同じ娘なのだろうか? イアンの目に映る燃える様な赤毛は、確かに同じに見える。だがその中身はとても同じものとは思えない。その姿はまるで手負いの獣のようにすら思えた。新人戦で優勝候補に勝利したと言うのは、全くの間違いという訳では無いらしい。
「フレデリカ嬢、イアンだ。ここから先は私に任せてほしい」
イアンは努めて冷静に、再度フレデリカに向かって声を掛けた。
「イアン?」
赤毛の少女が我に返ったかのように、ハッとした表情を浮かべてこちらを見る。
「イ、イアン君、その娘を拘束し給え。教師を襲う様な危険人物だ!」
床に倒れていたイラーリオが叫んだ。フレデリカがイアンから椅子を奪おうとする。だがイアンは椅子を背後へと隠した。少女の赤く光る目がイアンを忌々しげに見る。
「あなたはこの男がこれまで何をしてきたのか、分かっているの!」
「分かっているつもりだ」
「イアン君!何をしているのだ。この娘は教師に対して暴力を振るったのだぞ。取り押さえて誰か人を呼ぶんだ!」
「退学になる前に、私があなたの息の根を止めてやる!」
この子は間違いなく本気だ。本気で相手の息の根を止めるつもりだ。イアンはフレデリカの前に立ちはだかった。
「フレデリカ嬢、もう十分だ。だから後は私に任せてほしい」
イアンはフレデリカに向かってそう告げると、腕をついて床から起きあがろうとしていたイラーリオの方を向き直った。
「イアン君、肩をやられた。手を貸し給え」
「イラーリオ先生。申し訳ありませんが、お断りさせて頂きます」
そう告げると、イアンはその胸ぐらを掴んで、思いっきり右の拳を顔面へと叩き込んだ。イラーリオの体はそのまま床へと力なく横たわる。
「フレデリカ嬢、これで私も君と同罪だ。共犯だよ。だから後は私に任してほしい」
フレデリカは大きく息を吐くと、肩から力を抜いた。
「そうね。あなたに任せてあげる。だけどこの男が学園を再び大手を振って歩くようなら、私はあなたを許さない」
そう言うと、意識のないイラーリオの腹を思いっきり蹴っ飛ばした
「うげぇ!」
イラーリオの口から情けない呻き声が漏れ、その体は再び力なく床に横たわる。
「おいおい、これ以上は勘弁してくれないか? それに君にはまだ仕事があるんだ」
「仕事?」
「そうだ。私がここに来たのは学生会の会合に君を呼び出すためだ」
赤毛の少女の顔に当惑の色が浮んだ。
「会合にはイサベルさんとオリヴィアさんが出ていたはずでは?」
「二人とも体調不良で途中で退席した。だから私が補講中の……」
イアンはそこで言葉を切ると、床で悶絶している男をチラリと見た。
「君に会合に出てもらう為にここまで呼びに来たんだ」
「それって?」
その赤にも見える明るい茶色の瞳がイアンに向かって大きく見開かれた。そして目尻には油灯りを写す何かも光っているのも見える。
「君は自分の友達に感謝すべきだな。間違いなく君の事を大事に思ってくれている」
「そうね。そうよね。みんな、本当にありがとう!」
そう告げたフレデリカの顔は、イアンが知っている赤毛の少女の顔だった。そして流した涙をそっと手で拭いて見せる。イアンはポケットからハンカチを取り出すと、それをフレデリカの手に握らせた。
「ここの鍵は?」
「奴が内ポケットに持っているはずよ」
イアンはイラーリオの内ポケットを探ると、そこから鈍い金色の鍵を取り出した。
「とりあえず、この部屋はこのまま鍵をかけることにする」
イアンは胸に手を当てて淑女に対する礼をすると、フレデリカに部屋の外へと出るように即した。そして部屋の扉に鍵をかける。中から騒いでも、ここでは誰も助けになどこないだろう。自業自得だ。
「この件は私も既に当事者だから、私と君以外の第三者に状況を確認してもらおう」
「大丈夫なの? もみ消されるだけなのではなくて?」
そう心配そうに告げたフレデリカに向かって、イアンは首を横に振って見せた。
「君も流石に貴族の娘だな。色々と分かっている様だね。だが絶対に揉み消せない相手を連れてくる。キース兄さんにソフィア姉さんだ。特にソフィア姉さんを敵に回そうという奴は、僕の父親も含めてそうはいない」
フレデリカがイアンの言葉にクスリと笑って見せた。
「そうね。その通りだと思うわ」
そしてスカートの裾を持つと、イアンに向かって紳士に対する礼をとった。
「イアン王子様、助けて頂きまして、本当にありがとうございました」
「助ける? 私は君を呼びに来ただけだよ。感謝するなら補講室の……そちらはむしろ迷惑になるか」
「迷惑?」
「こちらの話だ。それよりも私の方が君に新人戦の件で謝らないといけない。そちらが先だ。そうしないとソフィア姉さんに本当に殺される」
「ふふふ、まさか!」
「いや、これは本気も本気だ。これが冗談だと言えれば、何の問題もないのだけどね」
「ふふふ」「ははは!」
イアンはフレデリカと声を合わせて笑った。こうして心からの笑い声を上げるのは一体いつ以来だろう。
「では改めて君にお詫びをさせていただく」
イアンはフレデリカに向かって、再度胸に手を当てて、淑女に対する礼をすると、頭を下げた。
「新人戦におきましては、私が急遽休んだ件でご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした。深くお詫び申し上げます」
「はい、承りました。でもイアン王子様、手に血がついていますけど、大丈夫ですか?」
フレデリカはそう言うと、イアンが差し出した右手を指さした。そして上着のポケットから水色のハンカチを差し出す。自分がさっき渡したのはどうしたんだ? イアンはそう思ったが、フレデリカが差し出したハンカチを素直に受け取った。
「これは君の蹴りで奴が流した血が手についただけだ。ここで人を殴ったのは初めてだが、やはりあまり気分の良いものではないな」
「そうでしょうね。何せ王子様ですから」
フレデリカが、からかう様に下からイアンの方を見上げて見せる。
「フレデリカ嬢、君に王子と言われると、やはりなぜか馬鹿にされている様な気がする」
イアンはそう告げると、フレデリカに向かって肩をすくめて見せた。
「えー!それって、単なる被害妄想ですよ。被害妄想!」
「そうだろうか? そもそもここは学園だから、王子は不要にてお願いしたい」
「イアン王子様、承知いたしました。では私のことも『フレデリカ嬢』などと勿体ぶった言い方はやめて、単にフレデリカとお呼びください」
「フレデリカ嬢、承知した。では生徒会室まで戻るとしよう。皆んな心配しているからな」
「そうですね。イアンさん」
「そうだな、フレデリカさん」
フレデリカがニコリとイアンに微笑んで見せた。こいつは本当にさっき教師を蹴っ飛ばしていた奴と同一人物なのか?
先程の大立ち回りのせいか、その赤毛はリボンの意味など全くないほどに跳ねまくっている。だがそれはむしろこの娘にとっては自然に見えた。そしてその姿は何処かで見た様な気がする。
『この子は「疫病神」なんてものじゃない』
もっと別なとんでもない奴だ。では一体何者なのだろう。イアンは前を歩くフレデリカの後ろ姿を見ながら、心の中でそれは何なのかを考え始めていた。