一章 祈念
星の見えない夜。手元の提灯と微かな月明かりを頼りに、男が一人、静まった裏通りを歩いていた。
腰に一本、身なりはそれなり。中肉中背に美醜の判じがたい顔立ちながら目つきだけがいやに鋭く、そういう人間なのだと容易に推測できる。
それなりに手練れであろうことは、金神の加護を賜る証たる灰色の髪からも推測できる。あっちへふらり、こっちへふらりと覚束無い足取りである割に、狭い道でも板塀にぶつかる事はない。すっかり出来上がって千鳥足で歩む侍を、痩せた野良犬だけが覇気のない目で眺めていた。
下弦の月が、ときおり雲に隠れてはまた顔を出す。春を予期させる風は酔歩する彼に丁度いい程度の冷たさで、こんな暗く寒い夜に町人が好きこのんで外へ出るわけもない。板塀に囲まれた道に、人影は彼以外なかった。
時刻は日付が変わった頃か。花街が近いとはいえここは長屋通りであり、住人もみな寝静まっているだろう。彼がよろめく度に振れる刀のぶつかる音と、間の抜けた草履の足音、調子外れな鼻唄だけが薄曇りの夜に溶けて行く。
侍が横道に入ったところで、月が隠れた。そこにも人の姿はない。どこかで犬がおんおんと鳴いているだけで。
全く誂えたような夜ではないか。
「ふんふふー……ン、ごほっ」
どん。
と、何か重たいものがぶつかってきたような衝撃と音。男の鼻唄が痰の絡んだが如く不明瞭となり、咳き込む音が続く。背が反って転びそうになるも、彼は辛うじてその場に踏みとどまった。尚も咳をする侍の口から唾が飛んで、足下の小石を赤く染める。
赤。
赤い。
「な……はぁ」
間の抜けた声。何が起きているのか分からず方々へ彷徨う侍の視線が、落ちてゆく血の雫を認めてそれを追う。その出所を辿って己の体を見て、彼の目は驚愕に見開かれた。
提灯に照らされてぬらぬらと赤く光る、刃。それは確かに胸から生えていて、侍は奇妙に眉を歪める。次いで何をしようとしたか小刻みに震える手を胸にやったが、刀身は指が触れる前に見えなくなった。鉄錆に似た生臭さが一層その濃さを増す。
刀を引き抜かれた勢いで侍の体がくの字に折れ曲がり、羽織の背を夥しい赤が染めてゆく。傷口からは、鼓動と同じ一定の調子で血が噴き出している。戸惑う視線が中空をさ迷う中、その血飛沫も段々と、弱くなってゆく。
侍の膝から力が抜け、両の足から地面にくずおれる。その手から落ちた提灯が見る間に燃え上がり、遺言どころか悲鳴の一つもないまま事切れた男の白い顔を、鮮烈なまでに赤々と照らし出した。
血に濡れた刀が懐紙で拭われる。慣れた手付きだ。
丸めた紙屑を放り捨てたその手の持ち主は、顔をすっぽり覆い隠す浪人笠を被った着流し姿の男だった。闇に溶け込む墨色の長着には、返り血の一滴もついてはいない。笠に隠れて表情は窺えないが、少し覗けば引き結ばれた薄い唇が見えただろう。
草履を履いた男の足が、俯せに倒れた侍をそうっと転がす。屈んで、仰向けになった死体の腰元を探り、取り出したのは蒔絵の施された印籠。血で濡れたそれを懐紙でくるんで懐に収め、男は立ち上がる。
それだけで、彼は踵を返した。元より目的は金品ではない。
彼は足音もなく、その場を去った。
一
早春の夜をひとり歩く秋水は、鬱々としていた。
斬るのが仕事とはいえ、その対象が人となったのは何ヶ月ぶりだったろう。何年もやってきた事だというのに、一仕事終える度に気が滅入るのは昔から変わらない。
それでも初めて斬った時のように、何日も罪悪感に苛まれないだけ自分も慣れたという事だろうか。慣れるのも考え物だが。
山道に続く林に入ったところで浪人笠を外して空を仰ぎ、秋水は籠ったものを逃がすように息を吐く。
長身痩躯で、目鼻立ちの整った青年だった。着物より濃い黒髪は手入れをしないのかわざとそうしているのか、所々跳ねている。漆黒を湛えた切れ長の目は何も見ていない、どころか何かに視線を合わせることさえ厭うているかのよう。顔貌は涼しげだが纏う空気は重く、腰の刀がそれを助長させていた。
墨色の長着の裾が、はたはたと風に吹かれている。前髪をかき上げながら見上げてみても、頭上で枝葉を広げた木々に遮られ、彼から空は見えない。柄にもなく神に祈ってみたい気分だったというのに。
祈るなら、天に御座す神々からその姿が見えるよう、よく晴れた日の朝に。決まり事でもないにしろそれが倣いである。これほど祈るに適さない状況もなかろう。そも彼は、どのような神に祈ればいいのか分からない。願い事さえ思い付かず、祈るべき神も持ち得なかった。
ぼんやりと歩きながら、秋水は懐を探る。取り出した包みを開け、血で汚れた懐紙を捨てた。中身は先ほど殺した侍から取り上げた、印籠だ。
秋水にはその図案が何を意味するのか分からなかったが、柄自体は恐らく花だろう。使い込まれているらしく、施された蒔絵は掠れている。流行りとは違うといえ、なかなか趣味がいい。
この印籠自体に、特に意味はない。印籠である必要もない。彼は確かに斬ったという証明のために、標的の身元が分かるものを何かしら持ち帰る。依頼人にごねられて無駄骨を折らされてから、必ずそうするようにしていた。彼の生業は信用商売ながら、なかなか信を得難いのだ。易々と信用されたら、それはそれで困りものだが。
因果な商売だ。自分でもうんざりしている。印籠を再びしまいこみながら、秋水は溜息を吐く。
今となっては副業に当たるとはいえ、そもそも何故こんな仕事を始めたのか彼自身覚えていない。そう遠い昔の話ではないが思い出すには嫌な記憶ばかりで、考えないようにしている。それでも、状況としては十代の頃よりましだろうか。
殆ど光の届かない夜の林を、彼は灯りも持たずに歩く。ちょうど今のように、闇の中を手探りで歩くような時期もあった。
火の雨が降ったのは、そんな頃だった。空から童の拳大の火の玉がいくつも降ってきて、すわ天の怒りか世界の終わりかと大騒ぎになったものだ。半刻ほど降り続いた炎は町を焼き森を焼き人を焼き、更に一刻ののち降り始めた豪雨によって消し止められた。聞いた話では、あの赤い雨はこの地域のみならず中ツ森全土に降り注いだのだと言う。
ひどい光景だった。思い出すだに胸が悪くなる。人の死体なぞ見慣れているが、生きたまま燃やされる人間を見たのはあれが最初で最後となるだろう。人の脂が燃える臭いとむちゃくちゃに暴れる黒い人影を思い出し、秋水は胸をさする。
未曾有の大災害を引き起こした原因は、未だに解明されていない。されど哀鴻野に遍し、その爪痕は五年が過ぎた今でも各地で散見される。あれで、暗中に足掻いていた彼の生活は一変した。良くも悪くも。
とりとめのない思考を巡らせていた彼は、林を抜けたところでふと足を止めた。
「……何だ?」
背の高い草が生い茂るばかりの野原に、緑とは明らかに違う色が見えた気がした。揺れる草の間に目を凝らしてみれば、確かに真っ赤な異物がある。火や血でない事は色合いで判じられ、よもや女物の着物ではあるまいかと思うほど鮮やかであった。
怪訝に思って道を外れ、近寄るとそれが人の頭であると知れた。秋水は、いやいや、と口の中でつぶやく。
こんなところに人の頭がごろんと転がっていて堪るものか。仮にもこの山は神域なのだ。
しかし確かに血の臭いがする。草を掻き分け更に近付いてみて、とりあえず全身の揃った人間であると知れた。顔は髪に隠れて見えないが、背格好からして女だろう。しかしその異様な風体に、秋水は目を見張る。
暗い深緋の長い髪が、曲線を描きながら草の間に散らばっている。この色は、果たして人間の頭から生えるものなのであろうか。こんな色の髪は見たことがない、と益々訝り体へ視線を移す。
俯せに倒れるその人物は死装束のような白い小袖を着ており、全身がまだらに赤黒く染まっていた。特に背中は白い部分が残らないほどで、一瞬、そういう柄なのかと思ったほどである。
だがそうでないことは、近づいてみれば容易に判断できた。
「おいおい……死体か、こりゃ」
よくよく見れば、後ろ身頃が大きく破れている。着物だけではない。肌どころか肉まで削ぎ取られたように抉れ、所々黄色い脂肪と筋肉のみならず、背だか肋だかよく分からない骨が露出していた。
これはさすがに異様だ。ただの死体でないことは確かだろう。しかし遺棄するなら頻繁に人の立ち入るこんな野原に放置するのでなく、林の中なりに埋めるのが定石ではあるまいか。
はたまたどこぞの置屋の女が逃げてきて、ここで力尽きたか。それも考えにくい。一番近い花街からこの山までは人通りの多い大路を通らなければならず、偶然辿り着いたにしても、こんな格好で逃げるのにそんな道は選ばないだろう。何より女の裸の足は、すこしも汚れていない。
ならばここまで誰かに運ばれてきて、秋水が来たから捨てられたか。それもなかろう。動く人の気配があれば、林の中を歩いていた時点で気付くはずだ。
更にこの山、というよりこの先にあるものは、曰く付きの代物である。近隣のみならず、山一つ越えた村の住民ですら知っているほどの。ここに死体を捨てることはおろか、通ることさえしないはずだ。
「あー……ま、いいか」
考えて分かる事でもない。早々に諦めて、念のため倒れた女の口元へ掌を持って行く。そしてまた息を呑む。
生きている。かなり弱いが、生ぬるい呼気がかかる。呼吸をしている。
人間の生命力とは、かくも強いものなのか。感動を覚えかけて、慌てて打ち消す。感動している場合ではない。死体でないとしたら、これをどうすれば良いのだろうか。
普段の彼なら、その場に捨て置いただろう。独り暮らしの長い彼は他人の面倒を見られるほど気が利かないし、連れて帰って結局死なれても余計な手間がかかるばかりだ。けれど今だけは、放っておく気にならなかった。相手が女だからという安直な理由ではない。
久々に人を斬って、感傷的になっていた。人斬りに身を窶してゆうに十年は経ったはずが、染まりきれないのはそういう性分なのか。自嘲してみても見ない振りをする気にはなれず、結局腹を決める。
「なんだかな……こんな怪我じゃ助かりゃしねえだろうし、せめて看取ってやるか」
自分に言い聞かせるような独り言だった。言い訳のようにぼやいてから女の腕を取って背負ってやろうと持ち上げ、ヘェと呟く。
垂れた髪の間から見えた彼女の顔は、これだけ出血しているのだから当然だが今にも死にそうに白い。だがその造型は、神か妖かと見紛うばかりに端正なものだった。死にかけていてこれならば、目を開けたら更に美しかろう。
だが、それを目にする機会はないのだろう。この世は不条理なものである。
よ、と小さな掛け声と共に、死にかけの女を背負う。華奢とはいえ気味が悪いほど軽いのは、血が流れすぎたせいだろうか。それとも、背中以外の肉も削がれているのか。仕事柄夜目は利く方ではあるが、さすがにこう暗くてはろくに見えない。
確認する気もない。そのくせ背中に伝わる弱々しい鼓動に安堵を覚える自分がばからしくて、秋水は誤魔化すように歩き出す。
梅が散ったばかりの夜はまだまだ寒く、背に掛けてやるものもない事を心中謝った。彼も寒いが羽織は邪魔なのだ。仕事中は出来る限り身軽にしておくに限る。
野原の只中を突っ切る細い道を少し歩くと傾斜がきつくなり、石段が見えてくる。端は苔むし、所々欠けてはいるものの、落ち葉の一つもないのは手入れが行き届いている証拠だ。
この先にあるのは、曰く付きの古い社だ。霊験はあらたかで訪れる者も毎日それなりにいるが、よくぞこのおかしな場所へ詣でに来るものだと秋水は思う。何しろ石段を上りきった先で出迎えるのは、真っ黒な鳥居なのだから。
最上段に足をかけ、秋水は改めて見上げる。女一人背負って長い階段を上ろうとも疲れるほど柔ではなく、言うなればやはり感傷的になっていた。
漆塗りの鳥居は夜闇に溶け込むようでありながらも、異質な存在感をもってそこに佇んでいる。まるで、ここから先は異界だとでも言うように。
けれど秋水は気に留める風もなく、悠然と境内に足を踏み入れる。参道に敷き詰められた玉砂利を草履が噛み、小気味良い音を立てた。
面積はそれほどない。その分、鬱蒼とした森に囲まれている割に落ち葉も少なく、よく掃き清められていた。鳥居の異様さに比べれば正面の拝殿はまともで、脇の社務所も今はきちんと簾がかかっている。
だがやはり、所々が奇怪としか言いようもない。本来白いものを選んで撒くはずの玉砂利は殆どが黒く、拝殿にかかる御簾の縁は正絹と思われるが、白地に黒で細い蛇のような模様が描かれている。撚房は、血のような朱一色。不吉にも程がある。
暗がりで見るには不気味なそれらを横目に、秋水は社務所の裏へ回る。板塀に囲まれたそこが、彼の家だった。板葺き屋根の平屋はお世辞にも立派とは言えないながら、一人で住むには広すぎる。
両親はいつの間にか死んでいて、兄は五年前、火の雨に焼かれて死んだ。故にこの家も不気味な神社も、秋水の持ち物という事になる。
つい今しがた人ひとり斬ってきた彼は、神主なのだ。世を忍ぶ仮の姿と言えば聞こえはいいが、こちらが本職だ。
帰宅を告げる相手もいない家に入り、とにかく背中の女を寝かせようとほとんど使っていない奥座敷へ続く襖を開ける。神社の者がたまに掃除してくれているお陰で、室内は綺麗なものだった。
余分な布団は捨ててしまってもうないが、構いはしないだろう。どうせ死ぬだけの人間だ。死人に口なし、文句を言う事もない。
そうして自分を納得させ、女を横向きに畳の上へ寝かせる。さすがにあの傷だらけの背を畳へ直につけたくはない。血で汚れても、死人に弁償させる訳にはいかないのだから。
落ち着いて見れば、微かに胸が上下していた。いつまでもつ事やら、と考えながら、勿体なくも思う。見る限り十代か、二十の始めだろう。これほどまでに美しい女が、若い身空で物言わぬ屍と化すとは。
あまり眺めているのも申し訳なく、押入からかい巻きを引っ張り出して掛けてやる。それ以上の世話を焼く気にもなれず、秋水は自分も寝ようと部屋を出た。