芽生え
「はあ、はあ」
オリヴィアは杖に体重を預けると、左手で額の汗を拭いた。もう秋も深まってきているというのに、汗が止まらない。それでも授業棟からここまで、宿舎への半分以上の道のりを、ほとんど休まずに来ることができた。それもイエルチェの手伝い無しでだ。
気のせいかもしれないが、昨日の帰りや、朝にイエルチェに手伝ってもらいながら来た時より、自分の足でしっかりと、大地を踏みしめられている気がする。
夢か現実かは未だに定かではないが、暗闇から私に語り掛けてきた女性は、私が普通の人と同じに歩けるようになると言っていた。それを信じるのなら、私の足はそのうちに、この大地を駆けられるようになるはずだ。
オリヴィアは自分が見学した、昨日の体力測定を思い出した。フレデリカやイサベルが走り飛ぶ姿はとても輝いて見えた。体の痛みのせいか、フレデリカは何かにつけて地面に転がっていたので、とてもおかしくもあったが……。
「フフフ……」
悪いとは思ったが、オリヴィアはその時のフレデリカの姿を思い出して、含み笑いを漏らした。来年は自分も一緒に参加できるだろうか? いや参加できるようになるのだ。オリヴィアはそう決意すると、杖に預けていた身を起こして、辺りを見回した。ここは宿舎から授業棟までの道の中で、最も林が両側に迫っている場所だった。
微かに吹く風は汗ばんだ体にとても心地よく、木立のどこかで小鳥が鳴く声も聞こえてくる。だが気をつけないといけない。旧宿舎への道と同じで右手は低く、かなり急な坂になっている。体勢を崩したりして道を外れてしまっては大変なことになってしまう。オリヴィアは慎重に体の平衡をとりながら、杖を前へと進めた。
カツ!
オリヴィアの耳に何かが当たった様な小さな音が聞こえた。気がつかないうちに杖の先が石でも踏んでしまったのだろうか、杖が先からぐらりと揺れた。杖に全ての体重を乗せようとしていたオリヴィアの体は、杖が倒れていくままに横へと倒れていく。オリヴィアの足の力では、それを押し止めることはできない。倒れゆくオリヴィアの視線の先に、右手の林への急な坂が見えた。
『いけない!』
オリヴィアは心の中で叫んだ。授業棟まで杖で歩ける様になったからと言って油断していた。まだ宿舎の戻りには早い時間だ。フレデリカとイサベルには体調がよくないと嘘をついて、先に来てしまったし、イエルチェの迎えも断ったので、オリヴィアには誰も助けの手を伸ばす者はいない。迫り来る地面にオリヴィアは思わず目を瞑った。
「気をつけて!」
オリヴィアの耳に誰かの声が聞こえた。
『トカスさん?』
あの夜と同様に、あの人が助けに来てくれたのだろうか? だが声は聞き覚えのないものだった。
「大丈夫ですか?」
再び声が響いた。それに覚悟していた衝撃もない。どうやら自分の体は誰かの腕に抱えられているらしい。オリヴィアは恐る恐る目を開けた。オリヴィアの視線の先では、トカスと同じ黒い目がこちらを見ている。だがその目はトカスのとても鋭い、常に何かを見通すような視線とは違って、とても優しげな目だった。
「………」
知らない男子生徒に体を抱きかかえられている。オリヴィアはその状況に完全に混乱してしまっていた。
「これは失礼しました」
オリヴィアの無言を無礼の意思表示ととらえたのか、見知らぬ男子生徒はオリヴィアの体を道の方へ運ぶと、ゆっくりと立たせてくれた。その動きは毎日自分の世話をしているイエルチェよりも、丁寧で手際がいいぐらいだった。
「あ、あの……」
オリヴィアは男子生徒に対してお礼を言おうとしたが、何故か口からは何の言葉も出ていこうとしない。
男子生徒は言葉が続かないオリヴィアに、微笑みながら頷く。そしてオリヴィアの手を片手で支えながら、地面に転がっていた杖を持ち上げて、オリヴィアの手へ握らせた。そしてオリヴィアの体が安定したのを確かめると、オリヴィアの手から、ゆっくりと自分の手を離した。
「失礼しました。今年こちらの学園に入学させて頂きました、エルヴィン・トルレスと申します」
男子生徒はそうオリヴィアに告げると、手を胸の前に回して、淑女に対する礼をした。
「オ、オリヴィア・フェリエと申します。助けていただきまして、ありがとうございました」
オリヴィアは少し吃りそうになりながらも、エルヴィンと名乗った男子生徒にお礼を言った。本当はドレスの裾を持ち上げて、淑女の挨拶をしたいのだが、杖を片手に持つ身ではそれは出来ない。
「いえ、大したことはしていません。でも無事で何よりでした。その杖は昨日の体力測定の際に足でも挫かれたのでしょうか?」
エルヴィンがオリヴィアが手にした杖を見て尋ねてきた。
「怪我ではありません。長く病に臥しておりまして、まだ体調が完全に戻ったわけではありません。それで杖を使わせていただいております」
オリヴィアの言葉に、エルヴィンが納得したかのように頷いて見せた。
「それは大変でしたね。体が自由にならないと言うのは、とても苦労されたことだと思います」
エルヴィンの言葉には、オリヴィアが聞き慣れた哀れみや、とってつけたような同情の色は全く感じられない。父親以外の男性と話をしたことなどなかったオリヴィアは、恥ずかしさに顔を伏せていたが、恥ずかしさなど忘れて、顔を上げてエルヴィンを見つめた。
オリヴィアの視線の先には朗らかな、屈託のない笑顔だけがある。この哀れみなど微塵も感じさせない笑顔はどこかで見た記憶があった。そうだ、初めて会ったときのフレデリカの笑顔と同じだ。
「エルヴィンさんも、ご病気をされたことがあるのでしょうか?」
「私ですか? いえ、ありがたいことに生まれてこの方、病気らしい病気はしたことがありません。ですが妹が生まれつき体が弱くて、長く病に臥せっております。ですので、そのご苦労を少しだけは分かっているつもりです」
そう言うと、目の色と同じ黒い髪を恥ずかしげに手でかいて見せた。
「妹さんも大変かと思いますが、お大事になさってください」
「はい、ありがとうございます」
そう言うと、エルヴィンはオリヴィアに向かってさも嬉しそうな表情をして見せる。オリヴィアはその表情に思わず見とれてしまった。だがエルヴィンは、何かに気がついたようにハッとした表情をすると、あたりをキョロキョロと見回した。
「あの、何か探し物でしょうか?」
「そう言うわけではないのですが、私の様な男子生徒がここに居ることがバレますと、色々と差し障りがありまして……」
そう告げると今度は少し困ったような表情をして、さっきと同様に髪を手でかいて見せた。もしかしたら、婚約者にこっそり会うためにこちらに来て、林の中に潜んでいたのだろうか?
「婚約者の方を待っていられたのでしょうか?」
こんな素敵な人を婚約者に出来るなんて、どんな幸せな方なのだろうかと思いながら、オリヴィアは思い切ってエルヴィンに問いただした。
「いえ、没落貴族の出でして、とても婚約などしていただけるような身分ではありません。実はある方にお借りしていたものをお返ししようと思って、こっそりと待っていたのですが、どうやら今日は運が無かった様です」
エルヴィンはそう告げると、残念そうに授業棟の方を見つめた。オリヴィアの耳にも女子生徒達の話し声のざわめきが遠くに聞こえてくる。
「それは残念ですね」
「はい。お弁当箱をお借りしたままになっていまして、そちらをお返ししようと思ったのですが、またの機会を待つことにします」
「お弁当箱ですか?」
「はい。もう行かないといけません。見つかったら大変です。お送りすることは出来ませんが、気をつけてお帰りください」
エルヴィンはそうオリヴィアに告げると林の中に去って行こうとした。
「ま、待ってください」
オリヴィアは手を伸ばすと、立ち去ろうとしたエルヴィンの腕を掴んだ。突然のオリヴィアの行動に、エルヴィンが驚いた顔をして振り向く。
「もしかして、そのお弁当箱の持ち主はフレデリカさんという女子生徒ではないでしょうか?」
「えっ、どうしてそれを!?」
「フレデリカさんは私のお友達で、とても親しくさせていただいております。よければ私の方からフレデリカさんにお渡しさせていただきますが――」
「本当ですか? それは大変助かります。何せ見つかったら退学になりかねませんので。ではこちらをお渡しして頂けませんでしょうか?」
そう言うと、エルヴィンは弁当箱が入っているらしい簡素な洗いざらしの布袋をオリヴィアに手渡した。
「すみません。もう行かないといけません。いずれ機会があるときに、このお礼はさせていただきます」
エルヴィンはそう告げると、林の中へと風の様に駆け去っていった。オリヴィアの背後からは、お喋りしながら歩いてくる女子生徒達の足音が近づいてくる。生徒達は杖を手に道に立ち尽くすオリヴィアを、少し怪訝そうな顔をして一瞥したが、再びお喋りをしながら宿舎の方へと去っていった。
「エルヴィン、エルヴィン・トルレス」
オリヴィアの口から男子生徒の名前が漏れた。身じろぎもせずに、じっと立ち尽くしているオリヴィアの中では、今まで経験したことがない不思議な感情が渦巻いていた。自分の心臓の鼓動が直接耳に響き、まるで日向に長く身を晒してしまったかのように体が熱く、そしてのぼせたような感じがする。
『エルヴィン……』
オリヴィアは頭の中で繰り返されるその名前が、自分の身を捉えて離さない、何かの呪文の様にすら感じていた。
* * *
「お前にしては、なかなかうまくやれたじゃないか?」
ヘクターは林の木立の影に飛び込んできたエルヴィンに声をかけた。だがヘクターの呼びかけにエルヴィンは無言だった。それにその表情は少しばかり険しいものに見える。
「エルヴィン、そんな顔をするな。別に相手を騙したわけじゃない」
「いや、騙している。こちらが相手のことを知っていたことを、臥せているのだからな」
「何も悪いことなどしていないよ。それとも何か、あなたがフレデリカ嬢のお友達であることをとある場所から聞いて、ここで待っていましたとか言うのか? そんなことを言ったら、気持ち悪るがられるだけだと思わないのか?」
ヘクターの言葉にエルヴィンが複雑な表情をして見せる。
「それはそうだが……。それに石を投げてあの子の体勢を崩した」
ヘクターの口からため息が漏れた。
「それぐらいの事を気にしている様だと、先が思いやられるぞ。それとも何か、お前としては赤毛のお嬢さんより、さっきのお嬢さんの方が気になるとでも言うのか? そんなことより、石を杖が降りたところにタイミングよく投げられた俺の腕を褒めろ」
そう言うとヘクターは自分の右手をエルヴィンの前へと突き出した。だがエルヴィンはヘクターの右手を無視すると言葉を続けた。
「長く病に臥せていたそうだ。彼女の体を支えたときに分かった。ミカエラと同じ病気だったのではないかな。とても長い間体の自由が効かなかった様に思える」
「それで杖なのか? でも、入学した時には車椅子と聞いていたから、だいぶ良くなったんじゃないかな」
「そうだと思う。彼女が同じ病気だったとしたら、ミカエラにも希望がある。できればどんな治療を受けたか聞きたいのだけど、無理だろうか?」
「聞いてどうする?」
「えっ、ミカエラが治るかもしれないのだぞ!」
エルヴィンは不思議そうな顔をして、ヘクターを見た。だがヘクターはエルヴィンに向かって首を横に振ってみせた。
「それを聞いてどうするんだ。その治療費をお前が払えるのか? 既に俺たちはここに入るだけで、借金なんてもんじゃない、大きな借りを負っているんだぞ」
ヘクターは黙り込んだエルヴィンの肩に手を置いた。
「いいか、エルヴィン。俺達はここに恋愛ごっこをしに来たんじゃない。俺達の人生を賭けてここに来ているんだ。お前にとってはミカエラの命もかかっている。今はお前に運が向いているんだ。俺はお前がこの運に乗れるように最大限手を貸す。たとえそれがどんなにやばいことでもだ」
「分かっている……」
エルヴィンはヘクターに向かって頷いてみせた。あの子がフレデリカの友達だと言うことも、元々は車椅子で通っていたことも、見栄えの良いヘクターが危険を犯して侍従達から仕入れてきてくれた情報だ。
「それに時間もない」
「そうだ。俺達がここにいられるのは二年ちょっと、三年に満たない。ミカエラにはその短い時間すらあるかどうか分からないのだからな」