一章 鬼熊
四
秋水はひどく疲れていた。自称神様が居候となってから、今日で一週間。その間、何をするにもしつこく質問され、ほとほと困り果てている。木の名前や物の使い方ならまだいい方で、風呂の入り方まで聞かれた時はさすがに焦った。もう見ただろうと言われたが、丸見えと見てしまったのとでは全く違うのだ。
小さな木札を入れた御守りの紐を結びながら、秋水は凝った首を回す。札は祭神の名を彼が書いたもので、効果があるか否かは甚だ疑問だ。知人の陰陽師に見てもらった時には、災厄のような魔除けだとわけの分からない事を言われた。とりあえず効くらしい。
普通は出仕に作らせるものなのだが、ここの札には神主以外は直接触れぬことと定められている。つまり秋水が全て袋詰めしなければならず、在庫が切れる度に大変な苦労を強いられていた。毎日減った分だけ作ればいいだけの事なのは分かっているし、それができれば苦労しない。
女子供が好きそうな色の守り袋は、最近の流行りだと問屋から聞いた。女が選んで意中の男に渡し、神さまと私と二人分の守りがあるのよ、などとやるらしい。
鬼社の御守りでそれをやるのは逆に怖いような気がしたが、箒男の話では若い女が二つ三つまとめて買っていくそうだ。全く女は恐ろしい。
「何が悲しくて内職ばっかりしてんだか……」
重苦しい溜息と共に呟いて、八つ当たりのように強く紐を引っ張る。ぶつ、と音がして、袋が破れた。何もかも嫌になって畳の上へ投げ出し、仰向けに寝転がる。
秋水は手先が器用でない。壊滅的に不器用だ。にもかかわらずこんな細かい仕事ばかりさせられて、慣れるどころかいい加減辟易していた。
「秋水、何をしている?」
突然目の前に現れた顔に驚き、秋水の呼吸は一瞬止まった。畳の上へ大の字になった彼の顔を覗き込み、黒耀が首を傾げる。
果たしていつの間に戻ったのか。気配には聡いはずの彼が、まるで気が付かなかった。
「……なんだよ、掃除終わったのか?」
「雨が降ってきたから終わりだそうだ」
大方箒男が濡れたくないからと切り上げさせたのだろう。全くあの木っ端は役に立たない。
外にいると質問責めにされるから、秋水は昨日から箒男に黒耀の世話を押し付けていた。黒耀は不満げだったが彼は嬉しそうだったし、このまま任せてしまおうと思っていたというのに。
「それは御守りか? おぬしが作っているのか」
投げ捨てられた御守りを拾い、黒耀はしげしげと眺めた。一事が万事この調子で閉口しているが、答えないと彼女は怒る。応と返して、秋水は身を起こす。
「不本意ながらな」
「楽しそうではないか。余もやるぞ」
「楽しかねえが……」
言いながら座卓に目を遣り、山と積まれた御守りを見てげんなりした。中身の木札はもう全て入れてある。直接触れなければいいから、紐を結ぶぐらい黒耀に手伝わせても問題ないだろう。そもそも触ってはいけない理由も彼には理解できない。
鬼神の加護は本来、そこを管理する者の一族と土地にしか及ばず、神社としての経営は難しい。ならばどうするかと言えば、祭神の名を書いたものを信徒に分ける。そうする事で、加護自体を分け与えるのだと言う。
これは何に書いてもいいが必ず家長たる神主の直筆でなくてはならず、他人が直に触れると他の神の気が混ざり、加護が薄くなってしまう。人神と同じく鬼神は純粋な神でない分、力が弱いためである。
代わりに、魔除けとしては戦神のそれに引けを取らぬ効力を発揮する。鬼社があるだけで、他の地域より妖怪や鬼による被害が減ると言うのはあながち眉唾ではない。現にこの町の発展には、この鬼社が存在していたことも浅からず関係していると郷土史にも書かれている。
「……じゃあこれ」
細い紐の束と一緒に、御守りを一掴み黒耀に差し出した。彼女は言い出したら聞かないのだ。少しでも自分が楽しようという魂胆ではない。
黒耀は両手でそれを受け取り、不思議そうに首を捻った。ふわふわと柔らかそうな赤い髪が揺れる。
「どうすればいい?」
「こう」
黒耀に向き直り、御守り袋に紐を通して飾り結びして見せる。彼女は嬉しそうにおおと呟き、倣って紐を結んだ。秋水が作ったものより綺麗だった。
「これで良いのか?」
目の前に掲げて見せられて、嫌味でやっているのではないかと疑った。不器用だから仕方ないのだと自分に言い訳しながら、首を縦に振る。
「……ああ、任せるわ」
「心得た」
やたらと嬉しそうに答え、黒耀は内職に没頭し始めた。何かやらせておけば静かなものだ。しかも仕事が丁寧で早い。神を名乗るだけあるという事か、鍛冶の神だからもの作りが得意なのか。
積まれた御守り袋をさりげなく黒耀の足下に置き、秋水は懐を探る。取り出した文は、過日の絵馬を書いた依頼人から玉串料を受け取るついでに書かせたもの、らしい。ちょうど秋水が買い物に出ている時に箒男が請けて、依頼の詳細な内容を認めてもらったようだ。
このように仇討ちとして依頼しに来るのは懇意にしている陰陽師の紹介で来た者だけで、公には受け付けていない。あちらは仇討ちを請け負わないから、お互いの利害は一致していると言える。
陰陽師は呪いを得意とする者達で、庶民から占いや簡単な妖怪退治を請け負う傍ら、秋水の知り合いのように大きな声では言えない汚れ仕事を裏稼業とする者も存在する。今回は表から依頼が来たはいいが、別の依頼と被ったといったところか。
文には、女房を食った妖を追い払ってほしいといった内容がつらつらと書かれていた。知人は祈祷してもらえと言ったと見える。曰く、本当なら退治してほしいが同心に頼むのは心苦しい。浪人に頼むよりは、奉納を兼ねて鬼社に依頼したいとのことだった。
本来は治安維持という観点から、妖怪の討伐も奉行所の仕事の内だ。だが確かに人の多いこの地域での取り締まりで忙しい腰物同心達に、たかだか妖怪の退治を頼むのは気が引けるだろう。妖の討伐程度なら、浪人に頼むのが定石である。
横の繋がりが多い人間相手よりは易い仕事と言えよう。塒と思しき穴蔵で遺体が見付かったらしく簡単な地図もついており、そう苦労はしないはずだ。
と、この文を渡された時に思ったのに今日まで行動を起こさなかったのは、米を買い足したり黒耀の着物を仕立てたりと忙しかったからだ。決して忘れていた訳ではない。
「秋水、これは楽しいぞ」
見れば、黒耀の膝の上にはきれいに飾り結びされた御守りが積まれていた。桶を差し出してやると、彼女は出来上がったものをそこに入れる。
「なら次からお前がやりゃあいい」
「うむ、やるぞ。何の守りもなさそうな御守りだが」
「一言余計だよ……」
呆れてぼやきながら、黒耀の手元を眺める。細い指が器用に紐を結んで行くさまは、少し楽しく思えた。
「……神さんよ。あんたも神なら、ソイツに守りがつくんじゃねえのかい」
御守りを指差す秋水を見上げ、黒耀は目をしばたたかせた。
神が手ずから作ったものには守護がつき、だからこの地には神の加護があって、どんな大雨が降っても海に沈むことがないのだという。実際に土地まで神が作ったのかどうかは疑わしいが、このどこまで続くかも分からない世界を分割して治めているのが神である事は確かだ。
この世に何柱存在するかさえ分からない土地神達は徳の高い人間を領主に据え、神に代わって土地を治めよと命じたと言う。領主の下には奉行所があり、その手足となって働いている。神々と直接顔を合わせることができるのは領主と高位の役人、加えて大社にて土地神に仕える宮司以下神職達ぐらいのものだろう。
地主と呼ばれるその土地神たちも、管轄外の祈りを聞き届けることはできない。だから至る所に神へ祈りを捧げるための社があり、各家庭には家の守り神を祀るための神棚が設えられている。秋水の家には勝手の荒神すらないが。
「余は鍛冶の神だと言ったであろう。守護にはならんぞ」
「鍛冶屋守る神じゃねえのかよ」
「そんな限定的な神はない、鍛冶そのものの神だ」
得意げだったが、意味がよく分からなかった。秋水は曖昧に相槌を打ち、首を捻る。黒耀は見ていなかったようでそれ以上は説明してくれず、黙々と御守りを仕上げていく。
このまま任せても問題ないか。心中独り言ちて、立ち上がる。黒耀は彼を目で追って見上げ、きょとんと首を傾げた。
「どこへ行く?」
「仕事」
詳しく説明する気はない。それだけ答えて茶の間を出ようとするも、長着の裾を掴まれてつんのめった。
「仕事は神主ではないのか?」
「そっちは本業、これから副業」
「何をする? 余も行く」
「来なくていい」
不満そうな表情だったが、手は離してくれた。逃げるように彼女から離れ、腰に大小付けてから衣紋掛けに引っ掛かっていた笠を取る。
「雨が降っているぞ。濡れるではないか」
「別に構やしねえよ木っ端じゃあるまいし。そいつ頼んだぞ」
「む? うむ」
腑に落ちないといった表情でも頷く彼女に、少し笑った。肩越しに手を振って、秋水は家を出る。
外は確かに霧雨に霞んでいたが、大した降りではない。念のため人目につかぬよう、拝殿の裏の森へ入る。祭神が鬼であった頃の罪咎が涙となって溜まったという逸話のある池を、ぐるりと囲む一角だけが鎮守の杜であるとされている。こちらは不思議と、あちらより明るい。
視界は悪くないとはいえ、歩きやすいとは到底言えない。湿った腐葉土に雪駄が沈み、足の指先がすぐ泥まみれになった。濃い土の匂いが、一歩踏み出す度に鼻を突く。
歩きながら地図を開き、道を確認する。地図の印は、隣町の山の中を示していた。依頼人は川向こうの住人らしい。
さして遠くはないか。呑気に構えてぶらぶら歩いていたところ、暮六つの鐘が鳴った。どこの領主の城にもある鐘楼が奏でる音で、時を司る水神がいちいち一斉に鳴らしているらしい。健気なことだ。
標的が人間なら夜中を選ぶが、妖を討伐するならこのくらいの時間が適している。逢魔ヶ時とはよく言ったもので、妖怪共はちょうど今頃から活発に活動を始める。これから夜にかけて塒辺りをうろつき、日暮れと共に獲物を探して彷徨うのだ。この限りでないものも多いが、今日の標的は正にそんな生活をする妖だった。
霧のような雨が湿らす黄昏の町を、人々は足早に往く。こんな夕暮れには、良くないものが出ると相場が決まっている。人の流れに逆らい、増水した川に掛かった頼りない橋を渡る、秋水もまた。
長身に浪人笠の彼を振り返る者はちらほらといるが、皆すぐに向き直って帰路を行く。腰に刀を差した者に目をつけられても面倒なだけと、誰もが心得ている。
同心を除けば刀を差す人間は大別して二通り。一つは侍で、彼らは主に豪商や町の有力者に仕え、人間に対して害をなす妖怪を退治して生活している。概ね主人に害が及ばないと判断した場合は被害が出ていても妖怪を放置する場合が多く、庶民にはあまり好かれていない。
もう一つは浪人。彼らは寄る瀬を持たない代わりに庶民から依頼を請けて妖怪退治をしているのだが、中には何らかの悪事を働いて解雇された侍や元同心もいる。これは粗暴な者が多く、結果的に浪人全体が警戒される原因となっている。
侍は信用ならないし、浪人は何をしでかすか分からない。庶民の間では、地主の紋を背負っていない侍を見たらとりあえず避ける、という習慣が定着していた。お蔭で秋水は正体を隠せて助かっている。
秋水が神職として仕える神社はこの界隈では有名で、彼もまたそれなりに顔が知れている。仕事の時に普段着と全く違う着物を選ぶのは、そのためだ。浪人の振りをしていれば、わざわざ確認する者もいない。
大通りを避けて小路に入り、秋水は先を急ぐ。墨色の長着の裾が雨を吸い、重たくなってきていた。辺りの風景は田んぼや厩舎が目立つようになり、目指す山は近いと思われる。牛糞の臭いがどこか懐かしかった。
そのうち行き当たった街道に沿って、森が広がっていた。地図を開いて目印を確認し、一人頷く。畑や民家の位置関係から見て、ここから入って少し登れば着くはずだ。暗い森へと躊躇なく足を踏み入れ、左右を確認しながら慎重に進む。
獣道からも逸れて歩く森の中は、雨が木の葉を叩く音がする以外は静かなものだった。夜目は利くといえ、雨で煙っていてはさすがに遠くまで見えない。それでも、木に残された爪痕だけはそこここに認められた。この付近で間違いない。
不意に、立ち止まる。息を潜めて耳を澄ます彼の聞く音は、常人にとっては無音であっただろう。
顔をすっぽりと覆う浪人笠の下で切れ長の目をすうと細め、秋水はゆっくりと辺りを見回す。右斜め前方を見たところで止まり、腰の刀に手を遣った。
気を付けていなければ分からないほどかすかに、獣の臭いがする。耳を澄まして聞いていた何かの音が、徐々に近付いてくる。
足音だ。明確な意思を持ってこちらへ走ってくる、何か大きな生き物の。
「臭えなこりゃ」
利き手は刀にかけたまま、秋水は顔をしかめる。前方で生木の枝が飛ぶのが見えた。めきめきと音を立て、木々が道を開けて行く。いや、一直線に走ってくる何かが薙ぎ倒している。
強い獣の臭いを連れて、闇が迫ってくる。その闇の中に、爛々と光る二つの目玉が見える。これが依頼人の女房を食い殺した下手人であろう。
「よく育ったもんだ」
黒い小山のような巨体が、木に手をかけてぬうと顔を出す。身の丈八尺はあろうか。毬栗の棘のような体毛に被われた体は見事なまでに筋骨隆々、その顔は荒ぶる戦神の如き憤怒の形相である。子供の指ほどはある爪を生やした手だけでも、人間の顔より大きいのではなかろうか。畏怖さえ覚えるほどの巨躯を誇るその妖は、鬼熊と呼ばれている。
通常熊というのはこんな町中にいるものではなく、人里離れた山中に隠れ棲むものだ。それがどういったわけか村や町に出てきて人の味を覚え、長命を得て夜な夜な家畜や人を襲うようになったのがこの鬼熊である。
一説には熊に似ているだけで全く無関係の妖であるとも言うが、秋水はどちらでもいいと思っている。元がなんであれ、依頼があれば斬るだけなのだから。
わずかに距離を保ったまま秋水を見下ろしていた妖が、低い唸り声を上げ始める。どうも食糧ではなく敵と認識したらしい。獣に相手がなんたるかを見極められるような知能はないが、妖となってしまえば話は別だ。
しかし唸るだけで、動く気配はない。秋水も低く構えたまま、動かない。呼吸の音もなく、雨の音と獣の唸りだけが静寂の森を揺らしている。
やがて秋水がふっと息を吐き、構えを解いた。かと思った矢先、獣の咆哮と共に鬼熊の丸太のような腕が霞む。ごきん、と鈍く異様な音がした。
「でかいのは遅くて助かる」
頑強な爪の先すらも、呟いた彼を捉えはしなかった。いつの間にか鬼熊の背後へ回っていた秋水の手は、本来馬上装備であるはずの大ぶりな太刀を握っている。生身の人間相手では意味もないが、大型のけだもの相手ならこちらが適している。
鈍色に光る刀身は、鬼熊の首を貫いていた。先の音は砕かれた延髄が立てたものであろう。一瞬でこの巨体にとって致命傷となる部位を正確に突く技量は、文字通り血の滲むような修練をして培われたものだ。
とはいえ、秋水に今突いたのがなんだったのかといった小難しいことは分からない。あるのはここを砕けば大抵のものは死ぬという、経験則だけだ。死ななかったらどうするかとは考えない。その時のためにいちいち背後を取っている。
刀を力任せに引き抜いて三つ、数えたところで鬼熊の巨体がぐらりと前のめりに傾ぎ、どうと倒れた。跳ねた泥水を浴びそうになり、慌てて逃げる。
「おぬしの仕事は殺す事なのか?」
刀を構えるのも忘れ、咄嗟に振り返った。動じていたせいではない。動揺したのは確かだが、突然問いかけが聞こえたせいとは違う。知った者の声がしたから驚いたのだ。
「……なんで……」
呆然と呟く。番傘を差して背後に立っていたのは、確かに家に置いてきたはずの黒耀だった。
いつからいた。いつから追い掛けてきていた。何故気付かなかった。
それらの疑問の内ひとつも口から出ては来ず、秋水はただただ阿呆のように口を開けたまま彼女を見つめるばかりだった。そんな彼に重ねて何か問うでもなく、感情の隠らぬ視線を投げ掛けたまま、黒耀は首を傾げる。
「秋水?」
彼女は本当に神なのかも知れないと、秋水は初めてそう思った。怪訝な呼び掛けには首を横へ振るだけで応え、袖口から懐紙を取り出す。
「……仇討ちだ。ただの殺しは請けねえ」
刀についた血糊を拭いながら、絞り出すように呟く。
まるで言い訳のようだ。こうして血は拭えても、今まで犯してきた罪の一つも贖えないというのに。
懐紙を捨てた先にあった死骸を一瞥し、歩き出す。黒耀の足音はすぐ後ろをついてきた。
「仇討ちとは?」
「怨み買ってる奴を斬る。妖怪だろうが、人間だろうがな」
ほうと感心したような声が聞こえた。訝しく思って振り返ると、黒耀は目を輝かせている。何やら嫌な予感がした。
「楽しそうだな。余もやるぞ」
子供かと口の中で呟いて、秋水は脱力した。記憶を失うと善悪の判断までつかなくなるのだろうか。それとも、仇討ちなら善と思ったのか。
「楽しかねえよ……刀振れやしねえだろ」
力なく呟いて、空を見上げる。雨が止む気配はないが、心中はいつしか晴れていた。