ちやほや
「こんな上等な酒なんて飲んだことないよ」
「美味しすぎて怖いくらい」
「明日、起きれなかったら事ね」
「でも見て、この青いところと赤いところが綺麗に分かれているの。とっても不思議ね。これってどうやって……」
ジャネットは少しばかり酔いが回った頭で、女達が騒ぐのを見ていた。自分達が注文したものはとうに食べて飲み終わっていたが、今日は店主の誕生日だとかで、部屋に案内してくれた黒い三揃に身を包んだ男達が、店で追加の酒を奢ると言ってきた。
もちろんこちらは貴族達や大店の旦那衆が飲むような高い酒に詳しくはない。戸惑っていると若い男達は、
「皆さんにお似合いのお酒を、私達の方で選ばせていただいてもよろしいでしょうか?」
と笑顔で告げて来た。
小娘達がチヤホヤされるのを目の前で山ほど見てきたにも関わらず、自分がチヤホヤされる事には全く慣れていない女達は、その言葉に舞い上がると、手に手に供された酒を飲んではしゃいでいる。
ジャネットも手にした杯の中の透明な液体を口に含んだ。それはよく冷やされており、微かなローズマリーの様な香りと共に、何かの果物のような甘みを感じる酒だった。
確かに上等な酒だ。あの家の旦那が私に飲ませた、そして後でこっそり盗み飲んだ酒と同じ様な味がする。あの頃は自分がささやかな金を得た代わりに、一体何を無駄に手放していたのかも、何も分かってはいなかった。その点では目の前の、全く年齢と合っていないドレスを着た女達と同じだ。
だけど少しは世間というものが分かったからと言って、何が変わるのだろう? 何も変わりはしない。失われたものが戻ってくることなど決してないのだ。
「お気に召しませんでしたでしょうか?」
自分に酒を作ってくれた男がジャネットに問いかけた。
「いえ、とてもおいしいです。この香りは何の香りなのでしょうか?」
「はい。ウォーリス侯爵領から取り寄せた、高地に咲く特別なラズベリーの香りを入れています。メラミー様の少し菫色が掛かった髪にお似合いかと思って、お出しさせていただきました」
『メラミー?』
ジャネットの酔った頭で、どうして自分が世話する娘の名前が出たのか訝しがったが、すぐにそれが今日の自分の偽名だということを思い出した。
「そうですね。とても変わった香りが、でも上品な香りがします」
「お気に召して頂いたようで何よりです」
「はい。それはそうと、会計はどうなっていますでしょうか?」
「申し訳ございません。現金での取り扱いということで、金貨でお支払いいただきましたので、会計のものが少々手間取っております。もう間もなく清算できると思います。お待たせしたお詫びもありますので、店主の方からはお好きなお飲み物を差し上げるようにと言付かっております」
「それは大変嬉しいのですが、私達も予定がありまして。間も無く清算が終わるというのであれば、馬車を店の前まで呼んで貰ってもよろしいでしょうか?」
こんな似合わないドレスを着て、この盛場をぞろぞろと歩く訳にはいかない。
「馬車ですか?」
「はい。私達が乗ってきた馬車ですが?」
「申し訳ございません。辻馬車との事でしたので、他のお客を乗せてしまいました」
「何ですって!」
ジャネットは黒服の男に気色ばんで見せた。あの御者には金を渡していい含めてあるが、その辺の辻馬車を捕まえて、学園の前までこの姿で戻る訳にはいかない。
「大変申し訳ございません。こちらの手落ちでございます。店の馬車にて、皆様をそれぞれのご自宅までお送りさせて頂きます」
「こちらにも都合と言うものがあるんです!」
「もちろんです。お客様のことに関して、店の者や馬車の御者が何かを口にしたりすることは決してございません。その点についてはご安心ください」
こちらが訳ありというのは十分承知と言うことね。ジャネットは心の中で鼻白んだ。
「ジャネット、送ってくれると言っているんだから、そんなに青筋を立てなくてもいいじゃないか。これ、もう一杯作ってもらってもいい?」
「はい、お嬢様。承知いたしました」
イベェタの酔った口から出た台詞に、ジャネットは思わず頭に手をやった。こんな酒ぐらいで分別を無くすなんて、こんな奴らと一緒に来たのがそもそもの間違いだった。だがどうせ店のものにはこちらの事などバレバレだし、それほど気にすることもないのかもしれない。
今日は全てを忘れて、普段相手をさせられているガキどもやおっさん達ではなく、いい男といいうのにちやほやされるというのも悪くはない。そう思ったジャネットは、申し訳なさそうな顔をしている若い男の目を見つめた。心無しか男の顔が紅くなった様に思える。
「では、私も同じのをくださいな。それとラベンダーの香りはもう少し強めでお願いします」
「はい、お嬢様。承知いたしました」
三揃いを着た巻毛の若い男は、右手を胸の前に持っていくと、ジャネットに向かって丁寧に、そして深々と頭を下げた。
* * *
一番混んでいる時間帯らしく、通りはごった返している。マリアンは素早く馬車の間を抜けていったが、それでも無理に走り抜けようとする馬車や、立ち止まって話をする通行人などを避けて前へと進むのは容易ではなかった。それにまさか走ったりして、周りの注目を浴びる訳にもいかない。
そんなことで足止めを食っているうちに、マリアンが目指す馬車で、御者が馬に鞭を入れるのが見えた。後ろの侍従台にも黒い三揃いを着た男が二人乗り込んで、油断なく辺りを見回している。これでは付き人の振りをして、馬車の後ろにこっそり乗っていくという手も使えそうにない。
隠密の力を使おうとも思ったが、このような雑踏で、しかも相手が警戒している場合、何処までその効果が持つかは分からない。むしろ気が付かれない事による危険も有る。隠密は決して万能の力では無いのだ。
「お嬢さん、あなたの馬車はこちらですよ」
不意にマリアンの背後から声がかかった。行く手にも男が立つのが見える。マリアンは思わずスカートの下に隠してある短剣に手を伸ばそうとしたが、直ぐにそれを諦めた。騒ぎを起こして、この男達を巻く事は出来るかもしれないが、目立つ上に危険すぎる。ここは相手の出方を見たほうがいい。
男達は周囲の通行人からマリアンの姿を隠すように立つと、同時にマリアンが咄嗟の動きでその囲みを抜けられない様に、間合いを保持しながら移動する。マリアンの心に後悔の念が浮んだ。相手を舐めていた。ただの腕っ節が強いだけの男達ではない。こちらが小娘だからと言って、油断したりなどもしていない。
自分が追うつもりにだけなって、自分も追われる立場かもしれないという事を完全に忘れていた。唯一希望があるとすれば、馬車にいるハンスがこちらの状況を把握してくれている可能性があることだけだ。
男達は一台の黒塗りの、紋も何もない馬車の前にマリアンを誘導した。それは豪華ではないが、かと言って辻馬車のようなくたびれた感じもない、ともかく目立たない馬車だった。
中から扉が小さく開く。マリアンが自分を囲む男達をみると、その中の一番年嵩の男がマリアンに頷いて見せた。だがその片手は油断なく懐の中に入っている。マリアンはわざとらしく唇の端を小さく上げて見せると、その隙間に身を躍らせた。
「こんなところで何をやっている?」
奥から男の声が響いたかと思ったら、馬車の中に小さな油灯が灯った。マリアンの視線の先では、頬に傷がある男が、少し呆れた顔をしてマリアンの方を見つめている。
「ロイス、今は忙しいの。私の邪魔をしないで頂戴」