太陽
マリアンは夜風に吹かれながら土手の上からメナド川の川面を、そして、その向こうに並ぶ倉庫街の辻灯を眺めていた。
夜ではあったが頭上の青白い月と、赤い月の月明かりが足元を十分に照らしていて、堤防からは草の新緑の青い匂いと、少し湿った土の匂いが濃厚に漂ってくる。
背後の灰色の街は反対側の川岸と違って、灯の一つも見えない。ここに住む人達は夜でも、息を潜めて、まるで何かを伺っているように感じられる。今の自分にとっても、前世の自分にとってもお似合いの街なのだろう。
お姉さまは貴族の家の令嬢としてここに生まれた。お姉さまにふさわしい生まれ方だ。だけど自分は、前世でもお姉さまに会うまでは、様々なものに妥協し、あきらめ、色々なものにがんじがらめの人生だった。
自分をもてあそび、穢していった男や女の手を思い出すと、心が締め付けられるように痛む。今の生でも、自分の運命は対して変わらなかった。いや、変わらないはずだった。お姉さまに会うまでは、、。
この生でも、実季ではない、マリアンとしての生でも、お姉さまは私を救ってくれた。お姉さまは、まるで太陽のような人だ。私を明るく照らして勇気づけてくれる。
だからこそ、私はあの人の光の先にできる影から、あの人を守らないといけない。その為なら何をしようが、誰の命を奪おうが、髪の毛一本ほどの後悔もない。例えそれが自分の父親の命だとしてもだ。
前世同様に私の手は汚れている。だけど、前世と今は違う。その全てはお姉さまのためにある。そう言えば、あの男の子達はどこに行ったのだろう。全員この手で殺してやろうと思ったのに、行方知らずだ。
身の危険を感じて逃げた? いや、そんなことを理解できるほどの頭はない。女を犯す事しか考えていないような屑だ。
「まだ夜は冷えるぞ」
背後から声が掛かった。
「あの小屋の中は蒸し暑いでしょう。少し夜風に当たっていたの」
「あんたは姐さんとよく似ているな。あの人も夜風に当たるのが好きな人だった」
「母さん?」
「そうだ。ミランダ姐さんだ」
「母さんはどんな人だったの?」
「そうだな。俺達、この灰色の街のガキどもにとっては、眩しすぎる太陽のような人だった」
「はははは」
「何がおかしいんだ?」
「私が母さんと全く似てなくて残念ね」
私はその光の陰でうごめく悪霊のような存在だ。お姉さまが居なかったら、穢されて汚れ落ちていくだけの存在だ。
「そうか? 俺には似ているように思えるがな」
ロイスはそう言うと、私に向かって首を傾げて見せた。
「お世辞は止めてちょうだい。そんな事より、あなたの皆の前での、私の扱いは少し丁寧すぎよ」
「丁寧?」
「ええ、私に遠慮しているというか、大事にしているというか……」
「当たり前だ。あんたは俺のボスだからな」
「言ったでしょう。皆の前でのボスは貴方よ。私はあなたがモーガンから奪ったものの一つ。愛人、いや玩具の様なもの。もっとぞんざいに扱えばいい。この灰色の街の屑、その程度のものよ」
「パン!」
私の左頬から乾いた音が響いた。
「マリアン、あんたが何に拗ねているのかは分からないが、自分を卑下するのは止めろ」
頬に手をやって目の前の男を見た。思わず殺気を込めた目で男をにらみつけるが、目の前の男は全くそれを気にする様には見えない。
「卑下? 私は事実を言っているだけよ。私は母とは違う!」
私はそんな眩しいものでは、自ら光を放つ様な存在では決してない。
「俺から言えばあんたはミランダ姐さんとそっくりだ。いや、同じだよ。俺達と違ってあの人は、自分の境遇を人のせいにはしたりしない、決してあきらめない人だった。例えどんな手段だろうが、それを打ち破る人だった。あんたが俺の前でして見せたことは、ミランダ姉さんが俺達に見せてくれたものと、全く同じに見えるがな」
ロイスはそう言うと、肩にかけていた上着を私に掛けて私の顔をじっと見た。
「俺はその後ろ姿にあこがれていたんだ。だがそいつをいつの間にか忘れていた。あんたは俺にそれを思い出させてくれた。いつの間にか失っていた一番大切なものだ」
「そうね。自分にとって、何が一番大切なのかはとっても大事な事ね」
私にとっては前世とか今世とかは関係ない。一番大切なものは決まっている。お姉さまだ。
「だけどロイス、あなたが私を皆の前で丁寧に扱いすぎるのは困る、というのは別の話よ」
ロイスが私に向かって両手を上げて見せた。
彼が私にかけてくれた、薄手の皮の上着の袖が夜風に揺れている。確かにまだ夜は冷える。もうそろそろ戻って寝ないといけない。明日はライサ商会に乗り込むという大事な仕事があった。
『何!?』
灰の街への崩れた階段に向かおうとした時だった。背中に言いようのないおぞましさを感じた。
「ロイス!」
ロイスも何かを感じたらしい。灰の街へと下る朽ちかけた木の階段の先へと目を凝らしている。私もそこから感じる邪悪な何かを確かめようと目を凝らすが、月明かりの陰になって良くは見えない。いや違う。そこには暗闇そのものが居た。
塵のような泥のような、よく分からない何かが、這うように土手の上へと向かってこようとしている。いや、土手の上じゃない。私に向かって触手のようなものを伸ばそうとしていた。
『死人喰らい?』
前世で森に居たマ者を思い出した。人もマ者も全ての遺骸を取り込み、溶かす奴だ。だがあれはこんな塵の様な感じではない。
マナ?
前世のマナ使いが、前世の私が、鳩尾の下に感じていた力の根源に似ているが、それとも違う。これには実態としての確かな存在感を感じる。
「姐さん!」
ロイスが私の体を降り口の前から突き飛ばした。黒い塵のような泥のようなものが、さっきまで私が居たところに、その触手のようなものを伸ばしたのが見えた。あのまま立っていたら、こいつにからめとられるところだった。
「こいつは相当にやばい奴です。畜生!どこの手か分かりませんが、魔法職を差し向けてきやがった」
ロイスが腰に差していたナイフを引き抜いて両手に構える。私も背中に差していた諸刃の小刀を構えた。だが頭の隅では、これがそいつには何の役にも立たないことを理解している。
「どうすれば倒せる?」
私はそれから庇うように、私の前に立つロイスに問いかけた。
「こいつは人の手に余ります。少しでも時間を稼ぎますから、ともかく、ここから逃げてください」
黒い塵のような奴は、土手の上で形を変えながら、こちらの方へとゆっくりと向き直った。
「逃げるという選択肢はないわ。ここで逃げたらそこまでよ。倒し方を教えなさい!」
「魔法職が呼んだ使い魔です。呼び出したやつを倒さない限り、こいつからは逃げられません」
そう言う事ね。それなら分かる。さっきから感じていたこいつとは別の粘りつく様な何かは、そいつの殺気という事ね。
「ロイス、少しだけ派手にそいつと鬼ごっこをして」
鳩尾の下にある、霞のようなものに意識を集中する。それは私の呼びかけに反応して、そこから体の隅々まで広がっていく。ここにはマナの根源足る黒き森は無いが、前世の記憶を取り戻してから何故か前世での力、マナを使える様になっていた。
「姐さん!?」
肩越しにこちらをふり返ったロイスが、不思議そうな、驚いた様な表情をした。どうやら私のマナの力、「隠密」は効果を発揮できたらしい。
目の前の黒い塵の塊のような奴の動きも変わった。ロイスが魔法職と呼んだ、こいつをこちらに差し向けている奴も私の姿を見失って、少しばかり焦っているに違いない。
私は土手の下を横切って、黒い塵の背後へと抜けた。私に向けられている殺気はそちらから感じられる。
『見つけた』
灰色の街の中で、一件だけぽつんと土手側の方へ離れて建っている小屋の陰に、黒い人影があった。帽子をかぶり、杖のようなものを手にしている。そして耳を澄ますと、何やら呟きのような声が聞こえてきた。
「我に仇成すものの魂を見つけよ、抱擁をもってその魂を己の――、ぐわあ!」
ぶつぶつとよく分からない、呪詛のような言葉を呟いていた口から絶叫が漏れた。その喉元には、私の放った諸刃の小刀が刺さっている。
確実に仕留める為に、そいつの元に走ろうとした背後から、土手の上に居たあのおぞましい何かが、こちらへと迫ってくるのを感じた。
手遅れだった? あるいは、ロイスの言葉に嘘があったの?
だがそれは自分の背中を追い越すと、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、喉を抑えて膝をつく人影のところに集まり、そしてその体にまとわりついた。
「我は……我は…贄では……」
かすれるような僅かな声を残して、その人影はその塵のようなものと一緒に、大地へと飲み込まれて消えて行った。後には何も、何もないように見える。
腰から諸刃の小刀を抜いて、辺りを慎重に伺うが、背後からこちらに向かって走ってくる人の気配以外は感じられない。体の隅々までを覆っていたマナを解放すると、それは目に見えない黒い霧となって、夜風の中へと散って行った。
「姐さん、無事ですか!?」
「私は大丈夫よ」
「使い魔の奴が戻っていったという事は?」
「私がその魔法職とかいう奴を殺ったつもりだけど、あの塵と一緒に、どこかに行ってしまったみたいね。また戻ってくるのかしら?」
「魔法職を殺ったんですか!?」
ロイスがびっくりした表情でこちらを見た。
「ええ、小刀を喉にぶち込んでやったはずだけど」
「どおりで使い魔の奴が急に消えた訳だ」
「どういう事?」
「術中に何かあれば、それはやつらの元に戻るというか、そいつらに取り込まれてお陀仏ですよ。そもそも魔法職がこちらを狙えたという事は、こちらの動きが分かっていて、十分に術を準備するだけの時間があったという事です」
「つまりはこちらの誰かが、そいつを差し向けた奴と繋がっているという事ね」
私に向かってロイスは、ゆっくりと首を縦に振って見せた。
* * *
「ちっ、うるせいな」
昨晩寝所に引き込んだ女のいびきに目を覚ましたウーゴは、寝台から起き上がると、全く毛が生えていない自分の頭をかいた。そして明日の朝への期待に思いを馳せた。
こんな女と寝るのはこれっきりだ。明日からはもっといい女を、とびきり上等な女を抱いて寝てやる。明日、朝日が昇れば邪魔な奴らはもういない。俺はここの顔役だ。俺にはそれだけの事が出来るだけの力が手に入る。
そもそも何だというんだ。あの、臆病野郎が急にでかい態度を取って、ボス面なんかしやがって。
だが奴も少しは役に立った。臆病だが陰険野郎だったモーガンを殺ったかと思ったら、横やりをいれそうな奴らの口まで塞いでくれた。
奴もモーガンも、灰の街出の奴はみんな気が狂ってやがる。あんな年端もいかない小娘を四六時中侍らせて何が楽しいんだ?
顔立ちは整って美人だが、俺の好みになるには少なくともあと数年はかかっただろう。もったいないことだが、あの子もロイスと一緒に、今頃は穴の向こう側だ。
何せあの人は魔法職を送ってくれると俺に約束してくれた。あの小娘が土手に行ったのが見えたから、奴も必ずそこに行く。魔法職の待ち伏せから逃れられる奴なんか居ない。
「ふご――――」
ウーゴはとんでもないいびきで、自分の楽しい妄想を邪魔した女の寝顔をにらみつけた。こんな女とはおさらばだ。それにこいつは、化粧を落とすと本当に別人だな。
どこかの貴族崩れの女か、そこの侍従上がりの女でも見つけるか。上品な女と言うのは寝所でも上品なのか? それともこいつと同じだろうか?
『何だ?』
ウーゴは首筋へのかすかな痛みとともに、急に全身の力が抜けていくのを感じた。こいつに付き合ってがんばりすぎた、、か、、。
「あんた、ちょっと。腕がじゃまだよ」
自分の胸元に乗っている男の太い腕に、息苦しさを感じた女が、隣に寝ている禿げ頭に声を掛けた。だが男は起きる気配はない。それに男の腕が妙に冷たくて気持ちが悪い。夜はまだ冷える。掛布から腕を出しっぱなしで寝ていたのだろうか?
「あんた!」
女は一向に起きないウーゴに腹を立てて、その腕を持ち上げようとしたが、それはまるで小麦の袋の様に重く、そして何の力も感じられない。
女は恐怖に震えながら、腕の重さに必死に逆らって頭を持ち上げると、ウーゴの顔を見た。薄汚れた枕に小さな赤い染みが出来ている。そしてウーゴの目は、瞬きをすることなく、天井を力なく見つめていた。
「キャ――!」
女の口から絶叫が漏れた。