拉致
「到着いたしました」
男の声で馬車の扉が開いた。その声にジャネットが目を開けると、女達はまだ馬車の座席の中で寝ているのが見えた。イヴェタに至っては口を大きく開けて涎を垂らしている。ジャネットは小さく舌打ちをつくと、女達の足を蹴っ飛ばした。
「着いたよ。さっさと目を覚ましな」
寝ぼけている暇などない。子供達には研修で、今晩は部屋には行かないと伝えてあるが、それでも早めに宿舎に戻っておくに限る。さっさと中に入って、守衛所に預けてある侍従服に着替えて戻らないといけない。
守衛は顔見知りなので、抜け出たのを戻るのと着替えをそこでするの自体には何も問題はない。それを覗いてくるのは困り物だが、そこはこちらが我慢すればいいだけの話だ。
「なんだい。もう着いたのかい?」
イベェタが目を擦りながら声を上げた。
「さっさと降りるよ」
女達がまるで地面に出てしまったモグラの様なのそのそとした動きをしつつも、馬車から降りていく。ジャネットも席から立ち上がると扉に向かった。だが先に降りたイベェタが、馬車の扉の前で突っ立ったままで動こうとしない。ジャネットは思わず扉に頭をぶつけそうになった。
「何をぼけっとしているんだい」
ジャネットは前に立つイベェタに向かって苛立たしげに声をかけた。
「ジャネット、ここはどこだい?」
イベェタから当惑の声が上がる。
「学園だよ」
「本当に学園に行けと言ったのかい?」
「なんだい。何が言いたいんだい?」
「だって、どこにも白亜の塔が見えないよ」
「なんだって!?」
ジャネットは声を上げた。白亜の塔は学園の周辺からは必ず見える。そしてその真っ白な塔の先端には明かりが灯るので、夜でも見間違える事はない。ジャネットはイベェタを突き飛ばすと辺りを見回した。
そこは木立に囲まれたところで、貴族の家の様な屋敷の車止めの前だった。ジャネットは一瞬、自分が仕えるウェリントン家に連れてこられてしまったのではないかと考えた。だがすぐに、そうではないと理解した。
ウェリントン家の屋敷は、短期間に成功した商家の家らしく、あちらこちらに気味の悪い像やら、色々なものが置いてある上に、縁を金であしらったりして、ともかくあちらこちらが金ピカの趣味が悪い家だ。だが目の前にある屋敷は、大きくはあったが、黒を基調とした目立たぬ建物だった。
ジャネットは自分達を囲むように立っている三揃いを着た男達を見回した。その一番端に店の受付係だったエラディオの顔を見つけると、慌てて声を掛けた。
「エラディオさん。これはどういう事でしょうか? 私は学園の入口の前までお願いしますと馬車を頼んだのですが? 一体何の手違いでしょうか?」
「いえ、手違いではありません。こちらで私どもの主人が皆様をお待ちしております」
男達は店にいた時と同様に、にこやかな笑顔をして自分達の周りに立っている。だが、ジャネットには男達の目が、まるで獲物を狙っている猟犬の目と同じ物に感じられた。その圧迫感に、背筋に何やら気持ちの悪い汗が流れるのを感じる。
ジャネットは身を翻すと、屋敷の出口に向かって走ろうとした。だが何かが自分の頸の辺りに触れたと思ったら、どこかの穴にでも落ちていくような感覚が襲ってくる。
そしてどこかからか、小さく絹を裂くような音が聞こえた。だがジャネットには、それがイベェタの口から上がった悲鳴だとは分からなかった。
* * *
「ゲホ、ゲホゲホ……」
ジャネットは自分の鼻に感じた刺激臭に目を覚ますと、盛大にむせた。そして自分の視線の先に、油灯りを手に自分を覗き込む男の顔と、暗い石造りの天井があるのが見えた。自分は冷たい敷石の上に体を横たえており、先ほどの刺激臭の為か、それとも冷たい床に冷えたせいか、体がガタガタと震える。
「お嬢様、気がついたようです」
自分を覗き込んでいた男が口を開いた。
「ここはどこだい!」
自分の足の先の方でイベェタが叫ぶ声が聞こえる。だが直ぐに低く鈍い音がした。
「うーーん」
イベェタのものらしい唸り声だけが辺りに響く。
「お嬢様の前です。勝手に口を開かないようにお願いします」
頭の上からエラディオの声が聞こえた。それは店で聞いた口調とは全く違って、石造の部屋の壁に反響すると、冷たくそして不気味に響く。
ジャネットはエラディオに首根っこを掴まれると、引きずり上げられて床へと跪かされ、頭を下へと下げさせられた。よく見ると自分は肌着姿で、着ていたドレスらしきものはどこにも見当たらない。
「こいつらが、例のアバズレ達かい」
部屋の中に女性の声が響いた。頭を押さえつけられたジャネットの視線の先の床は、油灯りの黄色い明かりに照らし出されていて、そこには白い足と紅いドレスの裾が見えた。その白い足の先では、脱げかけの紅いハイヒールがブラブラと揺れている。
「はい、お嬢様」
部屋の中に男達の声が響いた。
「学園のお付きのアバズレはどんな顔をしているのかね。顔を上げさせな」
少し乱暴に髪が引っ張られ、ジャネットは顔を上へと上げさせられた。目の前には革張りの椅子と小さなサイドテーブルが置いてあり、そこには油灯りが一つ、小さな灯りをつけている。
椅子の上には妙に艶めかしい足の持ち主の女が、胸元が切れ込んだ真紅のドレスを着て座っていた。その顔は灯りの影になってよく見えなかったが、声からすれば年齢は自分より少し、いや、もっと上だと思われた。
「ふーん」
女はそう呟くと、肘を膝の上に乗せて頬杖をついた。女の顔が油灯に照らし出され、彼女の金髪の髪が灯りを受けてキラキラと輝くのが見える。そしてその青く冷たい目は、じっとジャネットの顔を見つめていた。濃い化粧に縁取られた顔がニヤリと笑う。
「侍従という顔つきじゃないね。その辺の通りで、男の袖を引いている方がお似合いじゃないのかい? そうだろうお前達」
「はい、アルマお嬢様」
女の座る椅子の背後に立つ、黒い服を着た屈強な男達が一斉に答える。
「しょ、食事を、しに来ただけで、そ、それに学園にバレたら困るのはあんた達だよ!」
ジャネットの斜め前に座らされていたイベェタが声を上げた。こんな時に口を開くなんて、なんて馬鹿な女なんだろう。ジャネットのその考えを肯定するかのように再び鈍い音が響く。そして床に何かが垂れる音がした。それはイベェタの口から漏れ出た何かだった。ジャネットの鼻に酸っぱい匂いが漂ってくる。
「見かけ通りに汚いやつだね。せっかくの酒が不味くなるじゃないか」
女がイベェタの方を見ながら、うんざりした様な表情を浮かべた。
「さて、お前達。これからお前達の主人は私だ」
「わ、私たちは、家に雇われていて……」
「パン!」
ジャネットの隣の方から何かが張り倒される音が響く。
「まあ、お前達は本当に頭が悪いからまだ分からないだろう。でも私は優しい女だからね。ちゃんとお前達に教えてあげようじゃないか。主人が誰か、それに本当の忠誠心というやつがどういうものなのかをね。お前達の中身のない頭でも、主人は私で、その言葉は絶対だと言うことがすぐに理解できる様になる」
そう言うと、手にしたグラスの中の赤い液体をくるくると回してみせた。
「それとお前達。お前達が私の役に立てるかどうかも見てやろう。精々私を楽しませられるように気合いを入れてやりな」
「はい、お嬢様」
ジャネット達の頭を押さえつけている若い男達が一斉に答える。ジャネットはこの男達がこれから自分達に何をしようとしているのかを理解した。足の間から暖かい何かが漏れて床を濡らしていくのが分かる。
「おや、お前は他の奴よりはマシだね。自分がこれからどんな目に遭うかぐらいは分かっている。だけどお前さ、本当の痛みや恐怖というのをまだ知らないだろう?」
女がジャネットの目をじっと見る。
「それはね。体が感じる様なものじゃない。お前の魂に刻み込まれるものなのさ」
「コン、コン」
その時だった、鉄の扉を叩く音が聞こえたかと思ったら、外から侍従姿の男が入って来た。侍従は女の所まで来ると跪いて頭を下げた。
「なんだい? これからお楽しみの時間だというのに」
「お嬢様、お客様がおいでです」
「客? ああ、ロイスかい。そうか、やっと顔を出しに来るんだったね。このアバズレ達の顔を見るのも楽しみだけど、いきがっている男を手玉に取るのも悪くない。こっちは後回しだ」
「お嬢様、ですがこちらもあまり猶予はありませんが?」
眼鏡を掛けた侍従がちらりと背後にいるジャネット達の方を見た。
「一途な男を一人、寝台の上で骨抜きにするだけだ。そんなに時間はかからないさ。こっちだって時間はかからないはずだ。そうだろうお前達?」
「はい、お嬢様」
若い男達が一斉に声を上げる。
「ロイスは私の居間に通しておきな。私は先に酒を選んでから行くことにする。今日はどんな酒がいいかね」
女はそう楽しげに呟くと、ジャネット達の存在を忘れたかの様に、男達を引き連れて部屋の外へと出て行った。
「バン!」
鉄の重い扉が閉まる音がする。そしてジャネット達の周りは漆黒の闇へと閉ざされた。