本当の優しさとは
『じぃちゃん!おら、大学行きたい!』高校三年の夏、おら、阿印彰彦はそう言って、北海道の根室というど田舎から、大都市、札幌の大学に進学した。
初めて札幌という街に身を置いた時は、建物の高さ、人の多さに面食らってしまった。
人が多すぎて、気持ち悪かった。
進振りで行きたい学科であった理学部化学科に見事入ることができたおらは、1年生の春休みから級友の倉井善次郎くんから紹介を受けて、すすきのにある居酒屋のアルバイトをやることになった。
「阿印!!なにやってんだ!」シフトマネージャーの怒号が飛ぶ。お盆に載せていた飲み物をシフトマネージャーにぶっかけてしまった。廊下の曲がり角でシフトマネージャーとはちあわせになりぶつかりそうになって、でかい図体、重たい身体をコントロールすることができず、おらはバランスを崩したのだった。
「すみません!」
「すみませんじゃないんだって!お前は今日どんだけミスするんだよ」おらはぐうの音も出せなかった。
「注文の個数はミスるし、違う部屋のお客様に料理出すし、ビールの補充やれって言ったのにやってなかったし。で、極め付けにこれか」
「すみません。」
いくら気をつけても、直らない。
少しでもお店のためになることをして、上司や周りのバイト仲間に認めてもらおう。
おらはそう思って、暇な時間は、テーブルを吹いたり、掃き掃除をしたり、酒瓶を整頓したりした。
それでも周りの人も鈍臭いやつって目でおらを見てくる。
どんなにたくさんの小さなプラスを重ねても、1つの大きなマイナスのほうが人の印象に残ってしまう。
流石につらくて、もう辞めようかと考えていた。
バイトに行くのが毎回億劫で、出勤のたびに真っ暗な気分になっていた。
そんな時期のある日バイトに入ったときである。
「阿印」
「マネージャー!お疲れ様です!」
準備を終えて、少し早めにホールで待っていたおらのところに、シフトマネージャーが一人の女の子を連れてきた。目がぱっちりしていて、とても綺麗な子だった。
「今日から入った新人だ」シフトマネージャーが手でその人を指し示した。
「狩本 志織です!今日からよろしくお願いします!」そのハキハキした声とさわやかな笑顔が、おらの真っ黒な世界に眩しいほどの光を照らした。
「よろしくお願いします。阿印彰彦ちゅうもんです」おらはぺこりとお辞儀をした。
「狩本、こいつはバイトの中で1番できないやつだ。まずはこいつを抜かせるように頑張れ」
そんな言い方しなくてもいいのに。
そう思った。だけど、何も言い返せなかった。
「またまた〜!1バイトとして精一杯頑張ります!」真っ白に輝いていた世界が一瞬にして黒に塗り替えられた。事実仕事ができない。ましてや、見るからに仕事が早そうな子じゃないか。抜かされるのも時間の問題だ。そう思った。
その日、バイト仲間の吉良瑠奈ちゃん、通称キラルちゃんと、善次郎くんと、志織ちゃんの4人でホールを回すことになった。
キラルちゃんは接客の合間をみては何もわからない志織ちゃんに、仕事を教えていた。
善次郎くんは飲み物を作るのに徹していた。おらもキラルちゃんと一緒に前線に出て、料理、飲み物を出したり、注文を受けていた。厨房からエレベーターで上がって来た料理を一個ずつ出していると、キラルちゃんが後ろから腕を勢いよく伸ばして来た。
「ったく、どんくさいなぁ。どいたどいた」
「うわぁ」おらは一歩二歩と、横に移動した。
「料理一個一個出さなくても、お膳に乗せたまま出せばいいだろう。まだ料理来るんだから、早くエレベーター下に降ろさなきゃ。」
「ごめん」キラルちゃんはおらより少し早く入った一年生の子だったが、仕事がおらよりはるかにうまかった。おらはひたすら黙るしかなかった。
「あたし、A25番と27番持ってくから志織、試しにこれ持ってってみ。A3番。場所、」
「大丈夫です、この地図みて行きますね」
「お、よく分かってんじゃん。よろしく!」
「了解です!」
志織ちゃんはそう言いながら料理をさっと受け取り、部屋番号が書いてある紙を見た。その間おらは今回の失敗をメモした。もう二度と同じミスはしないように。
「さぁ、何をしている彰彦よ。この飲み物を持って行くんだ。A26番だ」善次郎くんは、色取り取りなカクテル8本くらいお膳に乗せて渡してきた。
「うん、持ってくよ!」おらはお盆を受け取り、お客さんのところへ持って行った。ジョッキなら、手で持っていけるのだが、カクテルは取っ手が付いていないので、お膳に乗せて運ぶしかない。バランス感覚が試される。こぼさないように、こぼさないように。お膳にもう一方の手を添えて、ゆっくりおらは部屋に向かった。部屋の手前まで来て、部屋の扉を開けるため、お膳を支えるのに使っていた手を離し、扉を開けた。
「失礼します。」
その時、扉のすぐ前にちょうどトイレに行こうとしているお客さんが立っていた。思わずびっくりしてしまって、体を後ろに反らせてしまった。バランスを一気に崩し、全てのカクテルを床にぶちまけてしまった。おらもびっくりしたが、お客さんの方がもっとびっくりしていた。
「申し訳ございません!すぐに拭くものをお持ちします!」おらは急いで、戻ろうとした。勢いよく立ち上がると、ちょうど料理を持ったキラルちゃんに激突してしまった。
「てめぇ!どこ見てぇんだ!」
「ご、ごめんなさい!」
「インカム、ちゅうぼーさん。A27番の馬刺し、ダメにしてしまったんで、もう一個お願いしゃす。すんません。あと善次郎、さっきのカクテル8個作って〜」
キラルちゃんはそう言うと一瞬だけど、ものすごい勢いでこちらを睨みつけてきて、すぐに去っていった。おらはすぐに布巾を取ってきて、床を拭いた。頭の中は真っ暗だった。その処理が終わって、ホールは落ち着きを取り戻した。キラルちゃんは志織ちゃんに雑談を交えながら仕事を教えている。志織ちゃんはただ教わるだけじゃなく、自分から質問したり、こう言う場合はこうなるかと考えたりして、キラルちゃんに聞いていていた。彼女の成長のスピードが怖いと感じた。おらはいつも通り、手が空いたら何かできることはないかを探した。日本酒の向きがバラバラなのに気づいたので、おらは直した。その後オーダーを取った。今度はちゃんととれた。1つのタスクが成功するってほうがもはや珍しかった。
「インカム、阿印、次A7、11のオーダー頼む」キラルちゃんから無線での声が届いた。
「了解!」おらは注文を速やかにとり、戻った。日本酒と、さっきダメにしてしまった馬刺しを運んでいるキラルちゃんとすれ違った。キラルちゃんはぷいっとそっぽを向き、スタスタと歩いていってしまった。やはり、大きなマイナスは人の印象に残ってしまうのだ。改めてそう感じた。志織ちゃんは入ったばかりにもかかわらず、テキパキ仕事をこなした。ちゃんと終わった仕事を報告して、分からないことは、すぐに相談したりしていた。
「あきひこさん!」下を俯いていたおらに、突然志織ちゃんが話しかけてくれた。
「日本酒のラベル、直してくれてありがとうございます!」
「え?」見ててくれたのかと感じて嬉しかった
「あきひこさんのおかげで、迷うことなく日本酒選べて、はやく作ることができました!」
「いやいや、おらはできることをしただけだ。おら今日は沢山ミスしちゃったし」
「たしかにミスはいけないこと。でも、ミスはしょうがないことだと思うんです。それを挽回しようとするのが大事って言うか…ってわたし何言ってんですかね!」彼女は弾けるように笑った。それは言っては欲しかったけど、きっと人の口からは出ることはないだろうな、と諦めていた言葉であったと同時に、とても嬉しい言葉でもあった。
「ありがとう。志織ちゃんは優しいな」
おらは、涙を流しそうになった。おらはおらの仕事力はバイターの中では最低だ。新人の志織ちゃんよりも下手くそだ。でも、志織ちゃんは一切軽蔑をせず、それどころか優しかった。その日の帰り、志織ちゃんと少しお話しして、ラァインを交換した。彼女はおらと同じ大学2年生だった。
それから数日がたったころのことだ。トゥイッターでまた知らない人からフォロウされたことに、授業の前に気づいた。名前は「カルボン酸」。カルボン酸は化学用語だから知っていたが、またおかしな人にフォロウされてしまったなぁ、と感じた。ましてやプロフィールには
「薬はいいぞ〜」
などと書かれていた。どうみても怪しかった。振り込め詐欺や、へんな請求が来るかもしれないと思い、ブロックした。
その日、5コマ目の授業が終わったころに、突然志織ちゃんからラァインが飛んできた。
「あきひこさん。。。なんで?」そのあと、一枚の画像が送られてきた。その画像は、おらにトゥイッターでブロックされたと言う画面の写真だった。俺は何のことだか、点で検討がつかなかった。まず、志織ちゃんからトゥイッターのフォロウは来てないし、来たらブロックするわけがない。おらは聞いた。
「志織ちゃんをブロックするわけないべ!志織のアカウント見せて!」思わず強く言ってしまった。すると、彼女は一枚の画像を送って来た。おらは目を疑った。それは昼にブロックした、カルボン酸という人のアカウントだった。
「あ、これ、志織ちゃんだったの?」
「まぁ、スパムみたいなとこあるからしゃーない」
「すぐフォロウするよ。知らない人だと思ってさ。ごめんよー」おらはすぐにフォロウした。
「フォロウありがとう!」絵文字とともに、すぐに返信が来た。
「にしてもなんでカルボン酸なの?」
「ああ、狩本って書くから。あんま垢バレしたくなくて、名前遊んでるのよ…」志織ちゃんはサバサバして、真面目そうなイメージしかなかったから、おらはこんなことをするのは意外だと思った。
「あきひこさん明日バイトあるー?」おらはバイトのシフトを確認した。
「明日はお休みだ。サークルあってさ」
「クソ!クソ!」こんな言葉も使う子なのかと、これもまた意外だった。
「バイト、あきひこさんと一緒にホールやりたいよ…」突然汚い言葉を使って、最初はびっくりした。でも、こんなことを言われちゃ、悪い印象になるわけはない。むしろ、お世辞だとわかっていても、そう言って貰えて嬉しかった。
「志織ちゃんならすぐ仕事できるさ!」
「できません…平日なのはわかるけど、2階、私1人なんだよ!?」そう言うと、怒ったウサギのスタンプを送って来た。
「うわぁ、ブラックだぁ」
「1人は嫌だよ、さみしいよ。。。」凛々しい姿の志織ちゃんが突然弱音を吐いたんで、おらはびっくりした。それと、愛おしさを感じた。
それから数日後、志織ちゃんと同じフロア担当になった。
「最近スタバでプリンアラモードフラペチーノってのが出てるんだよね、行きたい」
「スタバ?スタジアム、野球場みたいな感じ?」本当に知らない単語だったので、おらは率直に聞いてみた。
「あきひこさんおもしろい!」
「え?」俺は首を傾げると志織ちゃんはこの世のものじゃないもの見るかのような顔をした。
「スタバ!スターバックス知らないの!?めっちゃ有名なカフェだよ」
「おらの実家、畑しかなくてさ。カフェどころかレストランもコンビニもないよ」
「大草原じゃん。え、大学の友達とかと遊びに行ったりとかしないの?」
「大学1年目は進振りのために勉強に専念したんだ。遊びにはちっとも参加しないで、サークルの打ち上げもほどほどにしていたよ」
「うわー、真面目!」
「1年生の時は、受験の時のエネルギーを活かして、ガリガリと勉強できた。でも今じゃもう完全に怠けてしまっているよ」
「めっちゃわかるわー、あ!」そういうと、後ろから善次郎くんがやってきた。
「クライゼンさん、彰彦さんスタバ行ったことないんだってー」志織ちゃんはニヤニヤした。
「正気か?札駅に腐るほどあるのに行ったことがないのはナゼか?そして、僕はクライゼンではない。くらいが苗字、ぜんじろうが名前だ」
「え?くらいぜんが苗字でじろうが名前じゃないの?」
「僕はアルドール縮合の発明家じゃない」おらは有機化学の講義で学んでいて知っていたのでクスッと笑った。
「クライゼンのほうがカッコいいよ」
「だからその呼び方をやめろ」
「とにかくあきひこさん、スタバ絶対行ったほうがいいよ。そうだ、今度行こうよ」
「この辺にあるの?」
「たくさんあるよ!札駅周辺めっちゃある。札駅の中だけでも3個くらいある」
「そんなにたくさん。行ってみたいな」おらはテレビとかで見るおしゃれなカフェを想像した。
「明後日バイト休みだったりする?」
「うん、休みだよ」
「決定!行こう!フラペチーノ〜」志織ちゃんは子供のように跳ねて喜んだ。
「ちなみに彰彦よ、フラペチーノというのは、砕いた氷とコーヒーと混ぜた飲み物。かき氷のスムージーのようなものだ」善次郎くんが教えてくれた
「そうなんだ、知らなかったよ」
こうして明後日おらと志織ちゃんはカフェに行くことになった。志織ちゃんとカフェか。カフェも楽しみだけど、仕事以外で志織ちゃんとお話しできるのが楽しみだった。しかし、おらはあることに気がついた。
志織ちゃんと2人きり!?!?
途端に、胸がドキドキした。こんなドジなたちだから、女の子とお付き合いしたこともなければ、デートをしたこともなかった。だから、女の子と、しかもこんなに可愛い志織ちゃんとカフェにいくのはとても緊張した。そして、あることが気になった。志織ちゃんは彼氏がいるのだろうか?もしいるなら2人で行くのは申し訳ないなと思った。おらは確認してみた。
「お疲れ!志織ちゃんって彼氏いる?もしいたら、カフェ2人で行くのは申し訳ないなーと思ってさ。他の人誘おうか?」おらはこうラインを打った。ラインを送ってから数時間ほどで返事が返って来た。
「こう見えて、私、実は彼氏おるんだよね…」その言葉が返って来て、思わず、は?っと呟いてしまった。いないと思い込んでいたからだ。今考えれば当然のことだった。こんなに優しくて、綺麗で、凛としていて。それでいてどこか可愛らしさがあって。そんな志織ちゃんに彼氏さんがいるのも実に自然だった。きっと、彼氏さんがいるからこそ、あの余裕のある振る舞いが生まれるのかもしれない。そんな自然の摂理になんで気づかなかったのだろうか。考えればわかったじゃないか。いないでほしい、そう心のどこかでは願ってたんだ。だからいないと思い込んでいたのだ。淡い願いっちゅうもんは、思い込みを生む。彼女からもう一つラインが来た。
「私コミュ障だけど、あきひこが良いなら私は大丈夫!」大丈夫なのか?おらは心配になった。二人きりで行けたらそりゃあ嬉しいけど、でも、おらはそれは彼氏さんに申し訳ないし、良くないと思った。おらは一晩寝て気持ちを入れ替えて、志織ちゃんにラインを送った。
「了解!いや、誰か誘おう」
「善次郎くん誘う?」
そう送ると、彼女から返信が返って来た。
「ありがとう!クライゼンさんいいね!あきひこはいい人や〜」
というわけで、おらたちは札幌駅で集合した。北口と言われたけど、駅があまりにも大きすぎて迷ってすこし遅れてしまった。
「お待たせ!」汗を垂らしながら、志織ちゃんと善次郎くんのもとについた。
「遅いよ、ばか!」志織ちゃんに笑顔で罵倒された
「3分遅刻ですね」善次郎くんがメガネに手をあて、銀の時計を見つめながら言った
「ごめんよ!」
「では、行きましょうか」
「うん」
「待って」志織ちゃんが、隣にきてハンカチを取り出した。するとやにわにおらの汗たっぷりのデコにそのハンカチをあてた。
「汗そのままだったら風邪ひいちゃう」志織ちゃんはハンカチでそっと汗を拭き取ってくれた。志織ちゃんの顔がすぐ近くに来て、僕は緊張してしまい、目を閉じてしまった。
「おっけ!」おでこと頰と、首のところまで拭き取ってくれた。
「ありがとう」すごい気遣いだと感心した。ただ、それは彼氏がいるからだと考えてしまっていた。そして、やっぱりすごい女の子には彼氏がいるんだ、と諦めを抱いた。
これは駅なのか、お店なのか、よくわからないビルの中を歩いていると、
「彰彦。あれを見てみろ。あれがスターバックスだ」善次郎くんが指をさした。指をさしたその先には、緑の看板のあるカフェが構えていた。おらたちは店の中に入った。静かなジャズの音楽と、オーク色のテーブルが落ち着いた雰囲気を演出していた。もっとも、人でごった返していて、特に下校中の女子高生とかワイワイしていて、落ち着きも何もなかった。おらたちは期間限定のプリンなんとかー、フラペチーノを注文した。何もかもが初めてでおらは工場見学をしている小学生のように店員さんの動きに注目した。ガーッと言う音が鳴ったかと思うと、そこからどろっとした黄色いものを透明なカップに注いだ。赤いゼリーを表面にコーティングした後、カップを置き、店員さんは生クリームを綺麗に盛り付けた。最後にさくらんぼを乗せ、
「お待たせしましたー、プリンアラモードフラペチーノでございます」そういって、広告の写真と全く同じような美味しそうなパフェをおらに渡してくれた。志織ちゃんも善次郎くんも受け取って、みんな席に座った。おらは早速ストローを開けたが、志織ちゃんはスマートフォンで写真を撮り始めた。
「開けたのは緑のストローではなく、インスタグラムのストーリーとはな」善次郎くんがぼそっとつぶやいた。
「クライゼンさんつまんない!」志織ちゃんは顔を膨らませた。
「みんなで写真撮ろう!フラペチーノみんな持ってー」志織ちゃんはそういうと、スマートフォンを器用に片手で持ち、おらたちに画面を見せた。画面にはおらたちが写っていて、カウントダウンが始まっていた。終わると、見事な写真が撮れていた。
「ありがとう!いただきましょう」
「いただきます」おらはストローをクリームの上から奥まで差し込み、吸い上げた。
「美味しい!」はじめての食感!味!こんなに美味しいアイスは初めてだ。
「んー!幸せ〜」志織ちゃんがほっぺに手を添えて言った。相当美味しかったんだろう。おらはそんな志織ちゃんの様子が可愛いと思った。
「しゃっこくて、暑い日にぴったりだね」
「はは。しゃっこいって何?」志織ちゃんはくしゃっと笑って聞いて来た。
「あぁ。そだね。方言だ。しゃっこいってのは、冷たいって意味なんだ」
「ちなみに、そだね、も方言だね。そうだねっていう意味の」
「善次郎くん詳しいね」
「常識さ」
「田舎もんみたい!って田舎もんか!へへぇ!」明るい声で、笑顔で、しかして盛大に罵倒された。でも嫌な気持ちにならなかった。楽しめるいじりだった。ただ、バカにしたいだけの嫌な奴は残念ながら一定数いる。高校までよりはかなり減ったけど、やっぱり大学の友達の何人かやアルバイト先の社員さんとかは、おらの醜い部分だけをみて、いじってくる。それは、尊重もクソもない。たとえそれがイジリだと主張されても、おらはそれをポジティブには受け取ることができなかった。でも、志織ちゃんは違った。彼女はおらの良いところを見つけてくれた。おらの意見を尊重してくれている。その上での、イジリだから、おらは不快どころかむしろ、あずましさを感じていた。
「あきひこってすごい北海道弁出るよね!バイトの時とかも」
「実家がバリバリの農家でね。周りの人みんな生粋の道産子で、訛ってるのさ」
「そうなんだ。私地元は神奈川だから何もないわ」
「神奈川なんだ!都会だね」
「そんなんでもないよ」
「いやいや、横浜市の人口は、約372万人、根室市は、約、2万7千人。彰彦の地元の約135倍は多いぞ」
「クライゼンくん物知りすぎじゃない?天才。いやそこまで行くと、もはやキモいわ!」
「ちなみに僕の地元の京都市は147万人だ」やっぱり大きな大学なだけあって、いろんなところから来る人が多い。最近、全学生の北海道出身者の割合が半分を下回ったっていう記事を見てびっくりしたのを覚えている。
「一度北海道来て見たかったんだよね。大自然あるし、札幌も程よく都会で住みやすい」
「横浜はなんでもありそうだけど、そうでもないの?」
「物とかお店、施設はやっぱ札幌より揃ってる。それこそ少し足を伸ばせば新宿とか、上野いけるし。でも、なにせ狭くて、住み心地は悪いんだよね」志織ちゃんは肩を落とした。
「そうなんだ。あ、そういえば志織ちゃんって何学部なの?確かおらたちと同じ二年生だよね?」
「薬学部ですね。お薬作ってみんな地獄に送ってやろうと思って!」志織ちゃんはニッコリ笑った
「今すぐに退学したほうが良いのでは?」
「ヒィ!怖い!まずクライゼンくんにお薬飲ませるね!」
「大学辞めてしまえ」善次郎くんはドスの入った声で言った。おらはそれでプロフィールが、薬はいいぞ〜、だったのか、と思った。それにしても変だと思った。フラペチーノを飲み終えて、駅の出口までやって来た。
「今日はありがとう!」おらはぺこりとお辞儀した。
「楽しかった!こちらこそありがとう!今度キラルさんも入れて飲みに行こ!」
「飲み会!行きたいなぁ。でもキラルちゃんか…」
「大丈夫だよ!」
「え?」志織ちゃんはおらの耳元に顔を寄せた。
「キラルさん、前に彰彦さんのこと、根は優しいやつって褒めてたよ」志織ちゃんは静かに囁き、顔を離してニッコリ笑った。
「ほんとに!」おらはびっくりした。まさか、キラルちゃんにプラスの印象を持ってもらえてるなんて思っていなかった。もしかしたらこれは志織ちゃんのキラルちゃんを誘うためにおらを欺こうと作られた嘘かもしれない。けれど、仮にもそれが嘘だとしても、おらは人が自分に好印象を持っていると言うことを知らせてもらえたから、嬉しかった。
「クライゼンさんも行くよね?」
「予定が空いてたらな」
「開けてください!」志織ちゃんは眉間にしわを寄せて善次郎くんをみた。
「今日はほんまにおおきに…あ。ありがとうございました。失礼します」
「京都弁!ウケる」善次郎くんが少し慌てていた。善次郎くんの恥ずかしそうなところを見るのは初めてだ。
「僕にだって方言はある。方言は個性だ」
「私も方言ほしい!おおきにだべ!」志織ちゃんの謎の方言におらはははっと笑った。
「そしたらまたね!」志織ちゃんと善次郎くんは帰って行った。
飲み会か、楽しみだな。そう思いながらお家に帰った。この日以来、志織ちゃんはおらのことも善次郎くんのことも、呼び捨てで呼んでくれるようになった。その方が、親しみが持てて、嬉しかった。
大学の怒涛の中間テストラッシュを終えた、7月頭のころだ。バイト終わりに、みんなで飲みに行くことになった。
「ったく。なんだこの謎メンは〜」
「ほんとね、もう私たちだけで行こうか!」
「ナゼそうなるのか」
「クライゼンも今日もキレッキレ」
「まったく」
「にしてもこの白い石、わかりやすくていいね。」志織ちゃんは、真ん中に穴の空いた、すべすべした白い石に座りこんだ。おらたちは駅の出口のすぐ近くにある大きな白い石の置物のまえで待ち合わせしていた。
「その白い石、みょうむ、って言うんですヨ」
「なんじゃその意味わかんねー名前は」
「今日はどこに行くの?」
「ここ行くよ!お酒の種類めっちゃあるし、お刺身美味しいよ!」志織ちゃんはスマートフォンの地図の画面を見せて来た。
「あー、ここあたしも行ったことあるわ!だし巻き卵さ頼んだら、カニ乗っけてくれて、バーナーで炙ってくれるやつ」
「すごく美味しそうだね」考えるだけでよだれが垂れそうだった。こうしておらたちはそのお店に行った。トランプのキングに似た絵が飾られている交差点におらたちはやってきた。おらたちは交差点の一角にある建物の中に入った。狭っ苦しいエレベーターが開かれると、目の前には大きな店が広がっていた。
「いらっしゃいませ〜」
「えー、4名で予約していた、倉井です」
「倉井様!はーいお待ちしておりました!ご案内いたしまーす!」おらたちは真ん中の席に案内された。丸テーブルで、真っ赤な和傘がテーブルから生えていた。ザ、ジャパンっていう感じのお店だった。早速飲み物を選び始めた。たしかに飲み物の種類が多かった。でも、さすが北海道。夕張メロンサワーやハスカップサワー、北海道の地酒など、なまら北海道をアピールするメニューだった。
「どれにしようかな〜」
「ハスカップ、北海道でしか味わえないと思うからオススメだよ!」おらはよく親戚の集いの時に食べていたハスカップを思い出して、オススメしてみた。
「あー!ハスカップ知ってる!うめぇよな!」
「キラルちゃん知ってるの?」
「親戚が北海道に住んでるから、ちっちゃい時からよく遊びに来てたんだよねー」キラルちゃんは青森出身のだった。訛りなのか、イントネーションがすごく不自然だった。
「えー!いいな!私も北海道に親戚がいたら北海道来れたのにー」
「日本酒も種類が豊富だなぁ。よし、これにしよう」
「日本酒、すごいなぁ。善次郎くんはお酒強いの?」
「限度はわきまえてるさ。ゆっくり飲めば大丈夫に決まっている」
「おらも日本酒に」
「彰彦も?」
「お恥ずかしい話、小さい頃から、親戚が集まった時とか、村の人で集まった時とかに酒盛りすることよくあって。それでよく日本酒飲んでたんだ」
「おめぇ、未成年飲酒してんのか、悪いやっちゃなぁ〜」隣にいたキラルちゃんは指差してきた。おらは頭をぽりぽりと掻いた。店員さんをよんで、飲み物と、料理何品かを注文した。みんなで話していた通り、だし巻き卵も注文に入れた。
おらたちは飲みながら、色々話したが、バイトの話がメインだった。上司がどうとか、この人が実は彼女いるとか、っちゅう話をたくさんした。みんな酔いが回ってきたのか、だんだん饒舌になっていった。特に善次郎くんははるかに口数が多くなっていき、テンションも上がり気味だった。志織ちゃんは少し疲れている様子だった。いや、もしかしたらただよってふらふらしてるだけかもしれない。キラルちゃんはお酒に強いのか、まだ一杯も飲んでいないのではないかと思うくらいにいつも通りだった。キラルちゃんが好反応だったので、少し嬉しかった。今日、初めてまともに話せたかもしれない。時間は早いもので、飲み放題の時間は終わってしまった。
「よぉし!もう一軒いっくぞ〜」突然そう叫んだのは、善次郎くんだった。善次郎くんは10種類ほどある日本酒を全制覇しようとして、8杯くらい飲んでいた。
「オメェ今日は帰れ!帰って寝ろ!」
「なぁにいってんだぁ、ぼかぁまだぁいけるぞぉ!」
「クライゼンやば…」志織ちゃんが後ろでボソッと言った。
「頑張って駅まで歩こう」先に善次郎くんを家に送らないと大変なことになると思い、おらは善次郎くんの細い腕を、丸太のような腕でがっしり掴んで言った。
「楽しかったね〜」
「そうだなー、ってオメェもかよ志織!」志織ちゃんはぐだぁとキラルちゃんに寄っかかっていた。まだ、おとなしいだけたちがいい。善次郎くんは時々「大学院の授業費支援しろ!」とか「今に待ってろノーベル賞!」とか叫びだして、周りの人をびっくりさせていた。このあとどうですか?と声をかけてくれたお兄さん、お姉さんにも「世界一の科学者になる!」とか大声を張り上げ、驚かせていた。お兄さんお姉さん、ごめんなさい。
なんとかして駅までついた。キラルちゃんはおらたちとは違う大学で、桑園の近くに住んでいた。
「そしたら、お疲れい」
「えー、キラル帰っちゃうのー」志織ちゃんはすこしフラフラしながら言った。
「終電だからしゃーないっつーの。今日はありがとなー」キラルちゃんは志織ちゃんの頭をポンポンとした後、改札を抜けて行った。
「志織ちゃん、そしたら善次郎くんをおらは送ってくよ」
「私も送る!」
「ありがとう!」善次郎くんの家は三人の中で1番駅から近かった。大きな道から一本逸れると閑静な団地が広がっていた。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、はっきり世界が変わった。
「よーしお前たち。おれんちに泊まっていけぇ!礼はいらんぞ」
「善次郎くん…」
「え!行きたい!私クライゼンの家行きたい!」みんな正常な判断を失っている。おらはあいかわらず善次郎くんをがっしりと掴んで誘導していた。信号待ちをしていたその時、突然、後ろからなにかが寄りかかってきた。おらはびくんと背筋を伸ばして、はっと後ろを見た。
「んー…」志織ちゃんが頭をおらの背中に擦り付けてきた。おらはものすごく心臓がばくばくした。突然志織ちゃんがおらの脇腹を摘んできた。
「ふふ。彰彦、やわからい。プニプニ」
「ちょ、くすぐったいからやめて!」
「ふふーん」夜風が涼しいのにもかかわらず、汗が吹き出てきた。いつも明るくて、優しくて、時には暴言を吐いて。そんな元気を象徴したような志織ちゃんにも、こんなに柔らかで、ゆったりとした一面があるのは知らなかった。いや、あって当然だよな。おらは自分で自分にそうツッコミを入れて、ふふっと笑った。おらたちは善次郎くんの家に上がらせてもらうことにした。善次郎くんのおうちはごく普通の1LDKで、比較的新しいお部屋だった。
「よーくきてくれた。歓迎するぞ。まぁ、飲めよ」
「善次郎くん。志織ちゃんが眠たそうだから、ベットに寝かせてあげてくれない?」
「もちろん!いいぞぉ〜」善次郎くんは長い缶をプシュっと開けながら言った。
「志織ちゃん、ベットに」
「ありがとう」ずっと寄りかかっていた志織ちゃんはおらからそっと離れて、ベッドにドタっと倒れ込んだ。かぜをひくと思い、おらは掛け布団をかけてやった。
「さあ、彰彦。語ろうじゃないか!」おらはstrongと書かれた缶をプシュっとあけ、飲み始めた。ベッドを背もたれにして、床に座りながら、おらは善次郎くんの夢の話を聞いていた。彼は研究者になって、理論化学とクラスター化学の融合をした研究をするとかなんとか言っていた。お酒を飲みながら、聞いていたが、だんだん意識がなくなっていった。
気がつくと、おらは座りながら寝てしまっていた。ベッドには志織が気持ちよさそうに寝ていた。床には死んだように床に横たわる善次郎くんがいた。缶のお酒は共に半分くらい残っていた。おらがトイレを済ますと、2人とも起き上がった。
「おはよう…ここは?」
「善次郎くんの家だよ」
「そうなんだ。いつのまに…」
「覚えてないの?」
「お店出たあたりから全然記憶ない」
「おはよう」
「善次郎くん、おはよう。昨日はだいぶ酔っ払ってたね」
「本当か?騒いでた?」
「うん。叫んでた」
「うわぁ、またやってしまった…本当に申し訳ない。送ってくれてありがとう」
「ううん。楽しかったよ」おらは笑顔で言った。おらと志織ちゃんは善次郎くんの家を後にした。善次郎くんの家を出てからはちょうど家が反対方向だったので、そこで志織ちゃんとはお別れした。ベッドの上で志織ちゃんと抱き合って寝ていたって、とんでもない状況だったな、と後になればなるほど思った。大きな恥ずかしさと、小さな幸せを感じてしまった。
おらはもっと志織ちゃんとお話ししたいと思った。一緒にいたいと思った。どうやったらもっと一緒にいることができるだろうか?そう考えた時、まず出て来た答えは、お付き合いするということだった。本当はそうしたかった。ただ、志織ちゃんには彼氏さんがいる。だから、別の方法を考え、数日後おらは志織ちゃんに、今度レストランに行こう、と誘ってみた。志織ちゃんは快諾してくれた。前は彼氏さんがいるから4人で飲みに行った。でも、今度は自分の気持ちを優先させてしまい、2人で行くことにした。おらが誘うと彼女はすぐにオッケーをくれた。
行った先は、志織ちゃんがオススメしてくれたお店だった。中島公園前で志織ちゃんと待ち合わせしていた。
「おまたせ!」ポニィテールに髪を束ね、毛先がまとまってカーブが付いていた。服が水色のブラウスで、いつも以上に大人っぽく見えた。
「ううん、おらもちょうど今来たとこさ」実は楽しみすぎて20分前から待っていた。
「そしたら行こうか!」おらたちはお店まで歩いて行った。志織ちゃんのヒールのカツカツと言う音が歩くたびに刻まれた。ガラス張りの大きな建物の前にやってきた。
「このお店一度来たかったんだー」
「有名なの?」
「野菜で有名!地元の野菜を使ってるんだって。北海道の野菜だから美味しいに違いない!」
「だね」おらたちはお店の中に入った。お店の中に入ると、植物園のように緑広がっていた。建物の中に白樺の木が何本も植えられていた。おらたちは木々の間にひっそりと佇むテーブルに案内された。テーブルももちろん木製だった。
「すごーい」志織ちゃんはスマホをもち、ぐるっと店内を見回した。
「なにしてなるの?」
「インスタのストーリー!あれ、彰彦やってないんだっけ?」
「インスタグラム、やり方わからないから使ってないんだよね」
「簡単だよ!あとで志織先生が教えてあげる!」
「お願いします先生」おらは、はははと笑った。おらたちは美味しそうなものを2.3品頼んだ。どれもこれも高かった。飲み物は志織ちゃんが富良野とついているから美味しいに違いない!とのことで、ふらのワインミュラートゥルガウ、というものを頼んだ。
「志織ちゃんワイン飲むの?」
「んー、飲もうと思えば飲めるって感じ」
「好きじゃないんかい!」
「飲みます飲みます!私、ワイン大好きです!」志織ちゃんはわたわたして、答えた。
料理を待っている間、志織ちゃんにインスタグラムの使い方を教わった。ストーリーの撮り方、アレンジの仕方、写真のアップの仕方、など、教わった。最後には志織ちゃんとアカウントを交換した。志織ちゃんのストーリーには、早速このお店を撮った動画が上がっていた。そこにはお店の名前と「マイナスイオンたっぷり〜^_^」っていうコメントがついて上がっていた。
「失礼致します。お待たせ致しました。ラム肉の串焼き ローズマリーの香り、と
テラ・マーテル、野菜のプラトー新得ラクレットのソース、と、ワインでございます。グラスはこちらお使いください」
「うわー!美味しそう!」志織ちゃんはすぐにスマホを取り出して料理の写真を撮った。おらも早速「いんすたばえ」をさせようと、写真を慎重に撮ってアップした。おらはそのあとワインをグラス2つに注いだ。
「めっちゃよく撮れてるじゃん。いいねしといた!あ、ワインありがとう!」
「ありがとう、じゃ、乾杯」
「かんぱーい」木々の合間には小さく水が流れていて、その水音が、落ち着いた雰囲気を倍増させていた。グラスに注いだ白ワインを口に注いだ。正直ワインなんてちっとも飲まないから、何がいいのかわからなかった。
「美味しい〜」
「わかるの?おらにはわからなかった」
「私もわかりません」
「なんでやねん!」
「富良野って根室に近いの?」
「全然離れてるよ!富良野は北海道の真ん中、根室は右端!」
「そうなんだ。そしたら車で2時間くらい?高速とか使ってぴゅーと」
「高速使っても5時間はかかるね」
「なにそれ!アホやん」
「それが北海道さ」
「根室、というか彰彦の家はどんな感じなの?」
「おらんちは農家でさ。じいちゃんが経営してる」
「おじいちゃん子なんだね。お父さん、お母さんは?」
「とうちゃんは出張の多い東京の会社に勤めてて、かぁちゃんは今は静内っちゅう町で先生やってる。だから、家にはじいちゃんとおらと、にいちゃんだけなのさ。で、農家はにいちゃんが継ぐことになったんだ」
「いろんなとこに飛んでいっててすごいね!私は実家にお父さんもお母さんもうちに居座ってるー」
「まぁ、お父さんお母さんちだからね。どんなお仕事やってるの?」
「お父さんが医者で、お母さんが作業療法士っていう、リハビリのお手伝いさんみたいなお仕事やってる」
「すごいなぁ!」
「たまたまですね。ちなみに私の名前の志の字、お母さんからもらったんだー」「そうなんだ、志って、すごくまっすぐな感じで、かっこいいと思う」
「いぇーい。そっかー、畑ってのもいいね。広々としてて、住みやすそう」
「周りは畑しかなくて、隣の家は5キロ離れてる」
「もうそれ隣じゃないやん」
「あ、街灯がないよ。だから夜は真っ暗なのさ」
「ど田舎やん。ははは。でもそしたら星が綺麗じゃない?」
「そうだね。ちょうど今の季節は天の川が見える」
「今度彰彦の実家でお泊まり会しよ!北海道来たら、建物が何もない、丘の上で寝っ転がりながら夏の星空を見るってやってみたい!」
「ありがとう、そんなに興味持ってくれて嬉しいよ。せっかく北海道に来たんだから、いろんなところ行ってみるといいと思う!」
「だよね!私スキーとかもやりたいなー。やったことなくて」
「神奈川は雪少ないもんね」
「そうそう。スキーやって。あと、雪まつり見て、って雪ばっかり!あと、函館山のロープウェイも!あと旭山動物園とか!」
「すごい沢山あるね。たのしんで」
「彰彦は参加確定です!冬休みと春休みで行こうね。お金貯めなきゃ〜」
「勝手に!」勝手に一緒に連れてこうとしてくれていて、嬉しかった。
「お金貯めなきゃ〜。行くとしたら函館は特急だよね。旭山動物園はレンタカーかな。いろんなとこ行って、綺麗な景色や面白いもの見てみたい!」やっぱ大志を持ってるのは名ばかりではないんだな、と思い、心の中でクスッと笑った。この大学を志した気持ちがよくわかった。小さなことに興味を持ち、願望を抱き、それを実現させる具体的な行動を考える。まさに志織ちゃんは輝かしい野心家だった。そんな志織ちゃんは、勉強もそつなくこなせているんだろうなぁと思って、聞いてみた。
「志織ちゃんはすごいなぁ。バイトたくさん入ってんのに、薬学部の難しい勉強もやってるんだもんな。大変でしょ?」
「大変です!明日もテストあるし…」おらの喉を通りかけたワインがつまり、おらはむせた
「ばか!もう大丈夫?」
「おらは大丈夫。え、明日のテストあるのに来てくれたの?ありがとう。テスト大丈夫なの?」
「私、天才なので!大丈夫です!」
おらは心のそこからおらなんかとご飯なんやて行ってて大丈夫なんだろうか?誘わないほうが良かったんでないか?と思った。でも、そう答えた時の彼女の元気溢れる笑顔が、おらの中のそういった不安をかき消してしまった。おらは安心してしまった。
「料理美味しい!」
「うん、ほんとだ。おら、このラム肉が特に好きだ」
「やっぱ北海道はラム肉だよねー。今度ジンギスカン食べたい。」
「いいね、行こう!」そのあと志織ちゃんの地元の話やサークルの話とかもした。とても楽しいひと時だった。
「ご馳走さま!そしたら帰ろうか!」志織ちゃんは手拭きで口を拭き、立ち上がった。おらもそれについていった。外が真っ暗になっていることが、店内から外をみてわかった。
外に出ておらたちは札幌駅まで戻っていった。ヒールのコツコツという音が、まるでタイムリミットを刻むカウントダウンのように聞こえた。歩くたびに、志織ちゃんと一緒にいられる時間が少なくなっていくのを感じた。おらは口を開いた
「今度、また一緒にご飯行こう!」
「もちろん!楽しみ!」志織ちゃんは笑顔で答えてくれた。笑顔がやはり素敵だった。おらは心の底からもっと、志織ちゃんと一緒にいたいと思った。彼氏さんから奪ってでも志織ちゃんとお付き合いしたいと思った。おらは自分に自信が出て来ていた。志織ちゃんは勉強よりも、他の友達よりも、そして彼氏さんよりも、おらを優先して今日こうやって会ってくれていた。だから、おらは志織ちゃんの中で一番の人になってんでないかと思った。そして、なんてったって、志織ちゃんは優しい。だから大丈夫だ、と思っていた。おらは勇気を振り絞って、声を出した。
「志織ちゃん、話があるんだ」おらは落ち着いて話した。その重さを感じたのか、
「うん」と言って志織ちゃんは真剣な表情でうなづいた。
「志織ちゃん、自分は志織ちゃんのことが好きです!彼氏さんいるのは知ってる。でも、伝えたかったんだ。」志織ちゃんは恥ずかしそうに、小さく微笑んだ。そして、
「ありがとう」と言ってくれた。
「もし、今の彼氏さんの方が好きならもうなにも言わない。大人しく引き下がる。でも、もし、こんな自分でよければ、付き合ってください!もっと、そばにいたい、もっと志織ちゃんのこと知りたい!」勢い余って、全てを言い尽くした。おらがそう言ってから、一志織ちゃんは、首を振った。何度も何度も、はっきりと、首を横に振った。
「ごめん。私は今の彼氏が好きだから、彰彦とは付き合えない」その拒絶という応答から、今までおらが志織ちゃんから感じたもの、志織ちゃんがおらに与えてきたもの全てが、「優しさ」だったんだ、と悟った。
バイト中のおらを軽蔑しないで、それどころかおらの良さを見つけて伝えてくれたこと、一緒にホールやりたいよとお世辞を言ってくれたこと、カフェを教えてくれたこと、汗を拭いてくれたこと、キラルちゃんの印象を教えてくれたこと、美味しいレストランを教えてくれたこと、今日テスト前日なのにご飯に一緒に行ってくれたこと、彼氏がいるにもかかわらず2人で行ってくれたこと。全部が志織ちゃんの優しさだったんだ。帰り道、おらは涙をボロボロと落とした。おらはバカだ。そして反省した。優しさを受け取ったが故に、バイトでの立ち回り方をうまくしようという気持ちが薄れてしまった、自分の価値を高く見積もってしまった、カフェを自分で調べずに済んだ、志織ちゃんの大事なハンカチを汗で汚してしまった、キラルちゃんの悪い印象という恐怖に立ち向かおうとしなかった、レストランを調べずに済んだ、彼女のテストのパフォーマンスを多分下げてしまった、下げてしまったことを悪いと思わなかった、彼氏さんへの配慮を欠いた。これは全部、受け取っちゃいけない優しさだった。おらは自分を成長させると言う当たり前のことを忘れていたんだ。ただ優しさに包まれて、おらは志織ちゃんに甘えていただけなんだ。
数日後、ジンギスカンに行こうと話していたが、相手が実験のレポートがあるから行けない、と言ったため中止になった。
ある日の志織ちゃんと一緒のホールになった。志織ちゃんはいつも通り気さくに話しかけてくれたのに、おらは気まずくて、距離を置いてしまった。バイトが終わり、夏の生ぬるい夜を一人で帰っていた時だった。
「彰彦!」後ろから志織ちゃんが追いかけて来た。
「志織ちゃん。おつかれ」おらはぺこっとお辞儀した。
「今からご飯行こうよ!前ジンギスカン行けなかったし」志織ちゃんは笑顔で聞いてくれた。おらは嬉しかった。だけどおらは、もう、決意していた。
「志織ちゃん、おら、今日はやめとくよ。二人で行くと、彼氏さんに申し訳ない。」志織ちゃんは不意をつかれたような顔をして、すぐに余裕のある微笑みを浮かべた。
「そっか。ありがとう。また、クライゼンとか誘っていこうか!」
「志織ちゃん」夜風が吹き、モワッとした空気を全部どっかへ持って言った。
「んー?」
「君はやっぱり優しい。かなわないよ。だから、おらが君に与えることができる優しさは一つだけ」おらは志織ちゃんの目をちゃんと見つめた。
「その優しさを受け取らないことだ。今まで、ごめ…いや。ありがとう!」俺は我慢していた涙をいよいよ落としながらも、最後は笑顔を絞り出した。
おらは徹底的に、ストイックに自分を追い込んだ。そのうち、数値的に厳密さが求められる分析化学という分野がストイックに生きるモチベーションと共鳴して、興味が湧いた。おらは分析化学の研究の道に進むため、同大学の大学院博士前期課程に進学した。卒業後、実験助手を経て、晴れて准教授に昇進することができた。今は研究もしながら教鞭もとっている。学生さんを持つ時、おらは気をつけていることがある。それは、学生さんに優しくするということ。甘やかすのとは違う。勉強の方針を見せる。板書をしっかりまとめる。そうすることでちゃんと勉強すればテストで点が取れるように努めた。あとは学生さんが頑張るかどうかだ。
優しさを十分なほど受け取ったんだ。今度はおらが、優しさを与える番なんだ。
完