待人
「ご無沙汰しております」
マリアンは庭のバラが咲いた花壇で、花がら摘みと下に落ちた花びらの掃除をしていた男性に声をかけた。
「マリアンさん、今日はこちらにお戻りですか?」
日除け帽に手をやったハンスが、背後に立つマリアンに声をかけた。
「はい。ですが夜には学園の方へと戻る予定です。それにしても見事に咲きましたね」
「そうですね。お嬢様にお見せしたかったですな。夏の害虫駆除と、秋の初めの剪定を丁寧にやられたので、今年はとてもよく咲きました。これならカミラ奥様にも引けは取らないと思います」
「はい」
「帰る前に声をかけてください。いくつか切花にしますので、それをフレデリカお嬢様に持って行ってください」
「承知しました。帰りなのですが、少し荷物が多くなりそうなのと、ライサ商会の方へ顔を出したいとも思いますので、申し訳ありませんが学園まで送っていただけませんでしょうか?」
「荷物?」
「はい。フレデリカ様の着替えが多くなりそうなのです」
「なるほど。かしこまりました。準備ができたら声をかけてください」
「はい。よろしくお願い致します。それと、もう一つお願いがあります」
「何でしょうか?」
「はい、私からハンスさんへの個人的なお願いです」
「個人的なお願い?」
「はい。私を鍛えていただきたいのです。私は護衛役としてはハンスさんの足元にも及びません。この間もフレデリカ様が命に関わるような危険な目に遭われました。全ては私の怠慢です。私はフレデリカ様の盾として、あまりにも未熟なのです」
ハンスにそう告げたマリアンの目はとても真剣だった。
「マリアンさん、本当にそうでしょうか? 私から見れば、あなたは問題なく役目を果たしていますし、才能も十分におありの様に思えますが?」
そう答えると、ハンスはマリアンに頭を振って見せた。
「今さら私ごときが指南するようなものなど何もありません。誰も表立って口に出しては言いませんが、カミラ奥様の件といい、ジェシカお嬢様の件といい、私など何の役にも立ちませんでしたよ」
「そうでしょうか? そうとはとても思えません。むしろ不用意に存在を示すことなく、適切な対処を行なわれただけの様に私には思えますが?」
「人を見かけで判断してはいけないのは確かですが、あなたは本当に見かけ通りの年齢ですかね? 今の発言も含めて、あなたは十分にその役目を果たせます。あまり気負わない事です。一人の力には常に限界があります。我々は神ではないのですからね」
「ですが、あまりに未熟です!」
「困りましたね。あえて私から何か言うことがあるとすれば、あなたに足りていないのは経験、いや、想像力とでも言うべきものでしょうか? 全てを脅威として捉えることは無意味です。ですが、存在する脅威について適切にその評価を行い、それに対する準備をする。刃を振るうより、そちらの方が遥かに重要で役に立ちます」
「私もそう思います。ですからハンスさんに私を鍛えていただきたいのです」
「ではこうしましょう。私がフレデリカお嬢様に悪戯を仕掛けることにします」
「悪戯?」
「はい、それを防いで見てください」
「あの、それは学園にいるフレデリカ様に仕掛けるということでしょうか?」
「ええ、もちろんです」
「一体どうやって学園の備えを抜けるのです?」
「それが分かっているだけでも、貴方は大したものです。まあ、それについては職業上の機密ということでお願いします。そうですね。期限は今晩から3日ということにしましょう。マリアンさん、あなたはそれを防いでください」
「分かりました。お受けいたします」
「これは遊戯の様なものですから、何か条件が必要ですね。もし防げなかったら……。そうですね。もう少し多めにお屋敷まで戻ってきてもらうことにしましょう」
「それではフレデリカ様の身の安全を守れません!」
「貴方の帰りを心待ちにしている者が何人も居るのです。それにマリアンさん、一人で誰かを守り切るなどというのは無理ですよ。フレデリカ様にはロゼッタさんもついています。ずっと側にいるよりも、たまに少し離れたところから見た方が、物事は良く見えると言うものではないでしょうか?」
「分かりました。ハンスさんがそうおっしゃるなら、そうすることにします」
マリアンはハンスに頷いて見せた。
「ほら、貴方を待っている人の一人が、貴方を見つけたようです」
「マリアンさ〜〜ん!マリアン……!ちょっと邪魔しないでください!」
「モニカさん、落ちます。窓から落ちますよ!」
屋敷の方を振り返ると、モニカが二階の窓から身を乗り出して大きく手を振っている。見知らぬ若い男性が、今にも落ちそうなモニカの体を必死に支えていた。
「そうでしょう?」
ハンスはそう言うと、マリアンに向かってにこやかに笑って見せた。
* * *
「モニカさん、あんなに大声で叫ばなくっても……」
屋敷の中に入ったマリアンは、二階に上がってモニカに声を掛けた。
「マリアンさん、マリアンさん」
「あのモニカさん、そんなに抱きつかなくても……」
「まあマリアン君、そう無碍にするものじゃない。モニカ君は君に会うのを楽しみに頑張っていたようなものだからね」
「あれ、コリーさん? コリーさんまでどうしてここにいらっしゃるのですか? それに一体これは?」
マリアンは、かつてはフレデリカの学習室を兼ねていた読書室、今では隣の図書室までの仕切りが取り払われて、一続きの部屋になったそれを見渡した。そこでは片手を超える事務員の制服を着た人達が働いている。みんなあっけに取られた顔で、マリアンとそれに抱きついているモニカを見ていた。
「あ、それはですね」
マリアンに抱きついていたモニカが顔を上げると、嬉しそうな顔をしてマリアンを見た。
「ライサのカスティオール部門が、そのままこちらのお屋敷に移動してきまして、ここで業務を行なっています」
「えっ、どう言う事ですか?」
「はい。安全性の問題から、カスティオール領への直接の投資は未だに望めないのですが、神殿から先で霧が後退しているとかで、他社が神殿への航路や他国への海運を手控えています」
「それとカスティオールに何の関係が?」
「実はカスティオールへの海運は元々悪条件の元で行われていて、周辺の代替航路に関しても、カスティオールが海図、航路について一番に情報を持っているんです。その資料がここにあります。今回はそれを活用して、王都と海外貿易、神殿への航路に絞って投資を行なっています。機密保持の観点からもここで作業を行っているんです」
「でも、そうするとカスティオールへの海運に支障が出るのではないでしょうか?」
「一時的にはそうですが、残念な事に今は動かす物自体がないのです。当面、ライサの海運部門はこれで利益を出して、船の改修並びに新造船への交代を進めます。将来カスティオールに投資が戻った時にはそれが効くはずです。現在の航路だと、今まで効率が良かった他社がもつ中型船より、大型船の方が効率がいいんです。それに安全性も高まります」
そう言うと、帆柱が3本もある大型船の物らしい模型を指さして見せた。
「そもそもこの国は内陸志向で、航海技術に関してはカスティオールの独占のようなものです。条件が悪化したことにより、他社が及び腰になって、今回はそれが有利に働きました。それだけではありません!」
そう言うと、モニカは大きな地図を広げている机の前にマリアンを引っ張っていった。地図の上には薄い布が被せてあって、中が見えないようになっている。
「モニカ主任、それは外秘ではないでしょうか?」
事務員の一人がモニカに声をかけた。
「マリアンさんは社員です!」
「え、侍従さんではないのですか?」
「あの、私の様なものが……」
「違います!この件の中心人物そのものです!エイブラム代表も認めています。そうですよね、コリーさん?」
「ああ、そうだ……」
だがモニカはコリーの返事を最後まで待つことなく、地図の上の布をどけた。そこにはカスティオール領の大きな地図が置かれていて、街や街道、地形といった本来の地図の表記だけでなく、様々な色と記号の印が大量に貼られている。それはまるで地図の上に、子供が切り絵でいたずら書きを描いたようになっていた。
「これは?」
「カスティオール領での様々な被害の種類と規模、その発生の時期を記録したものです」
「モニカさん、これって?」
「私たちは被害が少ないところで、カスティオールの復興のための産業が起こせないか考えて見ました。どうやら内陸側は全く被害がないように思えるのです」
そう言うと、草原地帯になっている地図の内陸部を指さした。
「ここではこれまで牧畜の一部ぐらいしか産業がありませんでしたが、新しく街を起して、こちら側の開発を先に行うことにしました」
カスティオール領は多くが海に面していることもあり、大きな街はほぼ海沿いにある。そのため内陸部には大きな街自体が殆ど無い。
「紡績業を考えています。海からは遠くなりますが、内陸側の王都への街道もあります。つまりカスティオール領の全体がダメという訳ではないんです」
マリアンは地図の上のある事実に気がついた。モニカの見せた地図の上に散りばめられた、あまりに多くの図や記号のせいで、かなり分かりづらくなってはいるが、それが明らかに存在しているのが見て取れる。
「あの?」
何か言おうとしたマリアンに向かって、モニカが目配せして見せた。