誘惑
「忙しいようじゃないか。商売繁盛で何よりだよ」
部屋を開けるなり、アルマは長椅子の前に立っていたロイスに声をかけた。
「ご無沙汰しております、アルマの姐さん」
ロイスはそう告げると、少しつばひろの帽子を胸に当てて、アルマに向かって頭を下げて見せた。いつの間にこれだけ背が高くなったのだろうか? ハイヒールを履いているアルマから見ても、下げた頭の上は見えそうにない。
「その言い方はよしてくれないかい。自分がとても歳をとった気分になるよ」
そう言うと、アルマは手にした酒の瓶でロイスに椅子にかけるように促した。そしてグラスを二つテーブルに置く。もちろんその時に自分の胸元と腰の曲線を強調する仕草を忘れたりはしない。腰をかけたロイスがアルマに向かって首を振って見せた。
「アルマの姐さんは自分が初めてお会いした時から、何も変わってはおりませんよ」
いきがっていたガキの頃から、こういうところは素直で変わらないように見える。
『楽しみだね』
アルマはロイスに向かって唇の端を上げて見せた。
「ふふふ。ロイス、嬉しいことを言うじゃないか。私が最初にあんたにあった時は、まだ髭も生え揃っていなかったぐらいだからね。正直、こんなにいい男になるとは思わなかったよ」
モーガンだけじゃなく、川筋の顔役を全部あっちの世界に送ったのだから、体つきだけでなく中身もきっと大分変わったはずだ。いや変わったのだろうか? それとも誰かが背後に付いたのか? 今日はそれが何かを確かめないといけない。
『逃しはしないよ』
アルマは心の中でロイスにそう宣言した。
「あの頃は本当に右も左も分からないガキでした。恥ずかしい限りですよ」
「私もあの頃は世間の事がよく分かっていない、単なる跳ねっ返りだったよ。それでミランダとはよく喧嘩になったね。若気の至りという奴さ」
「ミランダ姉さんも、アルマの姐さんには世話になったとよく言っていました。川筋の向こう側と手打ちができたのはアルマの姐さんのおかげです」
「なあに、大したことはしてないさ。せいぜい男達の袖を引いて、鼻の下を伸ばしてやったぐらいだよ。ミランダはそう言うのは苦手だったからね」
「はい」
アルマの言葉にロイスが素直に頷いて見せる。
「だからかもしれないね。あんなよく分からない男とくっついて足を洗っちまったのは」
アルマはロイスに向かって首を捻ってみせた。
「さあ何ででしょうね。それについては私にとっても永遠の謎ですよ」
ロイスも頭を横に振って見せた。
「謎? 違うよロイス。悪いのはあんただ。あんたがさっさとものにしなかったのが間違いだったのさ。私達の世界に遠慮なんてものはいらない。そのはずだろう?」
「ガキだった頃から世話になったミランダ姉さんや、アルマの姐さんは別ですよ。それに私ではミランダ姉さんの器には到底釣り合いません」
ロイスはそう告げると、アルマに向かって苦笑して見せた。
「そうかい? あんたが慎重なのは相変わらずだね。だけど私は遠慮しないよ」
そう言うと、アルマはテーブルの上に腰をかけると、ドレスをはだけて、その上で体を一回転させた。その足先はいつの間にかハイヒールではなく素足になっている。はだけたドレスの裾から伸びる艶めかしい足が、まるで白蛇の様にロイスの太ももに絡みついた。ロイスの口から小さくため息が漏れた。
「姐さん。戯れはやめてくださいな」
「戯れ? 戯れでこんなことはしないさ。私はいつでも本気だよ」
ロイスが手に持つグラスに自分のグラスを重ねる。アルマはロイスの頬に傷がある顔の前に自分の唇を寄せた。そして細く長い指先で、その頬の傷をさも愛おしそうに撫でて見せる。
「ロイス、この傷だってあんたが私達の為に負ってくれたものだ。私はそれを忘れたりはしないよ」
「私がヘマをしただけですよ」
アルマはそう告げたロイスの耳元に顔を寄せた。
「あんたにとってはそうかもしれないが、私にとっては特別だ。あんたは私の為に体を投げ出してくれた最初の男だからね」
アルマは頬に置いた指をロイスの上着の内側へと這わせた。その指先には男性の引き締まった筋肉と、男が持つ野生の何か熱いものを感じさせる。
『効いてきたかい?』
アルマは心の中でほくそ笑んだ。この酒にちょっとばかり入れさせてもらった薬は男を野生に引き戻す。そういう薬だ。
「あんたがミランダの娘の世話をしていることは知っている。どうだいロイス。私と手を組まないかい」
アルマはロイスの耳元に口を寄せると呟いた。
「私だってこんな仕事をいつまでも続ける気はないよ。もう少し苦労しなくてもいい様にしてあげて、私とあなたの後をその娘に継がせればいい。その子が堅気がいいと言うのなら、誰か真っ当なやつをつけてそいつにやらせればいいだけだ。どうだい悪い話じゃないだろう?」
少し潤んだ目で、アルマはロイスをじっと見つめた。悪ぶったふりしかできなかったガキが、本当にバリーを殺ったのだろうか? アルマはその目の中に答えを探そうとした。だが男の目は、昔知り合った時と違いがないように思える。
あの時、このガキだけは自分が少しばかりちょっかいを出してみても、脇目も振らずにまるで女神を崇めるかのように、ただミランダの背中だけを見つめていた。ともかくそれが気に入らなかった。
「今日は私が、あんたがどんな男になったか確かめさせてもらうよ」
アルマは足を開くと、ロイスの太ももの上に自分の体を乗せた。そして手を後ろに回してドレスを結ぶ紐を外すと、自分の体の柔らかさが十分に伝わるように体を寄せる。
『そして今日からあんたは私のものだ』
アルマは心の中でロイスにそう告げると、赤く塗った唇を、そっとロイスの首元に這わせた。
* * *
口に咥えていたタバコを手に取ると、エラディオはゆっくりと肺の煙を吐き出した。それは油灯の灯りの中を漂うと、やがて天井に溜まった煙の中へと消え去って行く。
まるで自分の子供の頃の思い出のようだ。エラディオは父と母がいて、普通に幸せだった子供時代にしばし思いを馳せた。自分は一体どこで何を間違ったのだろうか?
いや自分が間違ったのではない。あの家の女共に嵌められただけだ。エラディオの心の中に自分を誘惑し、まるでおもちゃの様に扱った厚化粧の女達の顔が浮かんだ。忘れようとしても忘れることなど出来やしない。
エラディオは家のものが教育部屋と呼ぶあの地下室の入り口の横で、同じ様にタバコを吹かす、少しばかり見栄えがいい男達をみた。男の一人はタバコの灰が今にも落ちそうになっているのに気がつかない。別の男は手にしたタバコが小刻みに震えているのが見える。
自分も含めて、ここに居る全員が初めてこの屋敷にまともに呼ばれて、アルマから声をかけられたのだ。そしてあの女達をどのように扱えるか試されようとしている。その緊張が素直に動きに出ていた。
『女か……』
エラディオの心の中に抑えきれない嫌悪感が走る。自分をまるで男娼の様に扱った挙句に、事がばれそうになったら始末しようとした女達。しかし、彼女達は旦那や主人に自分の事がバレる前に自分を消そうとして下手を打った。例の筋に自分の殺害を依頼しようとして、その金額の高さに躊躇したのだ。そして自分達の手で事故に見せかけて殺そうとした。
だが素人のやることだ。うまくなど行くわけはない。その相談の窓口になった男は、その話をアルマのところへ持っていった。そしてアルマに搾り取られた。搾り取られただけじゃない。家の主人を殺し、アルマの息がかかった男に家を明け渡す迄になった。
その時の女達の打ちひしがれて疲れ切った顔は、今でも脳裏にすぐに思い出す事ができる。夢で描いていた自分の復讐劇そのままだった。ここからは自分が女共に報いを与える番だ。そう願った。そうしてこの組で働いている。
だが今までは直接に手を下すようなことはなかった。それはアルマの直属の男達の仕事だったからだ。だが今度は自分が直接に手を下さねばならない。
エラディオの頭の中に、菫色がかった髪の女の顔が浮かんだ。学園に戻すのだから顔を傷つける訳にはいかない。それでいて、こちらの言うことに決して逆らわせないだけの恐怖を与える必要がある。何をどうすればいいのだろうか? エラディオはそこまで考えてから、何も難しくはないことに気がついた。
まだ子供だった自分は毎日が恐怖だった。父に母に自分がしていることがバレるのではないか、自分が相手を怒らせて、父や母に迷惑をかけるのではないか、その思いに囚われてがんじがらめだった。いや、向こうが自分にそう思わせたのだ。同じことだ。今度はそれをあの女に対してしてやればいい。
「フー」
エラディオはタバコを再び肺の深くに吸い込むと、それをゆっくりと吐き出した。低い天井に向かって上がっていくそれは、さっきまで自分の心の中にあった迷いのように見える。それはしばし天井近くを漂うと、男達のタバコが作った霞の中に消えていく。
「ギーー」
地下室へ降りる階段へと続く扉が開く音が聞こえた。簡素な硬い木の椅子に座っていた若い男達は、慌てて手にしたタバコの火を消し、背筋を伸ばして立ち上がると頭を下げた。
『ここからだ。ここからが本番だ』
エラディオは心の中で自分に気合をかけた。
「コン、コン、コン」
何かが敷石を叩く小さな音が聞こえた。誰かの足音ではない。エラディオが音のした方を見ると、敷石の上に小さなガラスの瓶の様な物が転がっている。そしてそこからは透明な液体が床に溢れているのが見えた。
『何だ?』
だがエラディオがそこから先を考えるより早く、エラディオの体は床へと崩れ落ちていた。