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憤怒

「君の様な生徒には、これが一番良く効くのだよ」


 イラーリオ先生は私にそう告げると、私が座る机の前の椅子を引いて、そこにでんと座った。彼の体重に、生徒用の木でできた椅子が悲鳴を上げるかの様な軋み音を立てる。そしてその突き出たお腹は、中に双子でも居るかと思うぐらいの大きさだ。


 イラーリオ先生、いや、こいつに先生なんて敬称をつける必要があるだろうか? 向かいに座ったおっさんが、ねちっこい視線でこちらを舐め回すのが見える。気持ち悪いことこの上ない。


 難しい問題から出すという事は、こちらを裸にする気満々で、しかもそれを隠すつもりもないという事だ。しかも教師の立場を利用してだ。もうすぐ15だが、そのまだ女性に成り切っていない私の体を見て何が楽しいんだ? 私の心の奥に小さな何かが灯るのが分かった。怒りだ。しかもこいつは私に告げた。


『君の様な生徒は…』


 つまり、この男がこの様な事をするのは私が最初ではない。これまでも誰かにやってきたのだ。私の心の奥の何かが、より激しく燃え盛るのを感じた。


 私はイラーリオの動きに目を離さぬ様にしながら、奴が私に手渡した問題にチラリと視線を向けた。そこには数字と記号の羅列が書いてある。何処かで見たことがある問題だ。ロゼッタさんの授業で既にやった記憶がある。


 解けと言われれば解けないことはないのかもしれない。だが私がこれを全部解いたとして、そこには何の意味もない。この男の目的は、私に数学を教えることではないのだから。


 私はイラーリオの方へ視線を戻すと、わざとらしく愛想笑いを浮かべて見せた。


「先生、こちらの問題は宿題の問題よりもだいぶ進んだ問題のような気がするのですが?」


「そんなことはない。ちょっとした応用問題だよ。分からないのなら、上着を脱いで次の問題に挑戦し給え」


「先生、せめてヒントの様なものは頂けませんでしょうか?」


 イラーリオがわざとらしく眉を上げて見せた。


「ヒント? そのようなものは私の授業を真剣に聞いていれば、全くもって必要のないものだ」


 そうだろうか? あんたの授業を聞いたとしても、解けるようになれるとは全く思えない。仮に解けたとしても、それは間違いなくロゼッタさんの教えによるものだ。そもそもあんたは人にものを教える立場になれる資格などない。


 どうすればこの男に対して、自分がやったことに関する報いを与えることが出来るだろうか? この部屋につれこまれた時点で相手に先手を打たれている。


 私は前世で自分に剣や組み手を教えてくれた人達の言葉を必死に思い出していた。彼女達は私に、その様な立場に陥る事自体が間違いだと言っていた。私は新人戦の時と同様に、既にその間違いを犯してしまっている。


 今回も相手は男だ。それに今回は体重差もかなりある。ともかく掴まれて組み伏せられれば、その時点でこちらの負けだ。彼の体つきから見て、俊敏さはないだろうが、この狭い部屋の中では、間合いをとってこの男から逃げ回り続けるのは無理だ。


 つまり、私がこの体重差と力の差を何とかしようとすれば、奇襲に成功してかつ、相手の急所をついて一撃で相手の戦意を奪う必要がある。この状態で自分にその様な事ができるだろうか?


 私は脳裏に、かつてそれを私に教えてくれた人達の技を思い描いた。彼女達は何の感情も躊躇も見せずに、手を伸ばしてきた男達の手を切り落として、その急所に剣を差し込んだ。今ならそれがどれだけ重要な事なのかが良く分かる。私もそれと同じ事が出来なければ、この男の餌食になるしかない。


 しかし今の私が持っているのは鉛筆ぐらいなものだ。相手を油断させて、これで首筋や目を狙う? もしそれをしようとするなら、ほとんど裸にでもなって、この男を誘い込むぐらいの事はしないといけない。


 そこまでしても、私の腕力では男性の目にこれを突き立てられるかどうかは分からない。それに至近距離だ。少しでも気づかれて腕を掴まれれば、そこで万事休すになる。


 他に私が扱える武器になれそうなものはあるだろうか? 私はイラーリオに気が付かれないように周囲に視線を走らせた。相手の動きを抑えてかつ、こちらの体重差による不利を何とかして一撃で相手の戦意を奪えるもの。


 これしかない。それにそれが立てる音が誰かの注意を引いてくれるかもしれない。ともかく自分が出来る最大限の事をやるだけだ。


「イラーリオ先生。お願いですから、ヒントだけでもいただけませんか?」


 私は再度イラーリオに問いかけた。そして目尻から涙を流して見せる。これは偽物の涙なんかじゃない。本物の涙だ。私は自分の迂闊さと、情けなさに対して涙を流している。


「泣き落としなどしても無意味ですよ。そもそも真面目に授業を受ければそれで済む話です」


 イラーリオは私が泣くことを想定していなかったのか、私から視線を外すと、天井を見上げてさも面倒そうに嘆息してみせた。


『今だ!』


 私は自分の前に置かれた机を足で思いっきり蹴っ飛ばした。それは床の上を滑ると、イラーリオの腹の辺りに激突する。奴の腹は分厚い。このぐらいでは大して効きはしないだろう。だが私の目的は打撃ではない。


 椅子の脇にだらしなく落としていた両手が机の下になったのを確認する。これで咄嗟に上に腕を上げることは出来ないはずだ。


 背後に手を回して、自分が座っていた椅子の背もたれを掴む。そのまま自分の前に開いた隙間を利用して、勢いを付けて机の上へと駆け上がった。これで机に私の体重がのる。奴が腕で机をこちら側に倒して、簡単に机と椅子の間に挟まれた体の自由を得ることはできない。


 私は頭の上に椅子を振り上げた。この椅子の重量と机の上から降り下ろす高さが、私と奴の体重差を補ってくれるはず。イラーリオはその腫れぼったい瞼を最大限に見開いて、呆気に取られた顔でこちらを見ているだけだ。だが私はこいつに手加減などする気は毛頭ない。


「舐めるな!」


 そう叫ぶと、私はほとんど毛がないその頭めがけて椅子を振り下ろした。


「ドン!


 私が振り下ろした椅子は、相手が首を後ろに捻って避けたため、ほとんど肩口を叩けたに過ぎなかった。この一撃では相手の戦意は奪えない。


「うおー!」


 イラーリオは獣の様な奇声を発すると、背を逸らして私が乗っていた机を下から持ち上げようとした。私はとっさに片足を持ち上げると、イラーリオの顔を蹴飛ばした。


 私の一撃で机を持ち上げようと、背を逸らしていたイラーリオの体が椅子ごと背後へと倒れていく。私の乗っていた机も、その勢いに私ごと後ろへと倒れていった。私は蹴飛ばした反動を使って、そのまま机が倒れる方向へと飛び退く。


「バタン!」


 机が床に転がると同時に、着地した部屋の反対側で、イラーリオが頭から床に倒れる音が響いた。まだだ。完全に戦意を失わせる一撃を与えないといけない。そうでないと、次に床にひれ伏すのは私になる。


 私は再度椅子を持ち上げると、倒れた机の上を飛び越えた。そして椅子を持つ手に力を込める。イラーリオは鼻から血を流して床に転がったままだ。今度こそこれをその顔へと打ち下ろしてやる。今までお前がしてきた罪の報いを受けるがいい!


「そこまでだ!」


 誰かが椅子を振り上げた私の腕を掴んだ。誰だ、私の邪魔をするのは!?


「邪魔をするな!」


「フレデリカ嬢、これ以上やれば君も罪を被ることになる!」


 その手は私の腕から離れると、私が持っていた椅子を奪った。何をしているの!? 相手はまだ動けるというのに?


「まだよ!そいつはまだ動ける!」


「フレデリカ嬢、イアンだ。ここから先は私に任せてほしい」


 私から椅子を奪った影が私にそう告げた。

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