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「ふう」
机の上に置かれた洗いざらしの綿の袋を眺めながら、オリヴィアは何度目になるか分からないため息をついた。
宿舎に戻ってから、イエルチェにフレデリカが戻ってきているか尋ねに行ってもらったのだが、夕方の遅い時間になっても、フレデリカはまだ部屋に戻っていないとの事だった。そんな事をしているうちに夕飯の時間になり、夜になってしまったのだ。
もしかしたら、食堂に行けば会えるかもしれないと思ったが、侍従に食事を部屋まで運ばせて、そこで取るものも多い。特にまだ入学して間もないオリヴィアの様な新入生は、食堂に立ち入るのにはまだ抵抗があった。
「ふう」
再びため息が出る。ただお弁当箱を渡すだけであれば何の問題もない。明日の朝にフレデリカに渡せばそれで済む。オリヴィアにため息をつかせているのは、その袋の隙間から顔を出している質素な封筒だった。
もちろんそれはエルヴィンがフレデリカ宛に認めたもので、決して自分宛のものではない。だがオリヴィアはそれがどうにも気になって仕方がなかった。そして頭の中では自分を助けてくれた時のエルヴィンの姿と声が、まるで木霊のように響いている。
そんなに気になるのなら、明日フレデリカに渡した時に手紙の内容を聞けばいい。それだけの事だ。彼女のことだから、きっと笑いながら教えてくれるに違いない。
『そうだろうか?』
心の奥の何かがオリヴィアに囁いた。フレデリカは本当の事を教えてくれるだろうか? その手紙にエルヴィンの心の内が書かれていたら、決して他の者には漏らさないのではないだろうか?
『真実を知ることよ』
心の奥の何かが再び告げた。もし、エルヴィンがフレデリカに好意を抱いているのであれば、自分に出番はない。私のような痩せこけた病弱な子など、あの太陽のように明るく輝くフレデリカの前では、昼間の星のようなものだ。それも夜に輝くような星ではない。数多の星屑の一つに過ぎない。
『欲しいものは、手を伸ばさない限り手には入らない。あなたはそれを知ったはずよ』
また声が響く。
「そうね。そうだった」
私は自分が望まねば生き残れなかった。オリヴィアは心の奥底の声に向かって頷くと、袋の中の封筒を取り出した。その封筒には封はされていない。中には肌色の便箋に、とても丁寧な字で文が綴られていた。
「拝啓、フレデリカ・カスティオール様」
オリヴィアはそれから始まる文章に目を通した。そこには試合で大変失礼したことへの謝罪がまずは綴られている。それと同時にフレデリカが無事であったことへの感謝と、その勇気を褒め称えている文章が書いてあった。それはエルヴィンが剣だけではなく、十分に常識と教養も備えていることが分かる内容だった。
続いて自分には妹が一人いて、妹は長く病に臥せっていること。そしてフレデリカの事を手紙に書いたら、是非に会ってみたいと言っていること。もし機会があったら、妹の願いを叶えて欲しいとも書いてあった。僅かな描写ではあったが、その病状の件を読む限り、ミカエラという名前のエルヴィンの妹は、自分と同じ病気のように思えた。
文章からはエルヴィンが本当に妹の事を大事に思っているのが良く分かる。オリヴィアの目から涙が流れた。彼は妹の命が決して長くないことを十分に弁えている。それを理解した上で、残り僅かな時間を大事に生きて欲しいと願っていた。同時にその苦しみを分かち合えない自分に、罪の意識を持っているのも感じられる。
愛情と本人が呼んでいる、母親の歪んだ思い入れしか知らないオリヴィアにとって、エルヴィンの妹への思いは、素朴で偽りのないものに感じられた。ミカエラという妹がとても羨ましくすら思える。
『愛情?』
文の最後で、オリヴィアの目が止まった。
「愛情が一杯詰まったお弁当をいただいて、とても恐縮しております。有り難く、美味しくいただきました」
一体どういうことだろう。フレデリカの方からエルヴィンに好意を抱いているのだろうか? 訳が分からない。
フレデリカは教室を出て行く時に仲直りをしに行くのだと言っていたはずだ。それにイサベルさんから聞いた話では、エルヴィンは本気でフレデリカに挑んだらしい。もうちょっとで大怪我をしかねないような試合だったと言っていた。その状況も自分を助けてくれたエルヴィンの態度とは合致しない。
『おかしい、何かがおかしい』
オリヴィアは手紙に変な折り目がつかないように慎重に畳むと、それを封筒の中に仕舞い込んだ。そして洗いざらしの袋の中へと戻す。
この件はフレデリカに尋ねてみるべきだろうか? だがどうすればそれを尋ねられるだろう。いずれにせよ、彼にもう一度会って話をするには彼女に頼るしかない。
「イエルチェ」
「はい、お嬢様」
「便箋と封筒を持ってきてください」
「ご実家へのお手紙でしょうか?」
「違います。ある方に礼状を書きますので、失礼の無いものの用意をお願いします」
「はい、承知致しました」
* * *
「トン、トン」
寝室の扉を叩く音がする。だが寝台の上で寝ている者に、それを気にする様子は全くない。
「トン、トン、トン」
再び扉を叩く音が響いた。今度のは相当に苛立ちを感じさせる叩き方だった。だが寝台の上の者はそれでも微動だにしない。
「ドン、ドン!」
再び扉を叩く音が響く。今度のそれは叩くと言うより、まるで扉を破壊するかの様な音だった。
「ガチャ」
扉の鍵が回る音がすると、小柄な人影が部屋の中へと飛び込んできた。
「サンドラ!」
部屋に飛び込んできた人影はそう叫ぶと、寝台の掛布を思いっきりはいだ。その下には手足を丸めてすやすやと寝ている女の子の姿がある。
「サンドラ、いい加減に起きなよ。オルガに起こしてくれと頼まれる僕の身にもなって欲しいな」
だが寝台の上で丸まっているサンドラは、ニコライの言葉を無視してなおも寝続けようとする。
「サンドラ!」
「ニコライ、いやらしい」
やっと目を開けたサンドラが、ニコライの姿を見てそう呟いた。
「いやらしい?」
ニコライがサンドラに向かって肩をすくめて見せる。そしてまだ寝台で横になっているサンドラの耳元に口を寄せると、
「僕たちは双子の兄弟の設定だよ。いやらしくなんかない」
と小声で呟いた。
「だから何? ほっといてくれない?」
サンドラはニコライがいる方と反対むきに寝返りを打つと「フン!」と鼻を鳴らしてみせた。
「そうもいかないんだ。ローレンスが新しい奴が来たからまた壊して欲しいってさ」
「また?面倒臭い!」
「それについては同意するよ。これだけ壊してやったんだから無駄だと気がつかないのかな。それにオルガから聞いたけど、今日は婚約者候補が会いにくるそうだよ。それに学園祭に見学に行くときのドレスの採寸もあるとかで色々と忙しいらしい。もうオルガに泣きつかれて大変だったよ」
「婚約者? なにそれ、食べてもいいの?」
「そのうち食べてもいいとは思うけど、結婚してからでないと食べちゃダメじゃないかな。また次がもらえるかもしれないし……。でもすぐにはダメだと思うよ」
「婚約者つまんない。私もおばさんが行っている学園の方がよかった」
「どうかな? あっちはあっちで色々と気を使う必要があるから、サンドラには無理だと思うよ」
「オルガはうるさい!ニコライは失礼!」
「なんでもいいから、ともかくさっさと壊してくれないかな。ローレンスから急かされているんだ」
「面倒!」
そう言いながらも、サンドラは寝台の上に起き上がると、膝を折り畳んでお尻をつけてちょこんと座った。そして目を瞑ると虚空に手を伸ばして、指先で目には見えない曲線を描いていく。
「うん!?」
サンドラの口から言葉が漏れた。
「どうした? 厄介なやつかい?」
手持ち無沙汰に手近にあった本を眺めていたニコライがサンドラに声を掛けた。だがサンドラはニコライに何も答えないで、目を瞑ったまま虚空に伸ばした手をそのまま止めている。
「面白い!」
サンドラはそう叫ぶと、再び虚空に曲線を描き始めた。その姿を見たニコライが慌てる。
「おい、サンドラ。何をしているんだ。壊せと言われているんだよ」
サンドラはニコライの言葉を一顧だにせず、最後に大きく手を振ると寝台からひょいと床へ飛び降りた。
「面白い!面白い!」
サンドラはそう口にすると、さも可笑しそうにその場でクルクルと回って見せる。そして「フフフ」と含み笑いを漏らしながら扉から外へと出ていこうとした。
「待て、サンドラ!」
だがサンドラはニコライの呼びかけに立ち止まる事なく部屋から飛び出して行く。
「バタン!」
ニコライはサンドラが後手に閉めた扉を見ながらため息をついた。
「もう、僕は予備だから本当は力を使っちゃいけないんだけどな」
そう嘆くと、本を閉じて手を伸ばして目を瞑った。だが直ぐに目を開ける。
「サンドラ!こちらから隠すなんて、何て事ををしてくれているんだよ」
ニコライが苛立たしげに叫んだ。
「ガチャ」
ニコライの耳に扉が開く音がすると、その隙間からサンドラが顔を出した。
「ニコライ、あれは私がもらうの。だから壊しちゃダメよ」
「ローレンスに説教されるぞ!」
「バタン!」
再び扉が閉まる。
「知らない、知らない!」
ニコライの耳に廊下で叫ぶサンドラの声と、食堂へと走り去っていく足音が響いていた。