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鼓動

 その日は妙に酒が回るのが早かった。


 イーゴリ商会の副番頭を務めるエイブラムは、まだ準備中じゃないかぐらいの時間から酒場の片隅で一人、酒を飲むのが好きだった。


 エイブラムとしては心の中に溜まっている愚痴や鬱憤の数々を、杯の中にこれでもかとぶち込みたいのだから、誰かの愚痴や何かまで耳に聞こえて来るのはごめんだった。


 その日もまだ少しばかり明るい時間だったが、たまに行く安酒場の一番奥の壁際にある、狭い二人席を占拠すると、いつものように酒を一人で飲み始めた。


 店の者は最初の注文を聞いた後は、誰もエイブラムには声を掛けてこない。たまに新人なんてのが気を使って、世間話なんてのをしてくる場合もあるが、その時は注文を確認する振りをして、店の者がその新人とやらを帳場の奥へと連れて行き、あの男には声を掛ける必要がないと告げていた。


 店にとってはひたすら同じ酒だけを飲み続けるエイブラムはありがたい客なのか、迷惑な客なのかは微妙なところだが、この男が大店のイーゴリ商会の者である以上は、無碍にしたりはしない。


 だがその日は明らかにおかしかった。外が暗くなってもあまり客が入ってくる気配もしないし、酒に弱くないはずなのに、いつの間にか店を出るときのように、いや、それよりもひどく酩酊していた。


 自分としてもそれを自覚しているはずなのだが、切り上げる気にもなれない。


「何であんな出来損ないの甥のケツ持ちを、こちらがしないといけないんだ」


 いつもは心の中で杯に向かって告げている愚痴が、口から洩れた。


「それはあなたが優秀過ぎるからじゃないの」


 見たことがない小娘が、小さな卓の上に新しい杯を置いた。ちょうど働き始める年頃だ。ここの新人か?


「優秀? 何だね、それは?」


「あなたの事よ。あなたを苦しめる妬みの元ね」


「妬み?」


「優秀な人ほど気が付かないものよ。そして少しでも自尊心がある人には必ずあるもの」


 少女はそう告げると、唇の端を微かに上げて見せた。微笑んでいるつもりなんだろうか?


「人は自分より優れた者を見た時、それを受け入れるか、排除するかのどちらかの選択になる。妬みは自分を守るために、それを排除しようとする力の根源よ」


 こんな少女が口にする台詞ではない。誰かの受け売りだろうな。


「妬みね。店で毎日、毎日、朝から晩までこき使われている俺にか?」


「貴方の優秀さは周りに妬みだけじゃ無くて、恐怖さえも与えているのね。だからなるべく忙しくして、あらゆる条項を使って貴方を縛り付けようとしている」


 これも受け売りか? この子の親は何処かの大店にでも努めていたのだろうか?


「恐怖ね。俺は自分自身がこのまま年老いて朽ち果てていくこと、それこそが恐怖だ」


 そしてそれこそが俺がここで、酒でも飲まないとやっていけない理由でもある。何より幼馴染のコリーに悪い事をした。あいつも俺と一緒に、イーゴリにがんじがらめだ。


「人は誰でも老いて死ぬ。当たり前の事よ。止める事も出来ない。そこに恐怖を感じたとしても、それ自体に意味はない」


 おいおい、君の親は君にどんな教育をしたんだ。嫁の貰い手が無くなるんじゃないのか?


「君はまだ若い。それに男の子の夢でも見る年だろう。だから……。ちょっと待ってくれ。今までの話は、本当に君がしゃべっていたのか?」


「そうよ」


「君は、何者だ?」


「見かけ通りの、まだ13歳、もうすぐ14歳の女。だけど、年と考えは必ず一致する必要があるのかしら。貴方が14歳の時に、貴方の考えは周りの14歳と同じだった?」


「そうだな。確かに違っていたな」


 見ている世界が違い過ぎていた。自分の幼馴染のコリー以外とは、全く話しが通じていなかった。


「あなたがこのまま老いて朽ち果てるのに、本当に恐怖しているのなら、私はあなたに自由を与える事が出来る。だけど、物事は何でもタダではないわ。貴方が貴方のやりたいように商売してもらっていいけど、当面の間は商売する場所は、私が貴方に提供したところでやってもらう」


「君の実家の荒物屋か金物屋の店先か?」


「違うわ。商会よ。かつてはまともな商会だったけど、今は朽ち果てて倒れるだけのところ。だからこそ貴方のような人が必要なの。誰にも邪魔はさせない。貴方が、貴方の選んだ人と自由にやってくれていいの」


「おやおや、君は俺に向かって商談を始めるつもりか? それなら酒なんかより、羽筆と紙を用意した方が良くはないか?」


「そんなものに意味はないわ。貴方が私に頷いてくれればそれでいい」


 少女が鳶色の目で、こちらをじっと見ている。


「こうか?」


 エイブラムは目の前の少女に頷いて見せた。エイブラムとしては、やたら大人びた少女のおふざけに付き合っただけのつもりだったが、少女はエイブラムの右手を掴むと、それを自分の胸元へと持っていった。エイブラムの指の先に、少女の胸の鼓動が響いてくる。


 その年でもう大人に色仕掛けか何かをするつもりか?


 だが酩酊したエイブラムの目から見ても、その少女の目は真剣そのものだった。良く見ると頭の後ろの高い位置で栗色の髪をまとめて背中におろしており、その顔立ちはとてもキリッとして整った顔をしていた。


「署名などいらない。これは貴方と私の信義に基づく約束よ。私の名は『マリアン』。覚えておいて。すぐに貴方は私に会う事になる」


 そう言うと少女はエイブラムの手を離した。エイブラムは手を引くと、自分の右手をじっと見つめた。


「君は、何者なんだ?」


 エイブラムが頭を上げて周りを見ると、少女の姿はどこにもない。ほとんど空になった自分の杯が卓の上にあるだけだ。だが右手には、彼女の胸元の鼓動の感触が残っている。まるで彼女の心臓が乗っているかのように。


「ドン」


 見慣れた顔の店員が新しい杯を置くと、空になった杯を持って裏手の方へと戻ろうとした。


「ちょっと、待ってくれ」


 いつもは黙っているだけの、エイブラムに声を掛けられた店員は、驚いた顔をしてエイブラムの方を振り返った。


「新しい子が入っただろう。髪を頭の上にまとめた栗毛の子だ」


「栗毛の子ですか?」


 店員が怪訝そうな顔をしてこちらを見る。もしかしたら光加減で色を見誤ったのだろうか?


「14歳ぐらいの若い子だ」


「14ですか? うちにはしばらく誰も、新人は入っていません」


「いや……」


 なおも粘ろうとしたエイブラムだったが、店員はエイブラムの、頭の先から足の先までを見ると、


「今日は大分回っているようですから、勘違いじゃないでしょうか? それで最後にしておいた方がいいと思いますよ」


 とぶっきら棒に答えると、裏手の方へと去って行った。


「夢か?」


 エイブラムは狐にでもつままれた気分で辺りを見回した。店ももう客が入り始めている。エイブラムは置かれた杯の中身を一気に空けると、金を置いて、店の外へと足を向けた。


 確かに今晩は夜風にでも当たって、さっさと戻った方がいい。


* * *


「エイブラム君、君の辞表願いを受理することにした」


 店主の叔父に当たる番頭が、いつものしかめ面をもっとしかめて、こちらに声を掛けた。


「辞表ですか?」


「そうだ。以前に君が私に出したものだ」


 辞表は何度か出した記憶はある。だが大分前の話だ。最近はそんなものはとうにあきらめていた。出す度に、へんな契約条項が増えて、がんじがらめになっていくだけの話だからだ。


 子供の頃、巡回商人達を見て商売の世界にあこがれてた時には、それがこんなにも腹黒くややこしい世界だとは全く分かっていなかった。分かっていたら大店なんかに、何の用意もなく飛び込んだりは決してしなかった。


「我々の方で慎重に検討した結果、君の希望を最大限に配慮することにした」


 なるほど。そう言う事か。


 こいつの甥のケツ持ちをやらされて、こちらは頭に来ていた。食事会で女の相手にはいいのかもしれないが、商談の場でも適当な事をべらべらとしゃべっては、すべての取引をぶち壊すしか能がない男だ。


 これでも必死に抑えてきたつもりだったが、こいつの甥が俺の態度が気に入らないとか言って、俺を首にしろと言ってきたという事だな。


 俺がこの店と結んでいる契約では、俺はここの客と商売はできない。いや、商売自体が出来るかどうかすら怪しいぐらい、山ほどの禁止やら守秘条項がてんこ盛りだ。


 俺を放り出して野垂れ死にするのを、高見の見物がしたいということか。これでも俺はこの店の為に、それなりに頑張ってきたつもりだったんだがな。


「ご配慮ありがとうございます」


 今の俺から言える最大限の嫌味だ。


「その通りだよ。そしてこちらに署名をしたまえ」


 番頭が少しばかり大きな音を立てて、それを彼の執務机の上に置いた。


「君とこの店で結んだ禁止条項に関する廃棄の書類だ。過去の取引に関する守秘契約以外については、これを破棄する」


 書類の文面に目を走らせる。本当だ。間違いない。どこにも罠らしきものもない。俺は寝台の上で泡沫の夢を見ているのだろうか?


「それと君が一緒にやっていきたいと思うものが居れば、その者についても同様に扱うことを約束する」


 何だって!? これは夢じゃない。夢でもここまでは想像もできない。一体何が起きたんだ!?


「何をぼっとしているんだね。君の希望通りじゃないか。私としてはさっさと署名して、二度と近づかないで……」


 そう言った番頭の顔は、顔中の皺と言う皺を浮きだたせているのではないかと言うぐらいの、渋い顔をしている。


「何ですか?」


 言い淀んだ彼に聞き直した。こちらの言葉に、彼の体がびくりと動いた。


「いや何でもない。何でもない!」


 今の彼の顔には、先ほどの苦渋の表情ではなく、恐れとしか言いようのない表情を浮かべている。


「早く署名してもらえると、こちらとしても、とても有難いのだよ」


 そう言うと、彼は顔に浮かんだ脂汗をハンカチで拭いた。

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