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星振

「コホン」


 エドガーは小さく咳をすると、壁にかけられた星見の者専用の大外套に手を伸ばした。大きなフードがついた皮でできたそれはずっしりと重く、急な体の動きで星振(ほしぶ)が影響を受けないようになっている。


 エドガーは壁から外したその重みに思わず前のめりになって、たたらを踏んだ様になってしまった。交代時間になった星見官達が、エドガーの姿を見て苦笑を漏らすのが耳に入る。


「若いの、そんなに緊張しなくても大丈夫だ。慣れれば術を使うよりよほど楽にできる」


 自分の父親ほどの年齢の星見官がエドガーに小声で声を掛けてくれた。エドガーは手にした大外套に腕を通しながら彼に頷いて見せる。だが心の中では緊張するなと言うのは絶対に無理だと思っていた。僅かの間に受けた研修でも、集中力が切れて同期を維持しきれなくなる事多数だったのだ。


 研修に使った星振は本物ではない。切れてもそれが自分の心に跳ね返ってくることもない。だが今日自分が使うのは本物なのだ。術で呼び出した使い魔が制御が切れた途端に、こちらの魂に手を伸ばす様に、星振はこちらの意識へと逆流する。星振への制御を失えば、跳ね返ってきた球によってガラスが砕けるように、こちらの精神が破壊されるのだ。


 星振によって精神を壊された者に関する噂は色々と耳にするが、エドガーが実際に会ったことはない。その者たちは引退者としてこの国のとある場所に送られ、そこで一生を終える。つまり国家機密扱いだ。しかし星振にはそれだけの危険を冒すだけの価値があった。


 星振はこの世界における術の執行を検知し、必要があればそれを覗く、あるいはそれを遮断し邪魔をすることができる。国家の耳であり、目であり、腕である。この星振こそが無秩序な術の行使を制限し、大魔法による他国からの攻撃を防ぐ唯一の手段でもある。


 王宮魔法庁とはこの星振を管理し、世に秩序をもたらしている組織、言わば世の秩序の担い手だ。故に星振は厳重に管理されており、それを操る者も一握りの選ばれし者と言えた。


 エドガーは星見官の象徴である大外套の重みを肩に感じながら、控え台の上から連絡橋へと降りた。厚いフェルト生地が裏に貼られた靴は何も音を立てない。連絡橋は天井から吊るされた星振の間を通って、それぞれ担当とする星振までをつなぐ通路になっている。


 辺りでは細い金属を束ねて作られた紐が、天井と下で揺れる星振との間で、微かに擦れる音だけを響かせている。エドガーは振動を立てないように歩きながら、連絡橋の下でゆっくりと揺れている星振を見つめた。


 側から見ればそれは金属で出来た単なる巨大な振り子にしか見えない。ここからは見えないが振り子の先にはペン先を巨大にしたような星砂腺がいくつか備え付けられており、星振の動きに合わせてそこから微かに色がついた砂を、真っ黒だったり、真っ白だったりする床の上へと落としていく。そのために下に見える床は巨大な遊戯版の様に見えた。


 その床の上には星振が落としていく細かな砂が美しい幾何学模様の曲線を描いている。見ようによっては、それはとても美しい眺めとも言えた。しかしその曲線が描いているのは決して何かの芸術作品などではない。これは星振の耳としての機能であり、その記録でもある。


 星振はそれが感知した術の種類やその力の大きさ、距離などに応じて異なる色の、異なる太さ大きさの線を描く。それは複数の地点に設置された星見の塔で測定され、三角測量によって正確な位置を割り出すようになっていた。


 星振が描く模様は「耳」と呼ばれる役職の者によって常時監視され、異常があればそれは監視台にいる者に手信号によって即時に送られる。そして、「目」と呼ばれるその場所を覗く者が送られてそれを監視する。


 もしそれが王宮魔法庁として介入すべき事案であるならば、通常はエドガーの元の部署である執行部に連絡がいき、執行官がそこに駆けつけることになる。だがそれが緊急を要する事態であったり、外国からの攻撃と思われるような場合は「腕」が投入される。


 「腕」は最上位の星見官であり、機密保持から本名すら伏せられている。彼らは二つ名で呼ばれ、厚いフードを被って人前に姿を直接に晒すことはない。エドガーが被っているフードも、本来はその機密保持のためのものだ。


 腕がどのようなやり方で介入するのかについて、エドガーは詳しくは知らない。それは最上位の機密事項であり、漏れ聞く噂が本当であるならば、その力や行使の仕方は星見官によって異なるらしい。


 そんな事をぼんやりと考えているうちに、エドガーは自分が担当する星振の前へと到着した。それはこの塔の一番奥にあり、他に比べると少し小振りの星振が備え付けられている。これが小振りなのは、それが扱う場所が極めて限定的な場所を見るためのものだからだった。


 エドガーは連絡橋から螺旋階段を伝わって下に降りると、ゆっくりと動く星振を眺めた。今のそれは普通の振り子と同様にゆっくりと動き、黒い床に一本の白い扇型の線を描いている。エドガーはその白の中に他の色が混じっていないか注意深く確認したが、特に他の色は何も見当たらなかった。つまりは異常なしという事だ。何かあれば、そこには直線によって描かれたものではない曲線が、白以外の異なる色で描かれることになる。


 エドガーは床の端にある一段高くなっている台座、通称「懺悔の間」と呼ばれている場所に向かうと、そこにある薄いクッションが敷かれた床の上で、まるで土下座をするように膝と腕をついて床に体を這わせた。そして口の中で星振と同期するための呪文を唱え始める。


「全てを見通す天の目よ。我はあなたの僕にしてその慈愛に触れし者なり。その力を我にお貸し給え……」


 エドガーの頭の中に目の前にある星振が浮かぶ。それは真っ黒な虚空の中でゆっくりと前後に動き続けていた。エドガーの心がその動きに合わせて前後へと揺れていく。そしていつしかそれは星振と一緒に虚空の中を飛び交っていった。


 その暗闇の先で、星振が動いた後に何かがぼんやりと浮かび上がる。だがそれは星振の動きに合わせて現れては消えていくので、常に見ることはできない。まるですぐに曇る窓から外を拭いては見て、拭いては見てを繰り返している様だった。それに雨の先の風景を見ているようにはっきりともしない。


 そこには道を歩く若い女性達の姿がぼんやりと映っていた。制服だろうか、彼女達は皆お揃いの服を着ている。星振がその中の三人の女性をさらに大きく映し出した。それは金髪、赤毛、黒毛のそれぞれ異なる髪の色をした女性だった。一人は怪我でもしているのだろうか、手に杖を持っている。


 エドガーはぼんやりとした意識の中で、どうやら星振と同期が取れたらしい事を理解した。だがまだだ。今は見るという意識が働いている。本当の同期はこれが「無」つまりエドガーの自我から切り離されたところで行えないといけない。星振が何かの力を感知するまでただ無心に星振と一体になり、精神的な仮死状態になる必要がある。そうでないとすぐに力を消耗してしまう。


 エドガーは星振が見せる風景から意識を切り離して、再び星振に意識を戻した。全てが消えたように感じるまで星振と意識を一体にしないといけない。星振が大きくなり、そして次第に小さくなっていく。自分が一緒に揺れている感じもだんだんと消え去り、ただ虚空に浮かぶ銀色の球体が、目の前からゆっくりと遠ざかっていくのが分かった。だがそれは中々小さな点へとなっていかない。


『後少し、後少しだ』


 エドガーの完全に消し去ることができずにいる自我が、焦りを感じて小さく言葉を漏らした。星振がその心の言葉に反応するようにぶるぶると震えてみせる。同期がずれたのだ。最初から手順を踏んでやり直さないといけない。だが心像の中の星振はそれに反発するかのように、虚空の中を大きく飛び跳ね始めた。


『何が、何が起きているんだ……』


 それは見えない巨人が星振を掴んで振り回しているかの様だった。それに振り回される様に、エドガーの意識も強風の中の木の葉の如く吹き飛びそうになる。


『まずい!』


 今度は自我がはっきりとした叫びを上げた。直ぐに意識を止めないと、気絶しないといけない。だがエドガーの心像の中の星振はそれに反発するかのように、心の虚空の中を大きく飛び跳ねた。


「バリン!」


 心の中で何かが壊れるような音が響く。それはエドガーの心の中の星振が砕け散った音だった。その中から飛び出してきた嵐のような何かが、エドガーの心の中で吹き荒れる。それは生まれてからこの方、心が忘却という薬で奥底に塗り込めた傷の数々、恐怖、怒り、孤独、様々な負の感情の嵐だった。


 それはエドガーの周りを渦巻くと、二度と思い出したくもないものを、その時の感情そのままにエドガーへとぶつけてきた。


「た、助けて母さん!」


 エドガーは幼かった時のように母親に助けを求めた。だが幼い時には居た、背後に隠して自分を守ってくれた存在はここには居ない。


「フフフフ……フフフフ……」


 その時だった、どこかから若い女性の笑い声が響いてきた。これも自分が忘れていた思い出したくもない何かだろうか?


「フフフフ……面白い」


 誰かがエドガーの前に立っている。母親? いや違う。その輪郭しか分からない黒い影は、まだ幼さを残した少女の様に思えた。


「面白い!面白い!」


 少女の口からまた同じセリフが聞こえ、再びケラケラと笑う声が意識の中で響く。そして影はエドガーの前で大きく息を吸って見せた。それに合わせて、周りにあるエドガーの忘れていた過去が、負の感情達が、その口へ次々と吸い込まれていく。エドガーの心の中に静寂が戻った。


 そこには何も、何もない。いや、目の前にいる少女らしき影だけがある。それがゆっくりとエドガーの方を振り返った。黒い影の中で、そこだけ赤く見える口がニヤリと笑ってみせる。


「あなたは私のものよ」


 その鮮血の様に赤い口がエドガーに告げた。それはエドガーの心に先ほどのどの負の感情よりも激しい恐怖をもたらす。まるで氷の剣で魂を突き刺されでもしたかの様にすら感じられる。その恐怖と痛みにエドガーの魂が悲鳴を上げたが、少女は赤い口を開けて、エドガーを見ながらただケラケラと笑っているだけだ。


「やめてくれ!」


 エドガーは心ではなく、自分の口が叫び声を上げているのに気がついた。そして何人かの男達が自分を見下ろしている。それは黒い皮の大外套を被った男達だった。


「気がついたぞ」


「気がつく? ともかく睡眠薬をよこせ!眠らせるんだ!」


 男の一人がエドガーの口元に白い布の様なものを差し出した。


* * *


 救護室の白い寝台の上で若い男が一人眠っている。その姿を星見官の制服を着た男が二人で見下ろしていた。一人は背が低い中年の男性だった。


「レオニート長官、こんな若造に星見官をやらせるのはやはり無謀だったのではないでしょうか? それにいきなり星振を暴走させるなどというのは聞いたことがありません」


 短く髪を刈り込んだ少し厳つい感じがする男性が、隣に立つ小男に声をかけた。


「いや、間違ってはいなかった様だよ。アメデオ君、君は本質を見誤っているよ」


 レオニートが男に向かって答えた。レオニートの言葉にアメデオと呼ばれた男が怪訝そうな顔をして見せる。


「君は彼が眠らせる前に目を開けて言葉を発したと言ったね」


「は、はい。確かに言葉を発しました」


「何て言ったのかな?」


「確か、『やめてくれ』だったと思います。こ、言葉……」


 アメデオは自分の発言の重大さに気がついたのか、途中で口をつぐんだ。


「気がついたかね。私が知る限りではおそらく初めての事例だ」


 レオニートはそう告げると、エドガーの方を指差してアメデオ副長官の方を振り返った。


「彼の精神は暴走した星振から生還したのだよ」

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