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宿題

 東の空がまだ赤く染まり始めたばかりの早朝に、一人の男子生徒が宿舎の扉を開けると、その先にある木立の方へと歩み始めた。その顔はとても端麗であると同時に、まだ少年らしいあどけなさも残している。彼を遠くから眺めるお付きの侍従達が、うっとりとした視線を送るのも納得出来る容姿だった。


 日が出ている時間は日に日に短くなって来ており、まだ地面に霜が降りる季節ではなかったが、早朝の空気はだいぶ冷えるようになっている。男子生徒が吐く息はかすかに白くなっている様にも見えた。


 男子生徒が木立の中へと足をすすめると、辺りに大きなざわめきが上がる。それと共に少しばかりけたたましい鳴き声も上がった。


「チチチチ、ピーチク」


 男子生徒が歩みを止めるのを待ち切れぬ様に、数匹の雀や尾長等の小鳥達が地面に降りて来て、彼の歩みを追う。男子生徒は少し開けた場所に来ると、立ち止まって懐に手をやり、そこから白く見える何かを辺りに蒔いた。


 その動きに、木立の枝で待っていた沢山の小鳥達が我先にと一斉に地面へと降りてくる。男子生徒はそれを満足そうに眺めると、チラリと辺りを見回しつつ、さりげなく端にある古い切り株の上に腰を下ろした。


「似合いませんね」


 木の影から男とも女とも分からぬ声が響いた。


「一人で早朝に外に出るのには色々と理由が必要なんです」


 男子生徒は小さな声で答えた。その声は鳥達の鳴き声に埋もれて辺りには響かない。


「わざとらしくも見えますが?」


「そうでしょうね。それでもそれを毎日繰り返せば、誰もが当たり前の事に思えてくる。そういうものじゃないですか?」


 男子生徒はそう告げると、端正な顔に笑みを浮かべた。


「あなたは年の割にはなかなかしっかりしている。将来有望ですね」


「ありがとうございます」


「今回は今までのようなお使いとは違います。あなたが真にその忠誠心を捧げるべき方からの仕事です。間違っても期待に沿えないなどと言う事がないようにしてください」


「承知しました」


「最後に私のささやかな老婆心ですが……」


「何でしょうか?」


「優先順位を間違えないように。多くの者はそれを間違って全てを失うのです」


「肝に銘じて置きます」


 背後にいたはずの何者かの気配は既に消えている。再度辺りを伺って誰もいないのを確認すると、ヘクターは切り株の隙間に挟まっていた、目立たない薄い茶色の紙を取り上げた。


 素早く目を通さないと、その内容はすぐに消えてしまう。内容を一読すると、ヘクターは下を向いたために乱れた灰色の真っ直ぐな髪をかきあげた。


『忠誠を捧げるべき相手』


 その髪と同じ灰色の目には満族げな光がある。今まで神様はエルヴィンだけを見ていたらしいが、やっと自分の方にも目を向けてくれる気になったらしい。


 ヘクターはその美少年としか言えない整った顔をわずかにほころばせると、立ち上がって宿舎の方へと歩み出した。その背後では彼の持ち込んだささやかな朝食を食べ終わった鳥達が、明るさを増していく空へと、一斉に舞い上がっていった。


* * *


「フレデリカさん、オリヴィアさん、イサベルさん、三人ともちょっといいですか?」


 お昼休みの終わりかけで、教室で食べ終わったお弁当を片付けようとしていた私達に向かって、メルヴィ先生が声を掛けてきた。


「は、はい」


 その背後にはハッセ先生もいる。私達は手にしたお弁当箱から手を離すと、慌てて席から立ち上がろうとした。


「席についたままで構わないよ。その方がメルヴィ君も下を向けて、話しやすいだろうし」


 メルヴィ先生の背後に立つハッセ先生が、私達に向かって手の平を下に向けながらそう告げた。出席簿を胸に抱えたメルヴィ先生は背後を振り返ると、ハッセ先生の方をジロリと睨む。


 その視線の鋭さに、こちらとしては思わず息を呑みそうになるが、ハッセ先生には何も気にしている様子はない。メルヴィ先生の踏んではいけないところを踏んでいるという自覚は一向になさそうだった。メルヴィ先生は諦めた様に視線を私達に戻すと、口を開いた。


「上級生の方から、一年生の女子の代表に皆さん三人がなられたと言う話を聞きました。間違いありませんか?」


 メルヴィ先生の顔は少し疑わしげだ。その気持ちは良く分かります。私としても、私を代表に選ぶことはとても大きな間違いのような気がします。ですが残念な事に、その事自体は間違いでは無いようです。それにあのソフィア様が決めたことに、誰か口を挟むような人がいるとは思えませんし、どうやら本当に決まってしまったようです。


「はい」


「そうですか。では生徒会の方からあなた達に連絡票が来ています」


 そう言うと、メルヴィ先生は私達に一枚の紙を差し出した。


「本日の放課後に、運動祭のための打ち合わせを生徒会室で執り行うとの事です。話し合う相手は皆さんと同じ一年生の男子代表になります」


「えっ!」


 何で、何で今日なんですか!


「フレデリカさん、何か?」


「いえ、何でもありません」


 実は昨日の夜の謎の粉事件以来、私とマリとは冷戦状態だ。まともに口が聞けていない。お弁当こそ用意はされていたが、朝の支度は全部自分でやることになった。


 そもそも何でそんなに怒っているのか自体が意味不明なので、こちらもついつい声が大きくなってしまった。理由がよく分からないので、落とし所も見つからない。


 でもそのおかげと言えるのかは分からないが、私自身、マリに色々な事を依存しているのがよく分かった。ともかく授業の準備からお弁当、そして身だしなみまで全てマリに依存してしまっている。


 特に問題なのが私の収まりの悪い赤毛だった。今朝はこれを自分で何とかしなくてはいけなかったために、ほとんど遅刻しかけました。でも実態は何ともなっていません。リボンすら斜めになっている体たらくです。男子生徒との会合というのにこの髪で出ることになるなんて、一体どういう事でしょうか!


 今から時間を巻き戻して、マリと何とか仲直りをしたい気分です。でも本当に私が謝らないといけないのでしょうか? いえ、それで丸く収まるのであれば謝るべきですね。それがニホンジンの美徳です。あれ、ニホンジンってなんだ? 


「学園では授業以外の活動については、極力生徒の自主性に委ねる方針です。いくら殿方がいるからといって、見惚れたりしないで、心して臨んでください」


「はい、承知しました」


 混乱状態に陥っていた私に代わって、イサベルさんが答えてくれた。でもメルヴィ先生、どちらかと言えば、男子生徒がイサベルさんに見惚れる可能性の方が遥かに高くはないでしょうか?


 そんな事を考えていた私に向かって、イサベルさんが目をバチバチさせて見せた。そうでした。忘れてました。その場であの嫌味男にオリヴィアさんの手紙を頼まないといけません。会えるのは確実ですが、どうすればそれをさりげなくお願い出来るだろうか?


 やはりイサベルさんに目をパチパチしてもらって、他の男子生徒の気を引いてもらう等の対策が必要な気がします。


「ソフィア王女も、この三人を代表に選ぶとはなかなかいい人選だね」


 メルヴィ先生の背後に立っていた、ハッセ先生が不意に声を上げた。


『いい人選?』


 このおじさんは一体何の事を言っているのでしょうか? まあ、イサベルさんは妥当だと思いますけど、私はどうですかね?


「今度お茶にでも誘って、一度話をしてみたいな」


 そう告げると、ハッセ先生が朗らかな笑みを浮かべて見せた。


『えっ、それって許されるんですか?』


「教授、首になるからやめてください。女子生徒ですよ。それに王女様です」


「え、お茶ぐらいだよ。誘っても……」


「懲戒免職です。絶対にやめてください。それにもう次の授業の時間になります。行きますよ」


 メルヴィ先生はそう言うと、ハッセ先生の袖を引っ張って教室の外へと連れて行く。


「あっ、君達、いい運動祭になるように頑張ってくれ給え。期待して……」


「バン!」


 ハッセ先生の最後のセリフは、メルヴィ先生が閉めた扉の音に途切れた。


「困りましたね。期待されるのは好きではないのですが……」


 私の横でイサベルさんが、大きくため息をつくのが聞こえた。いやイサベルさんを見たら、みんな期待しまくると思いますよ。


「それよりも、その会合でどのようにイアン様に頼むか考えないとダメですね」


 イサベルさんが私の方を振り向くとそう告げた。私の髪がとても残念な事は横に置いておくとして、目下の懸念事項はそれです。


「そうですね。他の殿方もいると思いますので、その場でいきなり頼む訳にはいかないですね」


 やはり、イサベルさんのお目々パチパチしか無いような気がします。


「ソフィア様から何か言付かっているとは思いますから、向こうから何か言ってきてくれれば助かるのですが……」


「私の我儘でご迷惑をおかけしてすいません」


 オリヴィアさんがとても済まなさそうな顔をして私達を見た。


「何を言っているんですか、これは私がオリヴィアさんのお友達として絶対にやるべき事です!」


 今はこれだけが楽しみで生きているのです。これがなかったら、私の学園生活は黒歴史そのものです。


「そうですね。午後の授業が終わった後で何か作戦を考えましょう。でも皆さんは、イラーリオ先生の宿題は解けましたか? 私はもうさっぱりです」


 イサベルさんが大きくため息をついた。


「私も同じです。これがもっと難しくなるかと思うと本当にため息が出ます」


 オリヴィアさんも頭を横に振って見せる。


「えっ、宿題!」


 あ、忘れてました。思いっきり忘れていました。


「あの、イサベルさん、オリヴィアさん、ちょっとだけでもいいので……」


 借りはいつか返します。ともかく写せるだけ写させて下さい!


「バン!」


 誰かが机を何かで叩く音がした。見ると、それは機嫌が悪そうな顔をしたイラーリオ先生が出席簿で教壇を叩いた音だった。


「君達、早く着席し給え。もう午後の開始の時間だ」


 えっ、鐘はまだなっていないですよね。どうして今日に限って、時間より早く来るんですか!


「では昨日の宿題の結果を提出してもらうことにする」


 イラーリオ先生が白髪が目立つ髪を逆立てて、暗灰色の目で教室の中を見渡す。いや、違った。明らかに私の方をじっと見ていた。

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