乙女の危機
「入り給え」
イラーリオ先生が扉を開けた先は、暗幕でも下ろしているのかと言う薄暗い部屋だった。部屋の真ん中に置かれた机に、向かい合わせに簡素な椅子が置いてある。それ以外は壁際の棚ぐらいしかない。その壁際にある棚に、イラーリオ先生が手にした大量のノートを置いた。
窓に下ろされた雨戸のような板の隙間からは、秋の夕日が僅かに床の上と、イラーリオ先生の顔に黄色い線を描いているのが見える。
「何をしているんだ。さっさと入り給え」
先生がこちらに手を伸ばそうとする。あの油ぎった手に腕を掴まれるのはもうごめんだ。私はその手が伸びる前に部屋の中へと入った。
「バン!」
イラーリオ先生が私の前を通り過ぎて、背後の扉を閉めた。その音は手狭な部屋の中にとても大きく響く。どうやら元は倉庫かなんかだったらしく、その扉は窓の雨戸と同様にとても重たく、そして厚いもののように思えた。
「ガチャ」
さらに背後で小さく金属音も響く。その音に私が背後を振り返ると、イラーリオ先生が手にした鍵を上着の内ポケットにしまうのが見えた。
『えっ、もしかして扉の鍵を閉めました!?』
薄暗い部屋の中ではその表情は読めない。先生は棚にあった油明かりを手に取ると、それに火をつけた。黄色い光が灯り、天井に先生の黒い影が大きく映る。
「では、補講を始めるとしよう」
「あの、こう暗いと手元がよく見えませんので、雨戸を開けてもよろしいでしょうか?」
こんな辛気臭いところに、このおっさんと閉じ込められた状態で勉強など絶対に出来ません。息を吸う気にすらならないです。
「雨戸かね?」
「はい。雨戸です」
「これは嵌め込みでね。開かないよ。君の様に勉学に集中できない生徒は、外の音が入ってこない静かな環境で、目の前の教科書とノートに集中した方が問題がよく解けるだろう」
「はっ?」
言っていることが、全くもって意味不明です。
『静か?』
外から音が入ってこないと言うことは、中の音も外へは漏れないと言う事だ。つまり私はこの中年男に、音が漏れない密室に閉じ込められた状態という事になる。
私の視線の先で、黄色い光に映るその脂ぎった顔は、どう見ても教師の顔には見えない。かつては18歳まで生きた私が、これは女を前にした男の欲望に満ちた顔だと告げている。
まずいです。とってもまずいです!
「では、フレデリカ君。今日は『どこが分からないか分からない』と言った君のために特別な問題を用意した」
そう言うと、イラーリオ先生は紙の束を私の前へと差し出した。それは解答用紙を兼ねているらしく、上の方には何行か問題が書かれていて、下は白紙だ。
「特別ですか?」
「そうだ。普通は簡単な問題から難しい問題へと演習するのだが、わざと逆にしてある。つまりどこまで戻れば解けるようになるのかを確認するためのものだ」
はあ? このおっさんは一体何を言っているのだろう? それなら素直に簡単な問題から解いていった方が早いではないだろうか? 頭に何か変なものでも湧いていませんか? いや、間違いなく湧いています。
「それに一番下の問題に行く迄は、トイレだろうが何だろうが、一切ここから出しはしない」
そう告げると、唇の端を持ち上げて見せた。なんだろう、とてつもなく悪い予感がする。
「もし解けないで次の問題に進むようなら、君には服を一枚づつ脱いでもらう。君は学業に関しては、何も分からないと私に宣言できるほど羞恥心がないようだから、そのぐらいしないと本気にならないだろう」
『はあ!?』
「では一枚目から始め給え」
そう言うと、イラーリオ先生は油灯の黄色い光に浮かんだ顔に、下卑た笑いを浮かべて見せた。
* * *
「こちらに、イラーリオ先生が補講をされに来ていませんでしょうか?」
イアンは補講室の入り口で受付を見つけると、事務員に声をかけた。まだ若い女性の事務員だ。事務員はイアンの方を見ると、掛けていた眼鏡にそっと手を添えた。
「すいません。一年の紫組のイアンと申します。こちらにイラーリオ先生が、一年生のフレデリカ・カスティオールさんと補講をしに来ていると思うのですが、生徒会の緊急の用事がありまして、お伺いさせて頂きました」
イアンは中廊下の先にある扉の方に視線を向けた。補講室は自首学習に使う生徒もいる。補講を受けるのであれば、ここで受付をして部屋を借りたはずだ。
「イラーリオ先生ですか? こちらにはいらしておりません」
受付の奥に座っていた中年の事務員らしき男性が、イアンの方をチラリと見るとそう告げた。そしてすぐに顔を下ろして書類の方へと視線を戻す。その姿にイアンは何か違和感を覚えた。
イアンはその事務員の少し薄くなっっている頭をじっと見つめた。男性は書類から頭を上げるそぶりすら見せない。その緊張感は、何かの書類仕事をしているにしては不自然だ。イアンは受付の女性の方に視線を戻した。
「確かに補講を受けているはずなのですが、どちらに行かれたかは分かりませんでしょうか?」
数学科の教師部屋ということはないはずだ。あそこには他の教師もいる。その目の下にそばかすが目立つ若い女性の事務員は、イアンに見つめられたせいか少し顔が赤くなっていた。そして何かの書類を探すかのように、机の中を引っ掻き回している。
「さあ、私共の方ではどちらに行かれたかは、存じ上げておりません。もし補講室の利用をされるのであれば、こちらの紙に使用される時間と、目的の記述をお願いします」
そう言うと、一枚の申請用紙をイアンの方へと差し出した。
「署名する場所は、こちらとこちらの二箇所になります」
女性はペンを持つと、申請書の署名欄らしき所を指し示した。この人は一体何を言っているのだろう? 自分の来訪の目的は既に告げているはずだ。イアンは心の中でため息をついた。
「今度お願いするときに……」
だが、イアンは女性が差し出した申込書に、小さく何か文字が書かれているのを見つけた。女性が署名欄を指し示す振りをして書いたものだ。そして紙の下から、鈍い金色の金属が顔を出しているのも見えた。
「ありがとうございます。こちらは頂いて行きます。お忙しいところ、ご迷惑おかけして申し訳ございませんでした。これにて失礼させていただきます」
イアンは彼女に対して、もっと感謝の言葉を述べたいのをグッと堪えると小さく頭を下げた。この学園は旧態依然の権威主義の巣窟のようなところだとばかり思っていたが、何処にでも人は居る様だ。イアンは焦らぬようにゆっくりと受付を後にしながら、受付の女性がくれた申請書の書類に目を通した。
旧校舎。二階右奥。ここからは少し距離がある。イアンはその紙を目立たぬようにポケットへと入れた。ポケットに入れた右手には金属の細長い棒の様な物も感じられる。鍵だ。つまり、彼女はこれが必要なところに閉じ込められている事になる。
イアンは廊下の角を曲がって、受付から見えない位置までくると、音を立てないように気を使いつつも、廊下を走り、階段を一気に下まで駆け降りた。
王子という立場だけでも十分に厄介だと言うのに、どうして自分がこんな厄介ごとに巻き込まれないといけないのだろう。駆け降りながら、イアンは別れ際に右目の下に指を当てて見せた赤毛の少女の事を思い出していた。
ヘルベルトには天敵だと告げたが、あれは天敵なんてものじゃない。あれは、
「疫病神か?」
思わずその言葉が口から漏れた。だがイアンの足は中庭を、旧校舎に向けて全力で疾走していた。