32話 不測の事態
ラグナが窓を突き破り飛び出す少し前――隠し通路を使い警備をかいくぐったリリスは地下の牢獄にやってきていた。ただ牢獄にいるといっても牢屋のある場所に立っているわけではなかった。どうしても狭い入口の見張りをやり過ごすことが出来なかったため、現在は石造りの地下牢の床下に作られたダクト状の細長い隠し通路に這いつくばいながら身をひそめている状態だ。地図によるとその場所はちょうどこの館に侵入する時通った地下空間の上にあり、頭上の牢獄に挟まれる形で造られているようだった。
空間は牢屋の真下にも伸びており当然人質のいる牢屋の中にも入ることが出来たが、入口の見張りとは別に牢屋の見張りがいたため救出は叶わずにいた。だが仮に見張りがいなかったとしても救出してしまえば遅かれ早かれ侵入者の存在が露呈してしまうため、隠れて情報収集に務めているラグナが発見される恐れがある。そのためリリスはどちらにしろ様子を窺う事しか出来なかった。
人質の姿は床下からはよく見えなかったがだいたいの特徴は把握できていた。栗色の髪をした若い女性で、フリルの付いた高そうな白いネグリジェを着てベッドの上に寝かされている。なんとか顔だけでも確認しようと隙間から頭上を見ていると二つの足音が聞こえて来た。どうやら敵が二人やってきたらしい。やがて人質のいる牢が開けられると同時に牢屋の看守を含めた三人の男たちの話声が聞こえて来た。
「来たか。んじゃあ予定通り人質を運び出すぞ」
「おう。さっさと運ばねえと姉御にドヤされちまうからな」
「つってもよお。またアジト変えんのマジめんどくせえよな。荷物移すのは俺ら下っ端だし……やってらんねえぜ。なんかしら褒美が欲しいよな」
男達はどうやら人質を別の場所に移すつもりのようだった。リリスはそれを聞き焦り始める。
(……マズイ……ここで人質を見失ったら追跡はほぼ不可能になる……でも助け出したら侵入者がいるってことがバレてラグナの情報収集の邪魔になるかも……どうしよう……)
リリスが悩んでいると三人の男のうちの一人が声をあげた。
「……なあ」
「なんだよ。早くお前も運ぶの手伝え。褒美が出ねーからって手抜きしてんじゃねえ」
「まったくだ。ったく何サボってんだテメエは。姉御にチクるぞ」
「いや、運ぶのはいいんだがよ。ぜめてその前にちょっと味見しねえか……?」
人質を担ごうとしていた二人はその言葉を聞き顔を見合わせる。
「味見……? ……まさかお前こいつとやるつもりか……?」
「おいおいマジかよ。見た感じまだガキだぜ」
「お前らわかってねーな。このくらいの年がいちばんあそこの具合がいいんだぜ――ほれ」
男の一人が人質のネグリジェをめくり上げその結果下着が露わになる。それを見た男二人はまだ未成熟ながらも女性に近づきつつある肉体から発せられる色香を受け生唾を飲み込んだ。
「へ、へえ。案外悪くないかもな」
「だな。けど人質にはなにもするなって姉御から言われてるぜ。手を出したら殺されちまう」
「バレなきゃ問題ねーって。終わった後体拭いて消臭剤か香水でもかけときゃ臭いでバレることもねーしな。だが眠らせてる薬の効果がそろそろキレちまうからやるならさっさとやっちまった方がいい。騒がれると面倒だしな。お前ら、やらねーなら終わるまでちょっと待っててくれよ」
「いやいや、何一人で楽しもうとしてんだよ。当然俺らもまざる」
「そうだぜ。だいたいちょっとってどれくらいだよ。一、二分じゃ終わんねーだろ。いや、そういやお前は早漏だったか、ギャハハハハ」
「チッ、うっせーな。わーったよ。けど俺が最初だからな」
男たちの下種な会話を聞いたリリスは拳を硬く握りしめ、瞳に殺意の光を宿す。しかし激情よりも理性が勝ちギリギリのところで動きが止まる。命懸けで情報を集めている少年の顔が少女の怒りを抑えつけていた。軽率な行動を取れば彼の身に危険が迫る。そのことは重々承知していた。だが――。
「つーか生でやんのか?」
「当然だろ。ゴムなんて持ってねーし」
「うえー、最悪だなお前。妊娠したらどーすんだよ」
「そんなこと俺が知るかよ。産むも降ろすもこいつの自由だ。それにお前らだってどうせ生でやる気だったんだろ?」
「まあな。しっかし意識が無いまま妊娠とかこえーだろーな。あー、かわいそ」
「そう思うならやらなきゃいいだろーが。だいたい性処理道具に同情する方がどうかしてるぜ」
「言えてるな、ギャハハハハ!」
――その下品な笑い声を聞いた瞬間少女の中で結論が下される。
(……ごめん……ラグナ……)
愁いを帯びた表情でラグナに謝罪した少女は青い光を身に纏うと『月錬機』を展開し牢屋の床を切り裂き上に跳び出す。突如真下から現れた侵入者に驚いた男たちは目を見開き声を上げようとしたが、その前に双剣が振るわれ一瞬にして男たちの頸動脈は切られる。血しぶきが上がり男たちは絶命、床に倒れた。返り血を浴びながらリリスはかつて騎士学校で行った演習を思い出す。
それは野盗を騎士学校の生徒だけで討伐するという内容のものだった。騎士になれば魔獣の討伐だけではなく犯罪者たちとの戦いも想定される。つまるところ人を殺すことに慣れさせるための訓練だった。相手はどうしようもない悪人ではあったが、自分たちと同じ人間。生徒達の中には殺すことが出来ず学校を去った者や殺した後の罪悪感に苛まれ心を病んでしまった人もいた。
リリスも当然人を斬った罪悪感と嫌悪感で吐きそうになった。そんな時自分の背中を優しくさすってくれた人がいたのだ。その人は自分と同じように青い顔をしながらもこちらを気にかけ優しい言葉で慰めてくれた。その優しさに何度助けられたかわからない。人殺しの嫌悪感を拭うために、いつもそばにいてくれた恩人にして親友の名を呟き語り掛けるように言う。
「……ジュリ……どんな悪人でも……人を殺すのってやっぱり嫌なものだね……」
その後落ち着くために深く息を吸い吐き出すと、人質の方に目を向ける。飛び散った血で顔やネグリジェを汚してしまったが、問題はそこではなかった。その人質の顔を見た瞬間、リリスの顔は驚愕に彩られる。
「ッ……! ……な、なんで……ここに……」
背中まで伸びた栗色の髪を三つ編みにしたその少女の寝顔は見知ったものだった。親友の面影を感じさせるその美しい顔を見ながら唇を震わせ呟く。
「……サリ……ちゃん……」
ベッドで寝ていた人質、その名はサリア・フォン・ベルディアス――ジュリアの妹だったのだ。状況が飲み込めずうろたえていると地下牢の入口から声と共に足音が近づいて来た。
「おいてめえら! いつまでやってんだ! さっさと――ッ!」
男が惨状に気づき顔色を変えた瞬間、踏み込むと同時に高速で近づいたリリスは再び剣を振るいその刃は男の首を容易に切断した。だがその瞬間に気づく、切り捨てた男の後方にもう一人の敵がいたのだ。顔を見るに入口を見張っていた男のようだった。そして偶然生き延びたもう一人の男は驚きながらも大声で入口に向かって叫ぶ。
「し、侵入者だぁぁぁッ!!! ――がはッ!?」
叫び声を上げる男を後ろから斬り殺したリリスは最悪の状況に顔をしかめながらも双剣を腰のベルトに下げ、サリアを抱きかかえると同時に地下牢の入口に向かって走り出す。今まで隠れていた抜け道は狭すぎて人を運びながら進むのは不可能だったためそうするしかなかったのだが、その結果大量の敵に追われることになったのだった。
地上に着地すると同時に『銀月の月光』の光を強めたラグナは『ラクロアの月』の構成員たちの進む方向に向かって全力で走り始める。敵が目指す方向に自身の仲間がいると踏んでの行動であった。途中で男たちが群れをなして何かを取り囲んでいるところが見えたため、地面がえぐれるほどの勢いで跳び集団近くの大きな木の枝の上に着地する。上から下の様子を窺ってみると、案の定敵に包囲されたリリスと人質と思われる少女を発見することが出来た。敵は『月詠』と普通の人間との混成部隊で、主に攻撃をしているのが『月詠』、バリケードを作っているのが普通の人間のようであった。
木の根元に人質を寝かせ戦っていたリリスだったが、見たところ防戦一方のようだった。人質をかばいながら五十を超える敵に襲われている少女の姿を見たラグナは敵の包囲を崩すべく『月錬機』を展開し、『月文字』を読み上げる。
「〈アル・グロウ〉ッ……!」
木の上から高速で放たれた巨大な光弾は敵が密集していた場所に激突すると爆ぜた。当然敵は吹き飛び包囲網の一部に穴が開く。それを見たリリスは味方の存在とその意図に気づいたのか双剣をベルトに下げ人質を担ぎ上げると、包囲を突破した。敵は突然の奇襲に混乱しながらも逃げる少女たちを追おうとしたが、その前に上から飛び降りたラグナが『月詠』でない追跡者の一人を着地と同時に刺し殺す。その後死体から剣を即座に引き抜くと近くにいた光を纏っていないもう一人の背中を串刺しにする。
敵の『月詠』はラグナの存在を認識すると同時に得物を向けて『月光術』を唱えようとしてきた。先ほどの『月光術』によって光を失ったラグナは串刺しにした敵を盾にしながら時間を稼ぎ、『月光』が戻ると同時に反撃を開始した。
敵はカーネル湖で戦った者たち以上の練度であったが、激しい戦いの末になんとか勝利する。その後『月光』も消えボロボロになりながらもリリスの走り去った方向に向かって急いで足を進めていると木陰に隠れている目的の人物を見つけることが出来た。
「リリッ……!」
「……ラグナ……」
息を切らせながら近づくと、『月光』を消し自らの傷の治療をしていたリリスは申し訳なさそうな顔をこちらに向けて来た。
「大丈夫だった? 怪我とかしてない?」
「……平気……それより……ごめんなさい……私のせいで……」
「気にしないでいいよそんなこと。それより人質を連れて急に逃げようとしたってことは何かあったんでしょ? 何があったの?」
「……実は……」
リリスは今までの経緯を説明し、それを聞いたラグナは納得したように頷いた。
「……そんなことがあったんだ。じゃあやっぱりリリのせいじゃないよ。騎士だったらそんな場面見過ごせるはずない。君は正しいことをしたよ」
「……本当にごめんなさい……」
「そんなに謝らないで。俺がその場にいたとしてもきっと同じことをしてたと思うからさ。それで……その子が人質の子なんだよね……?」
「……うん……この子は……サリちゃん……」
「え、サリちゃんって……確かジュリアの妹さんの名前……だったよね……?」
「……そう……でも……どうしてここで人質になってたかはわからない……話を聞きたいけど、薬で眠らされてるみたいで……」
「そうなんだ……」
ラグナはこの騒ぎの中でも目覚めない眠り姫を見ながら考え始める。
(……でも本当になんでジュリアの妹さんが人質に取られているんだろうか。確かジュリアの話では買い出しに行ったり家族を看病してるってことだったけど……もしかしてベルディアス伯爵やその家族が倒れているのは単なる病気じゃなくて『ラクロアの月』が関係しているのか……ジュリアの様子もおかしかったし、可能性としては十分に考えられる話だ。妹さんを人質に取られて嘘の証言をさせられていた、とかかな……)
ラグナが思考を巡らせていると微かな足音と葉が擦れる音、地響きが聞こえて来た。音の位置から察するにまだ遠いが考えることを中断しリリスの方に顔を向ける。
「……リリ。ここからはまた一人で逃げてほしい。アルシェまではそこそこ距離はあるけどなんとか頑張ってくれるかな」
「……ラグナは……どうするの……?」
「俺はここに残って敵を引き付ける」
「……駄目だよ……危険すぎる……もうボロボロ……私が残る……私のせいだから……ラグナはサリちゃんを連れて逃げて……」
ラグナは首を横に振るとリリスに向かって穏やかな笑みを見せた。
「俺なら大丈夫。それにその子の目が覚めた時のためにも顔見知りのリリが傍にいた方がいいよ。俺だと警戒されちゃうかもしれないし」
「……でも……」
「本当に平気だよ。いざとなれば俺にはこれがあるからさ」
ラグナは手袋のはめられた左手の甲を右手で軽く叩く。
「…………」
「……リリ」
納得していない様子の少女にラグナはポケットから紙を取り出し見せる。それを見たリリスは唇を硬く結んだ。
『信じて』
その言葉は屋根裏で少女が少年に向けて書いた文字。ゆえにリリスはうなだれるように頷いた。
「……わかった……でも絶対に帰ってきてね……約束……」
「うん、必ず帰るよ。約束する」
リリスはラグナの言葉を聞き頷くと『月光』を纏いサリアを担ぐ。その後少女は名残惜しそうに一度こちらを振り返ってから森の外に向けて走り出した。それを見届けたラグナは徐々に大きくなって行く足音や地鳴りに顔をしかめながら左手の甲を見つめる。
(……フェイクが戻ってくることを考えて温存しておいたけどそんなことを言ってる場合じゃないなこれは。もう体力的にも結構キツイ。ここで使わなきゃ数で押しつぶされる。そうなれば陽動の役割は果たせない。よし、使う――ってあれ……)
だがいざ『黒い月光』を使おうとして今初めてラグナは気づいた――。
(えッ!? う、嘘だろッ!? な、なんでッ!?)
――黒い痣がいっさいの反応を示していないことに。
(まだ今日は一回も使ってないぞッ!? それなのに呼び出せないッ!? どうし――ッ!)
そして思い当る可能性。
原因――おそらくそれは先ほど仮面の男を発見した時に感じた異常な反応だと直感的に理解できた。あの異常な疼きを思い出し右手で左手の甲を思わず握る。
(……さっきフェイクにおかしな反応してたけど……まさかアレのせいか……ッ!? ……といかアレ以外に思い当るフシが無い……)
不測の事態に顔を引きつらせているとやがて先行してきたらしい『月光』纏った『月詠』たちに取り囲まれる。続いて銃や刃物で武装した集団もそれに加わり、ラグナを中心に巨大な輪を作る。さらに森の奥から大きな地響きと共に巨大な岩の怪物――ゴーレムが姿を現した。形状から察するに最初に森で出会ったあの魔獣だろう。追い詰められた少年は銀色の光を身に纏いながら心の中で呟く。
(さ、最悪だ……)
百を超える敵に囲まれた少年はボックスに戻しておいた『月錬機』を再度展開し直し敵に向けて構えた。