表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
罪なき咎人  作者:
5/5

一章 三界

 五


 遅めの朝食の後、縁側に出た秋水は鬱陶しそうに溜息を吐いた。もう桜が咲く季節だというのに空は昼間でも暗く、雨が降っては止んでと繰り返している。花見に行こうかと考えていたが、こンな空模様では外に出るのも躊躇われた。

 縁側に腰を下ろして、しとしとと降り続ける雨を眺めながら煙管に刻み煙草を詰める。しかし何度炭火に近付けても、火が点かなかった。この長雨で湿気ったらしい。行商もこの雨ではなかなかこちらまで来ないというのに、忌々しい事だ。

「あーあ……」

「なんだ、火が点かんのか?」

 黒耀がいつの間にか背後にいることにも、もう慣れた。大儀そうに首を巡らせ、見上げれば彼女は煙管を見ている。

「湿気っちまった。神さんよ、この雨なんとかならねえのか」

「出来んな、余は天候の神ではない。火なら点けてやるぞ」

 は、と呟く秋水の隣へ腰を下ろし、彼女は煙管の雁首に触れる。それだけで煙が立ち上り、目を円くする以外の反応ができなかった。

 確かに指先が触れただけだった。それなのに、湿気っていたはずのものから煙が出ている。試しに吸ってみても、いつもと何ら変わりない煙の味がするばかりだった。いや、やっぱり少し湿気ているか。

 落ち着こうとゆっくり一口つける秋水の側へ顔を寄せ、黒耀はすんと鼻を鳴らした。端正な白い顔が、笑みとは言えないまでもわずかに綻ぶ。

「うむ。おぬしは趣味がいいな」

 彼女は煙の匂いが好きらしい。いや、そんな事はどうでもいい。

 無から有を生み出せるものは神以外にない。なにかしらの感情から生まれた妖怪は炎を纏ったり風を起こしたりすることもあるが、蓄えた情念をそのように作り替えるだけだ。そういう妖怪だとしても、人間の女の形をしたものは存在しない。

 しかし最初に見た大怪我を思えば懐疑的にならざるを得ず、更に記憶をなくしてしまった神など聞いた例がない。娯楽の少ない庶民にとって噂話とは三度の飯より旨いもので、特に神々のそれならいくらでも耳に入ってくるはずだ。

「……ま、気になるっちゃ気になるしなァ」

 思い立ったが吉日とばかり、火種ごと灰を捨てた煙管を煙草入れに入れながら立ち上がる。彼が部屋に入るのを見送って、黒耀も立った。

 こうして家で暇を持て余しているのにも、いい加減飽きた。買い物ついでに、行ってみて損はなかろう。

「神さん、出かけんぞ」

「木っ端は雨の日は出掛けるものではないと言っていたぞ、違うのか?」

 黒耀は秋水と同じく、箒男を木っ端と呼んでいる。本人もそれで不満はないようだし、秋水も彼が馬鹿にされたところで一緒になって揶揄うだけだから構わない。そう呼ばれる箒がやたらと嬉しそうなのは気にかかるが。

「そりゃアイツだけだ。俺らァ湿気やしねえだろう」

「おお、成る程。理解した」

 秋水は肩に紗の羽織を引っ掛け、番傘を取る。今日も着流し姿だが、仕事着の地味な無地とは正反対の、柄が細かい流行りの小紋だった。あちらは夜に目立たないよう着ているもので、こちらは人の中で目立たなくていい。

 羽織に袖を通しながら外へ出ると、社務所の中に箒男の背中が見えた。暇そうに欠伸をしている。この雨では信徒も来ないのだろう。

「神社はいいのか?」

 振り返ると、紫色の番傘を差した黒耀が首を捻っていた。緋色の髪と紫の傘が目に痛い。

「木っ端に任せときゃいい」

「しばらく掃除もしていないぞ」

「雨の日に掃除したって無駄だ」

 そうかと納得したように呟いて、黒耀は歩き出した秋水についてきた。買い物に行くと思ったか、背後から行ってらっしゃいと箒男の声が掛けられる。

「出掛けるのは久しぶりだな」

 黒耀の声は、少し浮わついていた。家に籠りきりでは退屈するのも無理はない。

「こう雨じゃな……そら、そこ」

 石段を下りた先、林に囲まれただだっ広い原っぱの外れ。そこにぽつんとひとつ、桜の木があった。雨に打たれて寒そうに、けれど満開に花を咲かせている。

「綺麗だな。あれがこちらの桜か」

「桜は分かるのか」

「うむ、木っ端に聞いたぞ。木の下に死体が埋まっているからあのような色なのだろう?」

 よく聞く怪談だ。大方箒男が怖がらせようとして最もらしく話したのだろうが、神に怪談話なぞして怖がると思う方が恐ろしい。黒耀が自慢げなのがまた笑いを誘う。

「ふつう埋まってねえよ」

「そうなのか!」

 どうも本気で騙されていたらしい。声を上げて大袈裟に驚き、黒耀はまじまじと桜を見つめる。それでも恨み言を言うでもなく、納得したふうに頷いた。

「そうか、元々あの色なのだな。何よりだ」

「木っ端の言う事ァ信じるなよ」

「うむ、そうしよう」

 いつしか立ち止まっていた黒耀の背を眺めながら、秋水は空模様を確認する。雨は相変わらず降り続いているが、空は明るくなってきていた。じきに止むだろう。

「あれもすぐに散ってしまうのだな。勿体無いものだ」

 呟く彼女に、桃の花の一件を思い出す。咲かせられるなら散らせる事も、ずっと咲いたままにする事も出来るのではなかろうか。秋水はにわかに焦る。

 もしや彼女は、散らせないつもりなのではなかろうか。それはいけない。そんな怪しい桜が植わっていたら、死体があるのではないかと噂を立てられかねない。掘り返されでもしたら困るのだ。

 何せあの桜の根元には確かに、死体が埋まっているのだから。

「桜ァな、散るからいい」

 ゆるりと振り返り秋水を見上げた黒耀の目は、疑う事を知らぬ子雀のように澄んでいた。記憶がないためかなんにでも興味を持ち、なんでも驚く彼女は幼子のようでもある。

「散って行く美ってのもあるもんだ。雨じゃなかなか味わえねえがな」

「雨に濡れた花も美しいものだ。成る程、そうなのだろうな」

 見たいな、とぽつり呟いた彼女のその声音と横顔がどこか切なそうで、どきりとした。慌てて目を逸らし、誤魔化すように前髪を撫でつける。秋水が何を思おうと彼女に分かるはずもないのに、居心地が悪かった。

 と、足音が近付いてくる。信徒かと林の方へ目を遣ると、いつもの婦人が現れた。信心深いのは結構なことだが、こんな雨の日にまでやってくるとなれば呆れられても文句は言えまい。

「あらあ、神主さん?」

 まあるく開かれた目は、秋水ではなく黒耀を見ていた。よりにもよって噂好きの彼女に見付かった不幸を呪う。

「居候です」

「居候? 大変ねえ」

 あっさり納得してしまったのは、赤雨の災により住居を失った者が多いためだ。のみならず、あの雨で焼かれた森に住んでいた妖怪共が人里に住処を求め、未だに村を襲うことが多々ある。この辺りにも着の身着のまま移り住んできた人は多く、領主が手を焼いていると他ならぬこの婦人から聞いた。

「とうとう所帯持ったのかと思ったわよ」

「所帯?」

 問い返す黒耀の前に進み出て、秋水は視界を遮るように婦人と彼女の間に立った。余計な事を言われたら困る。ただでさえ噂のタネにされかねないのだから。

「いやいや、そういうんじゃありませんや。これから買い物なんで、失礼」

「あら御免なさいね。雨止むといいわねえ」

 黒耀の手を掴み、会釈しながら歩き出す。逃げるようだと自分でも思った。

「秋水、所帯とはなんだ?」

 思わず振り返り、婦人の姿を確認する。こちらが早足で来たから、到底声が聞こえる距離ではない。内心安堵した。

「妻を持つ事だよ」

「人間はよく分からんな。結婚を所帯とも言うのか」

「ちょっと違うが……ま、そんなもんだ」

 自分の説明も違うような気がしたが、他に言いようもないので問いには肯定を返した。秋水は手先も不器用なら頭の出来もさして良くない。

 だから黒耀に何か聞かれても上手く答えられないことが多く、自分でももどかしい思いをしている。手習い屋に通っておくべきだったと、今更ながらに後悔することもある。学がなくとも人は斬れると気付いてしまったのが運の尽きだったろう。

「秋水、速いぞ」

 遠い声にはっとして、林を出たところで立ち止まる。考え込んでいると歩みが早くなってしまう。

 黒耀は小走りで寄ってきて、隣へ並んだ。いつの間にか後ろにいるくせに、一緒に歩くと速いと怒るのはどういう了見だろう。傾けられた傘の端から金の目が覗いていて、秋水はこらと小さく咎める。

「言ったろ、下向いてろ」

 こくりと頷いて、彼女は素直に従った。

 髪もそうだが彼女の目の色は、そうそうないどころか人間に有り得るものなのかどうかすら怪しい。むろん、誰もが加護を表す色を正確に把握しているわけではない。秋水のように明確におかしな色でなければ差別される事もないにしろ、少し詳しい者なら妖怪と疑って因縁をつけてくる可能性がある。彼女も邪推されるのは嫌と見えて、着物を仕立てに出た時にそう指摘したら俯いて歩くようになった。

 それもなかなか、哀れだとは思う。生まれ持ってしまったものはどうにもならない。隠そうとして隠しきれるものでもないから尚更だ。今は傘でうまく隠せているが、晴れた日は困るだろう。

「秋水、どこへ行く?」

 帰りに笠を買ってやろうかと考えたところで声を掛けられ、顔を上げる。道の先に目的の家を認め、秋水は指を差した。

「知り合いの所だよ。そこだ」

 大きな呉服屋や劇場が軒を連ねる華やかな表通りに、生垣に囲まれた二階建ての家がある。花街も近く富裕な商家の多いこの界隈では珍しくもないが、秋水の家と比べれば雲泥の差だろう。家を持っているだけ、長屋暮らしよりは遥かに裕福なのだが。どちらが良いかは、人それぞれであるとはいえ。

「おぬしの家は質素なのに、こんな良い家に知り合いがいるのか」

「厭味か」

 忌々しげに吐き捨てて、目的の家の庭へ入っていく。よく手入れされた庭には不釣り合いな雌鶏が、数羽放し飼いにされていた。

「おい竜胆りんどう、いるだろ? 入るぞ」

 勝手知ったるなんとやら。返答を待たず、秋水は引戸を開けて中に入る。板張りの廊下は無闇に長く、突き当たりに墨絵の描かれた襖があった。秋水は他に目もくれず、まっすぐそこへ向かう。黒耀は広い家が珍しいのか、はたまた気になるものでもあるのか、しきりに左右を見回していた。

「相変わらず勝手なことだね、しゅう君」

 手をかけた襖の向こうから、玲瓏たる玉の音のような女の声が聞こえる。咎めるような言葉とは裏腹に、その声音は愉しそうですらあった。

 部屋は狭くも広くもないが、一輪挿しの置かれた床の間がある以外目立った調度品もなく、家の外観の割に殺風景だった。文机を背にして座った女だけが華やかで、家主だというのに異質に思える。

 彼女が竜胆。秋水と依頼人の仲介をしてくれている陰陽師だ。今日もどこかで暗躍する暗殺者集団の諜報員として働く彼女は、仇討ちの依頼だけ選って秋水に回して来てくれる。あちらも手が足りないらしい。

「さて……君も変わったものを連れてくるね」

 下がった目尻を更に下げ、竜胆は微笑った。

 落ち着いた物腰の麗人である。紅を引いた唇も目も血のように赤く、反対に細面は病を疑うほどに青白い。仇っぽい切れ長の目は、確かに秋水を見ているのにどこか別の深淵を覗いているようでもあり、得体が知れなかった。ずるずると裾の長い馬乗袴とこれまた袖の長い打ち掛けは濃淡の違う紫色で、白い髪との対比が目に痛い。

 白い髪の人間というのは彼女のようにたまにいるが、どんな神の加護を持つのか秋水は知らなかった。目が朱に近い赤色をしているから、一柱は火神ほのかみなのだろうが。

「おぬしのその乳袋も変わっているぞ」

 黒耀は冷めた目で、竜胆の豊かな胸を見ていた。たとえ全裸を見られても全く気に留めそうにない彼女にも、譲れないものはあるらしい。竜胆は胸を、いや肩を揺らして笑う。

「いやいや。そちらはお美しくていらっしゃいますよ、姫様」

「厭味か」

 どこかで聞いた台詞を吐き捨て、黒耀は渋い表情で視線を逸らした。初対面で体のことなぞ指摘するものではない。記憶がないがために常識が欠如しているのか、そもそも神には人間の常識など通用しないのか。

「乳がでかかろうが小さかろうがどうでもいいわ。おりん、こいつの事なんだが」

「小さくはないと思うが、間違いなく神様であらせられるね」

 陰陽師というのは特殊な職業で、天賦の才がなければ志したところで就くことさえ叶わない。産まれた時から神に通ずる力、すなわち神通力を持つ異能者だけが陰陽師に師事し、その職に就く。故に彼らは最も神に近い人間と言われ、多大な功績を残して死後に人神として奉ぜられる者も多いと聞く。

 彼らの多くは領主や豪商等の有力者に雇われ、卜占や祈祷、果ては荒事までこなして主人を補佐する。この竜胆は浪人のように特定の主人を持たず、万人の為と称して広く占いやら妖怪退治やら請け負っている。お蔭で市井の人々からの信頼は厚いようだ。それも裏の顔を知らぬためだろうが。

 彼らは誰より知識に秀で、それ故に世間からは一目置かれる立場にある。中でもこの竜胆は、一部で名の知れた陰陽師だ。大抵の事は彼女に聞けば解決する。それが何ゆえ真っ当な雇い主を見つけようとしないのかは、終ぞ聞いたことがない。秋水にとって重要なのは、今も昔も彼女が信用できるか否かの一点のみだった。

 そも陰陽師という存在自体が怪しい。昔は疑っていたものだが、付き合いも長くなった今は絶対とは言えないまでも信用している。だから、彼女が言うならそうなのだろうと思えた。

 しかしながら、確信を持っても証拠を明示されなければ今一つ腑に落ちない。秋水は眉をひそめたまま、腰を下ろす。

「そんなホイホイ神様が落ちてるもんかい」

「ほいほいじゃないな、君も見たのは初めてだろう? 神は時々こちらへ来るものさ。……さあ、お座り下さい」

 竜胆が袖で示した先、秋水の隣に、いつの間にか座布団が置かれていた。仰ぎ見ると、部屋の隅に真っ白な小坊主が控えている。

 頭も着物も、肌まで紙のように白い少年のような姿をしたあれは人間ではなく、式紙と言う人工の妖怪だ。名前の通り紙で出来ているらしいが、どのようにして作られたのか秋水は知らない。

 黒耀は気付いていたらしく、式紙を見詰めていた。その目には道端の石ころでも見るように、何の感情も籠っていない。

「余は神だと何度も言ったはずだが……」

 これも感情の見えない声で呟きながら、黒耀は竜胆へ視線を移した。それから、片方の眉を歪める。

「乳袋、おぬしはなんだ?」

 木っ端の次は乳袋かと、秋水は呆れた。しかし竜胆は怒るでも否定するでもなく、恭しく一礼する。

「これは失礼。竜胆と申します」

 ゆるゆると顔を上げた彼女は、黒耀に向かって深く笑んで見せた。黒耀の顔が益々怪訝に歪む。

「しがない陰陽師にございますよ」

「それはどうした」

 聞いたくせに名前にも職業にも興味はないらしく、黒耀は彼女の足元を指差した。竜胆は僅かに目を見張り、取り繕うようにまた笑みを見せる。秋水には、彼女が何を指したのか分からなかった。

「昔はやんちゃで御座いましたもので。あなた様は……」

「黒耀だ」

「これは良き御名で。……で、秋君」

 なんとなく蚊帳の外でぼうっとしていた秋水は、呼ばれて我に返った。

「事情を詳しく聞かせてくれないかな。何か分かるかも知れない」

「詳しくも何も……玄熾ガげんしがはらで倒れてたのを拾ってきたんだよ。大怪我してな」

 本人に記憶がないのだから詳しく話せることもなく、仕方なく事実だけを述べた。竜胆は呆れた風に溜息を吐く。

「神がそうそう大怪我なぞするものかね」

「だから疑ってたんだろ。怪我はすぐ治ったがそいつは記憶もありやがらねえ、仕方なくうちに置いといた」

「記憶がない? それは……」

 竜胆はちらりと黒耀を見て、悩ましげに白い眉を寄せた。何か考えているようだが、考えて分かる事なのだろうか。

「……天ガ原(あまがはら)におわす神がこの中ツ森(なかつもり)に御降臨召される理由はいくつかある。一つは修行のため」

 言って確認するように再び黒耀を見たが、目が合っても彼女は首を捻っただけだった。

「神はある程度歳を重ねた御子を、修行と称してこちらへ遣わす。中ツ森を見て学び、人を見る目を培うのだそうだ。彼らの役目は世界の管轄だからね。人だけが持ちうる感情を学習して制御しなければ、形だけ取り繕っても無駄と分かっておられるのだろう」

 むやみやたらに人の願いを聞き届けるわけにはいかないということだろう。神の仕事は世界の均衡を保ち、生きとし生けるものを保護すること。生き物という視点で見れば最も複雑な生態を持ち、一部の霊獣を除けば神に次ぐ知能を有する人間を重視するのは自然なことと言えよう。

「これは普通、人前には絶対に姿を見せない。黒耀様はまだお若くてあらせられるようだ、修行中に妖か何かに襲われたと見るのが自然だろう」

「じゃあそれか?」

「可能性が高い、という話だよ。だが親神も一切下界を見ていない訳じゃない、子に何かあったら血相を変えて連れ戻すだろうが……まあ何かしらの理由で、子が修行中に死んだとも考えられる」

 ふと気になって黒耀を見てみたが、訝しげな表情で竜胆を見詰めているだけだった。特に何も思い出せないどころか、自分の事より竜胆が気になるらしい。

「……神さんは鬼共と年中戦争してやがるからな」

 神は禍ツ海(まがつみ)に棲む鬼を蛇蠍の如く嫌っており、逆もまた然り。互いを根絶すべく、いつの頃からか終わりの見えない戦いを繰り返していると言う。戦神いくさがみというのがいるのも、無限の命を持つ神が生殖能力を有するのもその為らしい。

 戦禍は時として神の天ガ原と鬼の禍ツ海の中間に位置するこの中ツ森にも及び、人間としては甚だ迷惑している。この世の災害も天変地異も、全て鬼と神の途方もない力のぶつかり合いによって起こるものだ。

「だけれど、それでは記憶がない説明がつかない」

「頭ァ打ったのと違うか? あんだけ怪我してたんだからよ」

「ちょっと頭を打ったぐらいで神の記憶がなくなるのか、私には分からないね……」

 竜胆の声は少し呆れていた。

「物見遊山でこちらに降りようとしたら、足を滑らせて転落した可能性もある」

「そんな事すんのか神さんは」

「たまにね。中ツ森へ観光に来たら帰りたくなくなって、山神やまのかみになった神もいるさ」

 ふうんと呟いて、また黒耀を見る。やっと視線に気付いたか秋水を見た彼女は、何かと言いたげに首を傾けた。その反応で、秋水は諦める。自分の話をされている事も分かっていないような気がした。

「それじゃ大怪我してた理由が分からん。空から落ちたぐらいじゃ神は怪我しねえだろう」

「ああ、腕が落ちたのを見ても掠り傷だと宣った君が大怪我と言うほどの怪我なら、そうかも知れないな」

 あまり記憶になかった。首を捻って顎を掻く秋水を、竜胆は笑う。

「君の記憶力には期待していないから安心するといい。……そうだね、可能性としては最後に一つ」

 竜胆の顔から笑みが消えた。秋水は目を細める。彼女が真顔になった時は、ろくな事を言わない。

「何らかの罪を犯して罰を受け、記憶を封じられて下界に落とされた」

 罰。

 あれは、罰せられた傷だったのだろうか。確かに棒打ちされたような怪我だったが、秋水は緩く左右に首を振る。

「何しでかしたとしても、仮にも神があそこまで陰湿な体罰するとは思えんわな」

「君がそう思うのなら同感だ。何より記憶を封じてまで下界に落とすぐらいなら、雷にでも打たせて殺してしまうものだからね。そもそも罰とするなら、記憶は保ったままの方が効果的だと私は思う」

 竜胆はちらりと黒耀を一瞥し、口を開く様子がないのを確認してから続ける。

「秋君、彼女の記憶はどの程度残っている?」

 秋水は顔をしかめ、顎を撫でる。今日までの会話を思い出してみても、一概にこうと言えそうにはなかった。

「中途半端だな。名前と神だって事は確かに覚えてたらしいが、他は殆ど分かっとらん。着付けと飯の食い方以外は風呂の入り方まで聞かれたからな」

「答えたのかな?」

「戸越しにな。……おい、神さん」

 退屈そうに欠伸していた黒耀は、涙の滲んだ目で秋水を見上げた。彼女の顔形が良くなかったら十中八九殴り飛ばしていただろう。

「何か思い出さねえのか」

「何をだ?」

 竜胆は笑ったが、秋水は目眩を覚えて額を押さえた。どうも本当に、何を話していたのか分かっていなかったらしい。

「何じゃねえよ……お前な、ずっとこのままでいるつもりか? 神様ってのは役目も果たさずに、こんな所で油売ってていいもんなのか?」

「おぬしが困るなら出て行くぞ」

 は、と問い返す。黒耀は真顔のままだった。

「余はおぬしの厚意で厄介になっている。迷惑と言うなら出て行こう」

「いや……お前、お前に行く当てが」

「あすこの家主はおぬしであろう。余に気を遣う必要があるのか?」

 何も言い返せなかった。確かにその通りなのだ。ここまで話して何も思い出さないなら見込みがないと考えて然るべきだし、彼女が邪魔なら追い出せばいいだけなのだろう。

 しかしそれは同情していなければと前置きして初めて成り立つ理屈で、二週間以上共に過ごして多少なりとも情の湧いた今となってはどだい無理な話だ。だから渋い顔をしつつも、秋水は首を横に振る。

「……記憶が戻るのがお前にとって最善だと思っただけだ。追い出したい訳じゃあない」

「なくしたものを求めるなど愚劣極まりない。これは余の問題であろう。人の情というのはよく分からんな」

 あんまりな言い種に思わず言い返しかけたが、竜胆が制するように首を振るのを見てやめた。昔は彼女に逆らうなと耳にタコができるほど上司に言われていたものだから、今でも咄嗟に従ってしまう癖が抜けずにいる。

「無駄だよ秋君、神とはこういうものだ。己が興味を持てない事には一切干渉しない」

「道端の花には興味持っても帰り道には興味がねえなんてな、乳臭え餓鬼でもまだまともに帰ろうとするだろうよ」

「……話をしよう」

 苛立った風の秋水に何を思ったか、竜胆は居住まいを正した。

「人間には感情がある。喜怒哀楽に妬み憐れみ、愛憎などという複雑な感情もあるね。だが他の生き物はそうではないんだ」

「妖怪は、人間やら神やらの感情から生まれたもんなんだろ」

 神も鬼も人間も、鳥獣や虫に至るまでこの世に生きとし生けるものはみな生殖活動を行うことでその数を増やし、種を保っている。だが妖怪という生き物はこの限りではない。この世に存在するあらゆるものが抱いた感情から数限りなく生まれ、人に仇為し、或いは与する。

 秋水は妖怪が生まれるなら神にも感情はあるのだろうと言いたかったのだが、竜胆はゆるやかに首を横へ振った。

「妖などという搾り滓はこの際、関係ない。……次に鬼、あれには憤怒しかない。人間が感じうる全ての怒り、憎悪、嫉妬……悪感と呼ばれるもの全てを固めた心を持つ。だがそれ故に、別のものが入る隙が存在する」

「鬼が神になるのはそのせいだってな。聞き飽きたよ」

「誰から聞いたんだい?」

 父母か兄のはずだが、覚えていなかった。返答に窮する秋水を暫く眺めた後、竜胆は喉を鳴らして笑う。

「鬼は人の感情に触れて知る。一度触れれば真綿に水が染み込むように学習し、やがて己の罪を悔いて守り神となる事で贖罪とし、天に昇る。鬼とは最も純粋な生き物だよ。そして神はその対極にある」

「鬼が培ったもんは神になるとなくなっちまうってか? 徳を積めば人だって神になれんのに」

「いいや、そちらはそのままだ。私が言いたいのは純粋な、ただの神の事だよ」

 ただの神という言い方も妙だと思ったが、口は挟まなかった。今は何を言っても馬鹿にされるだけのような気がしている。

「彼らには和魂にぎたま荒魂あらたま、二通りしかない。代わりに姿形まで変化する。和魂は平常、仁愛だね。この時は人とさほど変わらない姿をしている。荒魂は怒り。獣に似た姿を取る事が多いが、戦神などは鬼に似た形になることもあるね」

「てことは……」

「そう、神に人間と同じような感情はないと思った方がいいね。頭が堅いのさ」

 それとは違うような気がしたが、とりあえず頷いておいた。ついでに、黒耀を見る。

 美貌の神は不思議そうに首を傾げたまま、瞬きばかりを繰り返していた。彼女に感情がないと感じたことはない。だが、言われてみればこちらの感情に疎いと思ったことは多々ある。

「……まあいいわ。乗り掛かった船だ、どうにでもならァな」

 感情があろうとなかろうと、知った事ではない。のっそりと立ち上がり、秋水は独り言のように呟いた。竜胆が苦笑する。

「そう言うと思ったさ。帰るなら受け取りたまえ」

 竜胆の視線の先で、式紙が葛籠を捧げ持っていた。黒耀がそれを見上げ、鼻を鳴らす。

「いい香りだな」

「反物です。何かと御入り用でしょう」

「余は着物よりこの香りが欲しいぞ」

 お香が欲しいと言いたいのだろう。思わず嫌な顔をした秋水を笑い、竜胆はゆるりと首を傾けた。

「だそうだ」

 帰りに買っていくものが増えてしまった。溜息を吐いて葛籠を受け取り、秋水は部屋を出た。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ