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明日への一歩

 6月の終わり。今日もまた、梅雨の季節に相応しい雨音が、教室の窓を叩きつける。

 強烈な雨脚。されど、負けず劣らずの声が教室内を騒がしくしていた。中でも一際大きな声を出し、周囲の注目を集める一団があった。


「何してんねん! さっさ立たんかい!」


 茶色に染まった、肩に届かないほどの短髪で威勢の良い女生徒が、背まで伸びる黒髪で、気弱そうな女生徒を怒鳴りつける。今にも殴りかかりそうなほどに顔を近づけ、長髪の女生徒の手を乱暴に掴み取り立たせた。


「そ、その、すみません」


 今にも消え入りそうな声。窓を叩きつけている雨音によってかき消されるほどの声だ。


「ふん、お前はうちらの下僕やろうが。みんなに謝らんかい」

「すみませんでした、みなさん」


 その様子を、教室の窓側に座る男子生徒が眺めている。校内では知らない者はいないと言わせるほど知名度が高い、サッカー部のエース。その気性は温厚で、彼女たちのやり取りを見ていて胸が焼けるように痛くなった。


「……原田がこかしたんやないか」


 誰にも聞こえない小さな声で呟きを漏らす。

 原田は短髪の威勢の良い女生徒で、原田あさかと言う。最初から見ていた彼は、あさかが長髪で気弱そうな女生徒――苅田雪菜が転倒させたことを知っている。


「ん? なんか言うたか?」


「なんでもないわ。気にせんといて」


「ほんならええけど」


 前の席に座る前原アキに聞かれ、手を振った。

 どの道、自分には関係のない話。だから、介入するつもりはない。

 サッカー部のエース――木下栄志はそう思い、ふいと顔を逸らす。


 時刻は昼休み。じきに5限目が始まろうとしている時、それは起こった。


「そういや雪菜、うちらにまた金貸してや」


「……え? でも、前に貸した分まだ返してもろてへん」


「なんやねん、ええやろ。お前の良いところは無利子無利息で金貸してくれるとこやんか」


「……わかった」


 雪菜があさかの目を見ると、笑っていなかった。断れそうもないと判断し、承諾する。だが、そうだとしても、彼女の小遣いは1人で働く母親が稼いでいるもの。胸が締め付けられるように痛み出す。けれど、仕方ないと思うことにした。


「そんでええねん。ほな放課後、雪菜ん家行こか」


「え、それは困るんやけど」


「うちの頼みが聞かれへんの?」


 また、この目だ。

 逆らえない。

 逆らえば、どうなるかわからない。

 雪菜は小さく首を振ると、あさかは満足そうに笑った。

 その様子をちらちらと様子見していた栄志は、やはり吐き気がするような嫌気が刺す。あさかを睨み付け、彼女と目が合いそうになる寸前に目を逸らす。それを繰り返していた。


「俺、何やってんねん……」


 助けたい。でも、助けたら今度は自分が標的になる。そう確信が持てるが故に、助けられない。そうまでして助ける義理もない。


「ほなら、雪菜のお母さんへのお土産持ってかなあかんなぁ」


 あさかが嗤う。


「雪菜の髪、綺麗やんなぁ」


 自分の髪を弄くりながら、雪菜の黒髪を見た。

 もう、嫌な予感しかしない。


「今から散髪すんでぇ~!」


「え、ちょ、あさかそれはやりすぎちゃう?」


「そ、そうそう。いくらなんでもそれは」


 あさかとつるんでいる女生徒が2人、流石にそれは、と言い張ったが、彼女は物ともしなかった。


「は? 何言うてんの?」


 睨まれて、萎縮する2人。

 散髪すると宣言され、怯えた目であさかを見た後、救いを求めるように教室内を見回す雪菜。と、視線の先で目が合った。


「栄ちゃん……」


 涙が零れる。りちゃんの前で散髪なんか、絶対に嫌や。


「あっ」


 不意に栄志が目を逸らす。

 雪菜は涙を溜め、栄志を見続けたが、返事はなかった。


「どこ見てん。あんたは今から散髪や言うてるやろ」


「それだけは、お願い、やめて!」


「はぁ……そんなに大事なんか?」


 言いつつも、あさかはカバンからハサミを取り出す。なんてことのない、紙を切るための文房具。


「だ、大事やから、やめて」


「うるさいわ」


 問答無用。あさかは乱暴に雪菜の長髪を掴み、もう片方のハサミを持つ手を近づける。

 咄嗟に栄志の方を見た雪菜は、絶望に包まれた。彼は窓を見て、こちらの様子は知らないとばかりに背けていた。

 他に、教室を見回すも、関わりたくないと帰宅した生徒がほとんどで、残っている生徒の方が少ない。彼ら彼女ら全員が顔を逸らし、目を背ける。


「やめ、やめて。お願いやから、それだけは、お願い」


 必死に懇願する雪菜を見て、あさかは再度嗤った。

 チョキン、とハサミで髪を切る音が、急速に弱まった雨脚のおかげか、教室内の生徒に知らしめる。


「いや、いやや。やめてぇ……」


 ぼろぼろ涙を流す雪菜に、救いの手はない。

 全てが終わった後、雪菜の髪は肩までで乱雑に切り揃えられていた。


 栄志はサッカー部が休みだと知り、帰路につく。

 思い浮かぶのは、窓に映っていた雪菜があさかに髪を切られているシーン。


「はぁ」


 雨が降っていても、寒くはない。じめじめとした嫌な暑さが彼を襲う。


「ほんま、何やってんねん俺」


 でも、と心の中で言い訳する。

 あさかの両親はこの辺りでは有名な人で、逆らうことは出来ない。あさかに逆らい、もしそのことが両親の耳に入れば、雪菜の母親が危ぶまれる。だからこそ、彼女も反抗出来ないでいたし、クラスメイトは目を背けた。

 その日、栄志が寝る前に思い出したのは、救いを求める雪菜の目だった。


 次の日、栄志が目覚めると、近所で自殺した少女のニュースがテレビに映し出されていた。知らず、心臓の鼓動が早くなり、彼は食い入るように画面を見つめた。


「栄志、おはよう」


「か、母さん、おはよう」


 びくっと反応し、挨拶を返す。

 不審に思った母親は、朝食を食べながらテレビを見る栄志を横目に、爆弾を落とした。


「あんた、雪菜ちゃんが自殺したって知ってた?」


「嘘や!」


 すかさず反論し、力強く机を叩いて母親を見る。


「なんか、髪の毛めっちゃ切られとったらしいねんけどな。あんた知らへんか?」


 母親の問いかけに答えず、そんなはずない、と否定する。雪菜が自殺――考えられない。考えたくもない。小さい頃、いつも一緒に遊んでいた幼馴染みの彼女。

 必死に否定するも、頭の中ではテレビで流されていたニュースが流れた。場所は確かに、この付近だった。雪菜の可能性は十分あり得る。


「嘘や、そんなわけない。ありえへん! 雪が死んだとか嘘言うな!」


「ほんまやで。苅田さんにいじめられてるかもしれへんって相談も受けてたしな。できればえいくんの力も借りたいって言うてたわ。あんた、ほんまになんも知らんねんな?」


 咎めるように栄志を鋭い視線で刺す。


「し、知らんわそんなん!」


 椅子から立ち上がり、自室へ急いで戻った。部屋の中で、何度も同じ言葉を繰り返す。


「嘘や。嘘や嘘や嘘や! そんなん、ありえへん!」


 でも、もし本当だったら。

 急いで制服に着替え、通学鞄を片手に家を飛び出した。ここから中学校までは徒歩で10分ほど。

 栄志は、最初は歩いていたが、居ても立っても居られなくなり、早い段階で走り出していた。


「はぁ、はぁ……着いた」


 3分で学校に着き、校門に踏み入るのを躊躇う。ここに入れば、真実を知られると同時に、引けなくなるような、そんな感じがする。


「進め……踏み出さんかい」


 震える足を叱咤して、校内に侵入した。

 目指すべきはどこか――教員室だ。


「失礼します!」


 勢いよく扉を開け、乱れた呼吸を整えながら担任教師を探す。だが、どこにもいない。


「ん? ああ、栄志か。どうした?」


 聞きなれた声。栄志の所属するサッカー部顧問、高谷幸弘が栄志を見て、そうか、と納得する。

 必死な顔でここまで来たとなれば、彼は知っているのだろう。

 高谷は栄志に、気の毒そうな顔を向けた。彼と彼女は同じ小学校だったはず。だから、小学校では仲が良かったと判断できる。


「栄志、お前、早いな」


「へ? あ、はぁ」


 時計を見ると、まだ7時半。授業が始まるまで1時間近くもある。遅刻常習犯の彼がこれほど早く登校するなど、季節外れの雪が降りそうだ。

 平時であれば、高谷もそう言えただろう。


「先生、それで、雪は」


「やっぱり、それか」


 やっぱり。

 それを聞いて、栄志は現実なのだと思い知る。

 昨日、止めればよかった。

 散髪と称したいじめを止められたのは、自分しかいなかった。

 なのに、無視して、知らん顔をして。

 助けて、と。

 請われたのに。


「栄志……」


 頬を暖かい何かが伝う。

 栄志が呆然としている間に、近くまで来ていた高谷が栄志を優しく抱きしめた。

 ダムが決壊したかのように、栄志の涙がとめどなくあふれ出す。


「うっ、くぅ……先生、先生……俺、俺あかんやつや! あいつを助けれたんは俺だけやったのに! なんであの時、あの時無視してなかったらもしかしたら!」


「ああ、お前だけが悪いんやない。その場におった奴ら全員、共犯や」


「でも! 俺に、俺だけに助けてって!」


「それでも、気付かんかった担任の森野先生の責任でもあるやろ」


「そんなん言うても……!」


「そうやな。教師は、いじめを見てみぬ振りをする生きもんや。ごめんな」


 ひとしきり泣いた栄志は、唐突に恥ずかしさが込み上げ、高谷から離れる。


「その、ありがとう、先生」


「ええよ。なんかあったら、苅田みたいになる前に、俺んとこ来い」


「……うん」


 だが、帰ってこないものはある。

 とぼとぼと教室に行った栄志を見て、しばらくは動向に注意しておこう、と思う高谷だった。


 その日の授業は、よく覚えていない。

 何があったのか、何をしたのか。

 ただ一つ彼の印象に残っていたのは、平然と授業を受けていたあさかのこと。

 朝のニュースを知っているだろうに。

 まるで他人事のように。

 担任の森野一郎が、これからはいじめのないクラスにしていきましょう、と言ったことすら、耳に入っているかどうか怪しい。

 歯がゆい。

 無力な自分がどうしようもなく、憎い。

 あの時、何故助けなかったのか。

 そればかり繰り返される。

 無駄な問答を繰り返し、家に着いた。


「もう、無理や」


 自分自身、何故ここまで雪菜のことを気にしているのか、わからない。

 ただ、それでも助けたかった。

 こんなことになるくらいなら。


「次は、ないんか」


 次があれば、失敗しない。

 次こそ、絶対に助ける。


「あるわけないか」


 から笑いして、赤く腫れた目元をゆっくりなぞった。


「ほんま、俺最低や……」


 栄志はそのまま、ベッドにもぐりこむ。

 しばらくして、部屋から寝息が聞こえてきた。


 朝、栄志は窓を叩きつける強烈な雨音に起こされる。


「ん……、なんや?」


 昨日は晴れていたし、目の端に入った天気予報では今日も晴れだった。なのに雨とは……。

しかし、天気予報も万能ではない。外れることも多く、それは誰もが知るところ。

 栄志はため息を吐き、昨日の出来事を反芻した。雪菜が自殺し、学校には現れず、姿を消した。その元凶も。


「にしても、まるで一昨日みたいやな……」


 カーテンを開けて確認してみると、梅雨に相応しい力強い雨が窓を叩きつけている。

 欠伸を一つして、栄志は階段を降りた。今日は一日遅くなってしまったが、雪菜の葬式があると聞いている。それの準備もしなければならず、とは言ってもそれは放課後でいいだろう。

 ただ、足りていないものがあれば、朝の内に母親に言っておかなければならない。念のため一つ一つ必要そうなものを確認していくと、特に問題はなさそうだった。

 リビングでは母親が洗い物を片付けている最中のようだ。


「栄志? 今日は早いんやな」


「そらそうやろ。だって、今日は……」


 言わずとも分かれ、と言わんばかりに睨み付ける。母親でありながら、息子の苦悩を理解出来ないのか、と。


「今日ってなんかあったか?」


 母親の問いかけにいらいらが募る。けれど、それを彼女にぶつけるのも違う。元はと言えば、自分自身がしっかりしていれば、起きることはなかったことだ。

 視線を逸らし、先の会話中に母親が用意してくれた食パンを齧り、おもむろにテレビをつける。

 流れるのは、中学生の自殺についてではない。たった1日流れただけで、もう別のニュースが流れる。こんなにも世間は薄情なものなのか。

 だが、それはわかっていたことだ。先生も、生徒も、親も――そして栄志も。誰もが見てみぬ振りをして、助けてやれなかった。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 釈然としないまま家を出て、学校に向かう。


 いつもと比べ、随分早く教室に入った。彼のクラスは3年5組で、クラス変えが毎年されるため、雪菜やあさかたちと同じクラスになったのも、今年が初めてだった。

 クラス内を見渡すと、既に何人か登校している。その中に雪菜やあさかたちの姿はない。


「お、今日は早いやんか」


「……ああ、お前か」


「なんやなんや? 私のこと忘れたんかいな」


「そんなわけないやろ。古河」


「やんなー。だってサッカー部唯一のマネージャーやしな」


 にしし、と笑う古河めぐみ。彼女は栄志の背中を力強く叩くと、手を振っていつものグループに混ざりにいく。彼女はサッカーが大好きなのだが、女子は試合に参加できないと知り、練習への参加及び試合でのマネージャーをしている。

 そのため、運動部に所属する女子生徒からの人気は高い。

 こんな日に限って元気すぎる。

 そう思いながらも、栄志は窓際の自分の席に座った。


「……世界が滅べばいいのに」


「珍しいやん。栄志がそないなこと言うん」


「……アキか」


 今来たばかりなのだろう。栄志同様、鞄から水が滴っている。これだけの大雨。いくら傘を差しても、防げないところは多くあった。


「俺じゃあかんのか?」


 自嘲して栄志を見る。

 その目は曇りがなく、昨日の雪菜のことを知ったアキとは対照的だ。

 彼は雪菜が自殺したと知るや否や、栄志に詰め寄っていた。なんで、幼馴染みのお前が助けてやれんかったんや、と。

 栄志は不思議に思いながらも、あきを軽くあしらう。

 時計の針はじきに8時10分を差す。あさかたちが来るのは栄志と同じく、いつもギリギリ。そして、この時間には雪菜が来ているらしい。

 けれど、来るはずがない。雪菜の座っていた席に視線を注ぎ、自然と涙が零れる。


「お前……ほんまにどうしたんや? なんで泣いてんの。なんかあったんちゃうんか? 俺ら親友やんか。話してぇや」


 ――なんで?

 それをお前が言うんか。

 雪菜に片思いしとったお前が。

 雪菜を見守り続けとったお前が。

 栄志は思わず、手を振りかざす。

 そんな時だった。教室のスライドドアが、音を立てて彼女の来訪を報せたのは。


「おっ」


 あきの様子が一変し、振りかざした手を静かに降ろした。彼は入ってきた人物を、惚れっ気のある目で見ている。

 栄志は、その目に見覚えがあった。忘れるはずもない、雪菜へ向ける恋情。

 ――まさか!

 いるわけがない。もう死んだ。それでも――望みを賭ける。

 恐々としながらも、栄志は入ってきた人物を見て大きく目を見開いた。

 椅子が倒れる音が教室に響く。雨音も騒々しいが、その場にいた全員の視線を集める。彼は手を伸ばし、少しずつ歩みを進めた。一歩、一歩、また一歩。しっかりと踏みしめて。

 その様子を雪菜以外の者が訝し気に見つめていた。


「ゆき……」


 傘を傘差しに置いたばかりの雪菜には聞こえない。まだ距離があり、彼女は長髪を指の先で弄びながら自分の席の横に立つ。

 椅子を引くなり、通学鞄から教科書、筆箱など今日の授業で使う予定のものを取り出していく。置き勉をしたいところではあるが、いじめられているため、置き勉をすればどのような惨事になることか、わかったものではない。

 雪菜が着席しようとした、その時。

 栄志の指先が雪菜の肩に触れる。


「……ほんもん」


 有り得ない。信じられない。それでも、実在している。――幽霊ではなかった。


「ゆきッ!」


 手を大きく広げ、彼女を抱きしめる。もう逃がさない。どうして生きているのかわからないけれど、生きているのなら、もう二度と同じ苦しみを味わせたりしない。


「え、えいちゃん?」


 突然の奇行に声が上ずる。

 雪菜はドキドキしつつ、栄志の背中に手を回す。大好きな人に抱きしめられて、理由はよくわからなくても、この一瞬が幸せだった。

 だが――スライドドアの開く音がまたしても響く。

 ハッとした雪菜は栄志を突き飛ばした。自分と関わり合いになると、栄志も巻き込んでしまう。栄志がいじめられる姿は、みたくない。


「ゆき……?」


「えいちゃん、やめて」


 はっきりとした拒絶。

 頭がくらりと揺れた。だけども、生きていてくれただけでも、僥倖ではないだろうか。話なら、これからいくらでも出来る。

 栄志は注目されながらも、誰からも糾弾されることはなく、アキから恨みがましい視線をもらうだけで、何事もなく着席した。

 教室に入ってきたのはあさかたちとは別のクラスメイト。

 教室内がやけに静まり返っていることに驚きながらも、クラスメイトはいつも通りに行動した。


 それから、残りの生徒たちが登校してきて授業が始まる。

 今日は金曜日であるから、1限目は数学だ。栄志は数学の教科書とノートを机の上に置き、HRが終わるのを待った。

 担任の森野が教室から出て行くと同時に、数学教師である宮本佐由里――ではなく歴史教師である神田康介が入ってきた。

 栄志は不思議に思いながらも、時間割表を確認する。1限目が歴史の日は月曜日と水曜日。なら何故歴史が最初に来るのか。

 いや、昨日のSHRで、数学と歴史が入れ替わることを話していたのかもしれない。彼はあまり聞いていなかったから、聞き逃していてもおかしくはなかった。

 数学と歴史の授業時間がテスト前で入れ替わることはよくある。中学校も3年目で、テスト前になると、テスト範囲が終わっていない教科があった場合、教師同士の取引が成立すれば、入れ替わることがある。もちろん、授業数は変えられないため、あくまで入れ替えるだけだ。

 彼は通学鞄から歴史の教科書を取り出そうとして――入っていないことに気付く。金曜日に歴史の授業はないからだ。


「篠宮、ごめんやけど、見せてもろてええ?」


「え? まぁええけど。栄志が忘れるって珍しいやん」


 隣の席に座る篠宮朱莉に聞くと、快く承諾してくれた。

 礼を言いつつ、自分の席を朱莉の席にぴったりくっつける。すると、朱莉が教科書を見やすいよう、真ん中に置いてくれた。


「サンキュ」


「どいたま」


「なんや木下―。教科書忘れたんかー?」


「はい、すみません」


「ええよ、ええよ。次から忘れんようにな」


「はい」


「そんなら、今日の授業始めよかー。日直―」


「起立――礼、着席」


 そうして1限目が始まり、50分の経過と共に終わりを告げた。


「ありがとう、篠宮」


「気にせんでええよ」


 栄志は机を離し、元の位置に戻す。


「お前が忘れもんって珍しいな」


「俺も忘れもんくらいするやろ」


「そうやな!」


 彼の予想通り、あきが絡みに来た。こういう時、必ずといっていいほど絡みに来るのがあきだ。

 それも、そう長くは続かない。あきの視線は時折雪菜に向いており、すぐに授業の始まりを告げるチャイムが雨音に負けず響かせた。

 2限目は、国語総合。……のはずだったのだが、家庭科の授業らしい。確かに、国語はいつもテスト範囲を早くに終えており、よく交換対象にされている。その交換相手が、いつも遅れ気味の家庭科なら理解できる。この二つの授業は1年生の頃から、よく入れ替わっていた。


「ごめん、篠宮。また見せてもろてええ?」


「えっ、また? どないしたんよ」


 そう言いつつも、朱莉は手招きする。

栄志は机を引っ付けると、また先ほどと同様に先生から、生徒から揶揄われ、いつも通りに授業が始まった。


「あ、チャイムなったか~。もうちょっといきたかったけど、しゃーないな」


 教師が教科書を閉じると、日直が終わりの挨拶をした。


 そして、3限目。

 栄志は流石に、おかしいと感じる。

 3限目は本来であれば体育であり、間違っても音楽などではない。それに音楽は水曜日にしかなく、授業の入れ替わりもこれまで一度もなかった。

 一度もなかったからと言って、これから先も一度もないかと言えば、断定できないが、授業が遅れているという話は聞いたことが無い。


「栄志? どうしたん?」


「なぁ、あき」


「なんや?」


「今日って、何曜やったっけ」


「何言うてんねんお前。今日は水曜やろ」


「……やんな」


「うん、てか、お前また忘れたんか? ……ああ、そうか、曜日間違えたってことやな」


「そういうことやな」


「まぁ、今日一日頑張れよ」


「……そうやな」


 あきは先に音楽室へ向かう。

 それを見届ける栄志は、愕然としていた。いや、薄々感づいてはいた。ただ、認めたくなかっただけで。

 何より、非常識でもある。

 ――時間がまき戻った。

 理解してみれば、今日の出来事全てに説明がつく。だが、そのようなことを言っても、誰も信じはしないだろう。


「俗にいう、タイムリープってやつか」


 辛うじてかすれた声が漏れる。


「あれ、えいちゃん。まだ行ってなかったん?」


 先ほどまであさかたちにいじめられていた雪菜が、努めて明るく振る舞う。まるで先ほどのことがなかったかのように。

 しかし、それは現実なのだろう。登校した時の髪の艶は失われ、今では少々乱れている。櫛で梳いていたのだが、時間が迫って来たので中断し、今から音楽室へ向かう。


「ゆき……」


 栄志は教室内に誰もいないことを確認し、雪菜の手を引いた。

 今日をこのまま過ごせば、また同じ未来が待っているかもしれない。そうならないよう、今から学校を抜け出してしまえば。


「いっ……えいちゃん! どうしたん!?」


 いつの間にか強く握っていたらしい。

 雪菜が心配そうに栄志を覗き込み、ようやく正気を取り戻す。


「いや、その、ごめん」


「ええよ。それで、どうしたんよ」


「それは……」


 これから起こることを説明していいのだろうか。

 きっと、絶望に包まれる。

 けれど、説明しないとてこでも動くことはなさそうだ。


「実はな、ゆき。よぉ聞いてや。……放課後、ゆきは、あいつらに髪の毛切られてまう。だから、今の内に逃げるんや」


 説明していて、荒唐無稽な話だと思った。いくらいじめっ子でも、そこまではしないだろう、と。しかし、それをやるのが原田あさかである。


「えいちゃん、流石にそこまでしやんと思うよ。なんやかんやで、あの人らも私のこと考えてくれてるし」


「は……? お前はそれでええんか? いじめられたままで、ほんまにええんか!?」


「それは……嫌に決まってる。でも、それしかないねん。お母さんを守るためやから、しゃーないやん。お母さんを守れるなら、私はどんなことでも耐えて見せる」


 雪菜が今にも泣きそうな顔で言うと、栄志は苦い顔をした。

そんで、耐えきれんと自殺するんやろ。

 喉まで出かかった言葉を飲み込み、雪菜を見つめる。もしかして、何か弱みを握られているのかもしれない。だから、今は耐えている。

 そう考えると、何故か腑に落ちた。だけど、あさかたちは生粋のいじめっ子であり、そのような裏が本当にあるかどうか、わからない。

 その何かを突き止めて、いじめを止めるのが彼の役目だ。

 栄志は雪菜を送り出し、あさかの机の中を覗き込む。

 中にあるものを全て取り出しても、怪しい物が出てくることはなく、渋々音楽室へ向かった。


 結局、あさかたちの持ち物からは何も出ず、あまりにも彼女たちを警戒し過ぎていたためか、栄志があさかたち3人の内、誰かのことが好きなのでは? という噂が出回る結果となってしまった。

 そんなつもりはなかったのだが、周りから見ていた者からすればそうとしか捉えられない。それほどに、熱烈な視線を向ける。

 そんな無為な時間が過ぎ、運命の放課後。

 栄志の記憶にあるものとは若干違いはあるものの、帰宅した者や部活に行った者、教室に残る者は全て同じ生徒だ。

 雨脚は授業時間よりもひどくなっているようで、窓を叩きつける雨音が教室に残った生徒たちの声を時折かき消す。

 そして、轟音。

 雷の音が聞こえ、一瞬、生徒たちはビクリと肩を震わせた。それも僅かな時間で、すぐに話題が雷にすり替わる。窓を見つめる者が増え、窓の向こうが光れば轟音までの時間を計ったり、実に様々である。

 栄志の記憶に雷はなかったが、今回はあった。ちょっとした変化ではあるが、過去を変えることは可能なのだと、今初めて確信を持った。


「なぁ雪菜。うちら金なくなってさぁ。また貸してくれへん?」


 ――来た!

 言い回しは違えど、流れは同じ。

 栄志は窓の外を見続けながらも、あさかと雪菜の会話に耳を傾ける。


「え? でも、前貸したやつ返してもろてへんで?」


「そうやっけ? 気にせんでもちゃんと返すから。あんたのええとこは無利子無利息のところやんか」


 雪菜はしばらく考えた後、断った方が被害が大きくなると考えたのか、やはり承諾してしまった。


「そんでええねん。ほな放課後、雪菜ん家行こか」


「え、それは困るんやけど……?」


「なんや、友達を家に入れてくれへんの?」


 雪菜があさかの目を見ると、蔑みの色があり、断っても勝手についてくるだろうということがわかる。だが、金に続いて家となると、流石の雪菜も胸が痛み出す。母親はたった1人で彼女のことを育ててくれており、小遣いも彼女の母親が一所懸命稼いだもの。

 罪悪感で胸が締め付けられる。――ただ、それは雪菜だけではなかった。会話を聞いていた栄志もまた、罪悪感と焦燥感に駆られる。

 しかし、ここで栄志が入るわけにはいかない。まだ、耐えねばならない。割り込むのはもう少し後に起こる、散髪の時だ。


「……わかった」


「そんでええねん」


 雪菜が渋々了承すると、あさかは満足そうに笑った。その笑顔は、このタイミングでのみ見た者がいれば、一瞬で恋に落ちる破壊力を持つ。

 しかし、この場にいる生徒の目からすれば、悪魔の微笑みにしか見えない。


「んー、ほんならさ、雪菜のお母さんにお土産がいんなぁ」


 栄志の心臓が雨音に負けないほど脈動し、心の内を騒がせる。


「そうや! 雪菜の髪って綺麗やんなぁ」


 ひゅっと雪菜の喉が鳴った。


「今から散髪すんでぇ。心配せんでも、うち、弟の散髪したことあるから安心してぇな」


「い、嫌や。それだけは嫌や!」


「なんでぇ? うちらの土産はいるやろ?」


「だからって……そんなん……」


「はぁ、うちの頼みは聞いてくれへんの?」


 あさかが雪菜の髪を乱雑に掴む。


「あさか、流石にそれは……」


 すかさず、あさかの取り巻き2人の内1人が間に割り込んだ。だが、それをものともせずに、彼女すら威圧して見せる。


「何? あんたも散髪したいわけ?」


「っ、そんなつもりはあらへんけど……」


「じゃあ、黙っといて。てか、あんたも手伝うんやで」


 あさかが髪を手放し、どんと彼女のところへ押しやった。


「ちゃんと抑えといてや」


「あ、う、うん」


 全員の視線があさかに集まるが、誰もそこに割り込まない。彼女に逆らえば、親の威光がこちらにまで届くかもしれない。助けたくても、助けられなかった。

 通学鞄から文房具のハサミを取り出し、雪菜に見せびらかす。


「ほら、今から切るで」


 わざとらしく、目の前で切る素振りを見せた。


「嫌……ほんまに、お願いやから……」


 誰か――助けて。

 願っても、届かない。誰も動きはしない。

 当たり前だ。雪菜を庇って、自分に矛先が向くのだけは避けなければ、彼女と同じ目に合う。それだけは絶対に嫌だった。

 教室を見回す雪菜の視線が行きついたのは、栄志。

 栄志は真っ直ぐに雪菜を見つめ、震える拳と体を叱咤する。

 今動かなくて、いつ動くんだ、と。


「おい」


 勇気を振り絞り、掠れそうになる声に鞭を振るった。


「おい! 自分らええ加減にせえ!」


 瞬間、教室内に居た全員の視線が、栄志に突き刺さる。だが、そのような視線を受けてなお、言葉を続けた。


「前から思ってたんやけどな、お前らマジでええ加減にせえよ。ゆきにそれ以上なんかするんやったら、俺が受けたる」


 そう言った手前、もう引き返すことは出来ない。足の震えはとうに止まっている。後は、覚悟するだけである。

 けれど、その覚悟さえも、済んでいた。

 雪菜さえ助けられるなら、誰に何と言われようと、何をされようとも耐えて見せる。


「はぁ? 何言ってんかわかんないんですけどぉ~」


 あさかは手に持っていたハサミの持ち手に指を入れ、くるくると回転させながら、栄志を睨み付けた。


「学校で散髪とか何言うとん。自分、頭おかしいんちゃうか」


「あんた、マジで鬱陶しいな。その髪全剃りすんぞ」


「やってみろや」


「言うたな? 動いたあかんで」


 売り言葉に買い言葉。栄志はそれを了承せず、素早くあさかの元へ移動する。


「自分から来るって、どんだけ散髪したいのん!」


 下品に笑うあさかから、ハサミを奪い取る栄志。無言のまま、彼は利き手である右手でハサミを持った。


「なんやねん」


 あさかの目から光が消え、半目で栄志を睨む。

 取り巻き2人、雪菜を筆頭に、教室内に残っている生徒の面々が栄志を懐疑的な目で見た。これから何をするというのか、見当もつかない。


「散髪すんのは、自分や」


「はぁ? 何言うて……」


 あさかの髪を一房、乱暴に掴んだ栄志はそこへハサミを滑らせた。ここに来て、これから何をしようとしているのか、周囲も理解する。同時に、心の中で「それはやめとけ!」と絶叫していた。だが、口に出す者は誰一人としておらず、期待と絶望の目で彼を見る。

 期待は、これまで自由気ままだったあさかに対しての罰として。

 絶望は、明日起こるであろう栄志の未来に対しての哀れみと悲しみ。

 ただ1人、雪菜は違った。


「えいちゃん……!」


 それだけはあかん!

 心の中で叫び、雪菜は飛びついた。拍子に栄志がバランスを崩し、雪菜と共に机と椅子を巻き込んで倒れる。

 雨音よりも大きな音を立てて倒れた栄志は、苦しそうに脇腹を抑えながら、ハサミを放り投げて雪菜を抱えた。


「ゆき! 何してんの!」


「だって、えいちゃん、それだけはあかんて。私は大丈夫やから、だから」


「でも、ゆきはこのままいっとったら……!」


 そう言って、栄志は口を噤む。ここから先は、言えない。言っても信じないかもしれないし、言えば雪菜は自殺しないかもしれない。それでも、雪菜にだけは言ってはいけない気がした。


「えいちゃん、ほんまに、大丈夫やから」


 目尻に涙を溜め、栄志を見つめる。

 嬉しかった。

 もう、死んでもいいと思えるほどに。

 まだ栄志と雪菜がよく遊んでいた頃――、栄志に「大好きや」と言われた自慢の髪を、守ろうとしてくれた。

 涙がとめどなく溢れてくる。

 抑えきれない感情が、ダムの決壊を以て。


「えいちゃん、ありがとう」


 それは、中学に入ってから聞かなくなった言葉。

 中学に入って、雪菜と関わると男友達が出来ないかもしれない。そう思って遠ざけていたために、名前を呼ばれることはあっても、無視し続け、関係は拗れ、最後に感謝の言葉を聞いたのはいつだったか――、あれはそう、小学校6年の冬休み。

 雪菜に誕生日プレゼントを渡した、あの時が最後だった。

 その時と変わらない声音で、もう死んでもいいくらい嬉しいと言われた顔で。


「ゆき、俺、ごめん。今までごめん。俺、間違っとった」


 君を守りたい。

 この小さな手で何が出来るのか、わからないけれど。

 いつの日も、一緒に――。

 栄志が次の言葉を言おうとした、その刹那。


「はぁ~! ほんっま最低やなあんた。マジで最悪。あんたら何ラブコメってんの? ふざけんなよ。うちの髪こんなんしといてさぁ」


 あさかが場を支配する。

 栄志と雪案が硬直し、恐々としながらも、振り返った。

 あさかは気丈に振る舞い、心底から怒りを噴き出す。


「おかんとおとんに言うたるからな。覚悟しいや」


 栄志の左手を指差して告げた。彼は左手で何かを握っていることに気付いた。

 雪菜の腰に回していた左手に握られた、一房の髪。あさかを見ると、あからさまに見下している。


「これは……違うんや。ほんまは切るつもりなんなかった!」


「は、今更何? 切る気ぃ満々やったやん。嘘ついたらあかんって教わらんかったん?」


 二の句を次げない。

 言葉が出ず、ただ黙って俯いた。


「ほら、嘘やん。あんただけは絶対許さんからな」


 怒りを露にし、栄志と雪菜を冷めた目で見る。

 切ろうとしていたのに切られた。そのことが無性に腹が立つ。本来であれば、気持ちよく綺麗な黒髪を切り落とせていたのに。

 邪魔をされたからには、報復が必要だ。


「立ちぃや」


 周囲は静まり返り、そそくさと帰宅する者が出始める。あさかは気にせず、栄志に告げた。


「立てぇ言うとるやろ!」


 違う、違う、と呟きながらも立ち上がる。

 雪菜の不安に満ちる濡れた瞳が印象的で、彼は自らを鼓舞した。


「俺がやらんかったら、自分がゆきの髪切っとったやろ」


「そらな。でもうちはええねん」


「自分がようて俺があかん意味がわからん」


「そんなん決まっとるやろ。うちが絶対やからや」


 理由になっていない。

 その場に居た、栄志と雪菜が同時に思う。

 教室内に他の生徒の姿はなく、取り巻き2人ですら教室を出ており、既に3人だけの空間となっていた。

 机は横に倒れ、置き勉していたのだろう教科書やノートが散乱し、椅子が後ろの席を巻き込んで更なる被害を出している。雪菜は栄志の足元に縋るように引っ付き、学ランの裾を離さない。


「あんた、絶対許さんからな」


 乾いた音が、雨音にかき消される。

 頬を叩いたあさかの手は赤く染まり、じんじんしていた。

 髪を切られるのは、不良生徒であっても、中学生であるということを鑑みれば、泣きたくなるだろう。

 目の端に若干の涙が浮かんでいるのを見て、栄志は驚いた。

 ……こんなんでも、泣くんやな。

 叩かれたところは、別段痛くない。所詮は女子の平手打ちであり、部活動において1,2年の時に上級生にされた平手打ちや、蹴り、殴り等の方が数倍痛い。

 自身の通学鞄を持ち、足早に教室を出て行く。

 そんなあさかを、栄志と雪菜が見送った。



「ゆき、ごめんな。巻き込んで」


 教室の片づけの最中、栄志が手を止める。

 幸いと言っていいのか、教師は誰一人として来ず、栄志と雪菜の2人で散乱した教科書やノートを戻し、机と椅子の位置を元通りにしていた。


「ええんよ。私、嬉しかった」


「……そうか」


「うん」


 雪菜の嬉しそうな顔を見て、栄志は満足する。この笑顔を守れただけでも、あいつの髪を切った甲斐はあった。

 ただ、明日が心配ではあったが。


「えいちゃん、そろそろ帰ろ」


「そうやな。こんなもんでええか」


 あらかた片付け終えて、2人は教室を後にする。

帰路につき、久し振りの会話に花を咲かせる2人。

 その幸せは、長くは続かない。


 翌日、天気予報では晴れだったが、昨日と同じく大雨だった。違いがあるとすれば、今回はタイムリープしていないところだろうか。

栄志と雪菜は2人で登下校し、それぞれの家に帰る。

 玄関を開けた2人の前に居たのは母親。だが、その表情はいつになく厳しく、2人を怯えさせるには十分なものだった。


「母さん、どうしたん」


「どうしたんちゃうやろ! あんたがあの家に手ぇ出したからあかんねん! もう終わりや、なんもかんも終わりや! あんたさえおらんかったら、あんたがあの家に手ぇ出さんかったらよかったんや!」


 そう言われ、ハッと顔を上げる。

 今日はあさかが登校していなかった。あの歪な髪型を、不特定多数に見られることを嫌ったのだろう。だが、帽子をかぶるなりして登下校だけでも隠すことは出来た。けれども、そうせず、学校に来ることはなかった。

 その間、彼女は何をしていたのか、2人は知り得ない。それでも、想像することは容易い。例え想像したものが違っても、これまで彼女を見てきた2人が捉えた人物像からして、ほぼ間違いなくそうであると確信をもって言える。


「あいつ……まさか」


 違う場所、ほぼ同時刻。2人は同じ出来事に直面し、同じ結論に達した。


「家に手ぇ出したんか……!」


 2人は同じマンションに住む、幼馴染みである。

 そしてこのマンションは、あさかの父親が経営する物の内1つに入っていた。

 ――それだけではない。

 2人は同じ境遇の母を持つからこそ、お互いの家がより親密になったと言える。言ってみれば、親もまた友達で、子は想い人同士。子が小さい頃に夫を亡くし、女手一つで育ててきた愛しい1人息子と1人娘。

 2人が結ばれることは祝福されるだろう。

 本来であれば。

 2人の母親は、同じ職場に勤めている。

 栄志と雪菜の出身小学校の給食を作る仕事だ。そこには、あさかの母親も務めており、何かあれば、母を通してすぐに伝わる。

 そう、今回の出来事も、給食作りの場で大々的に広められた。

 栄志と雪菜が加害者で、あさかが被害者という図式にて。

 それは間違いではない。だが、目撃していた者が1人でもいればこう言っていただろう。


「それは違う」


 しかし、知る者は誰一人としておらず、一方的にママ友から陥れられるだけ。弁解出来る息子と娘もいない。当事者のいないところで、嘘と真実の入り乱れた言葉が羅列されていた。


「もう、疲れたわ。あんたのためにこんだけ頑張ってるのに、あんたは他所の子を傷つけて」


「ちゃう! あいつが悪いんや!」


 一生懸命働いて、贅沢はさせられなくても、幸せになれるよう努力して。

 自分の身は削れてもいい。でも、子どもだけは立派に育てたい。誰が相手でも胸を張れる立派な子に。その子のお母さんであることを誇れるように。天国にいる夫に自慢できる子に。

 ――なのに。

 ――――それなのに。

 これは、裏切り。

 子どもの放つ一言が、胸に突き刺さる。一つ一つが、まるで鋭利な刃物。

 必死に弁解しても、その声は届かない。


「出て行って」


 その声は冷徹で、心の奥底が震える。初めての――拒絶。


「出て行って!」


 大事に、大事に育ててきた我が子が、実際はこう育っていたなどと、誰に言えようか。

 立派な子ども? 誇れる子ども? 夫に自慢できる子?

 ――寝言は寝て言え。

 栄志と雪菜が一歩、後ずさった。目に涙が浮かんでいるのが、自分でもわかる。

 俺は――私は悪くないのに。

 どうしてこれほどにも拒絶されなければならないのか。

 悪いことをしたのは、いじめの主犯は、彼女だと言うのに。

 何もわかっていない。聞く素振りすら見せない。もう声すら聴きたくないと、声を張り上げる母親。2人の瞳に映る母の姿は、彼らの知る母ではなかった。

 家を飛び出した栄志は階段を駆け下り、マンションの中庭のベンチに腰掛ける。

 家を飛び出した雪菜は廊下を駆け抜け、マンションの中庭のベンチに腰掛ける。

 間に挟むのは噴水。だと言うのに、綺麗な水音が鳴ることはない。辺りには豪雨が降っており、鞭のように地面を叩きつける。その様は4人の心情を表していた。

 全身が濡れ、肌に張り付く髪をかき分けて視界を確保する。見えるのは、触れるのは、冷たい雨粒と湿気の多い空気。

 2棟あるマンションが向かい合った、その間にある中庭。その中心である噴水を挟んでベンチに座る2人が、同時に立ち上がる。


「母さん……」


 あれだけ言われても、信じたい。生みの親――たった1人の家族なのだから、信じなくてどうする。

 けれど、もう一度拒絶でもされようものなら、とてもではないが、耐えられない。今度こそ、2人のガラスで出来た心は粉砕してしまう。

 欠片一つ一つが煌めき、光を屈折させて美しい光景を映し出すガラス。

 感情が崩壊し、欠片と共に失われていく。

 そうならないように、どうすればいいのか。

 考えて、考えて、考えて。

 答えは、出ない。

 ただ一つだけ言えるのは、見捨てられたということ。

 親子であっても、関係が崩れると、修復することは難しい。

 ならば――リセットすればいい。

 栄志の出した結論は、ただ一つ。


「もっかい、俺にチャンスくれ」


 拳を強く握りしめ、もう一度、あの奇跡を神に願う。

 しかし、そう都合よくリセットできようものなら、人は苦労しない。

 しばらく待っても変わらぬ光景。

 時間を巻き戻すことは出来ないのか。

 当たり前のことであるにも関わらず、願ってしまう。

 一度体験してしまうと、もう一度と願う――、人の性。

 刹那、雨が止んでいく。

 辺り一面が雨雲に包まれ、夜のように暗かった景色が色づき始める。

 黄昏の光が雲間から差し込み、水たまりを反射して、2人に直射した。一瞬目が眩んだが、すぐに空を見上げる。

 暗かった空は赤く染まり、雨雲は散って真っ白な雲が姿を見せた。真っ白ではあるが、それらは全て夕焼けに侵食され、幻想的だ。

 両サイドにあるマンションの上空、赤焼けの空に架かる虹の橋。


「綺麗や」


 呟き、顔を引き締める。

 雨は晴れた。

 涙も晴れた。

 曇っているのは、心のみ。

 けれど、そこには一筋の光が差し込んでいる。

 2人でなら。

 好きな人となら。

 雪菜と――栄志となら、出来ないことは無い。

 結果、見捨てられても、その人が信じてくれている限り、俺も――私も、自分を信じ続ける。

 決意を胸に、振り返った。

 自然と目が合う2人。

 その瞳には、意思が宿っている。


「ゆき」


「えいちゃん」


 互いの名を呼び、存在を確かめ合う。

 その時、噴水が勢いよく噴き出した。

 顔が隠れ、あまりにも絶妙なタイミングに、2人して笑う。心の底から。

 こうして笑いあったのも、随分と久し振りな気がする。

 栄志は右回りに、雪菜は左回りに噴水を移動し、対面した。目が赤く、先ほどまで泣いていたことがわかる。艶のあった黒髪は、雨水を滴らせていた。

 服は水を吸って重さを増し、下着まで濡れてしまっている。挙句には、靴の中も気持ち悪い。

 だけど、お互いの顔を見たことで、より一層、2人の心に晴れ間が広がった。


「まずは、お前ん家から行くか」


「ん、わかった」


 雪菜の家は1棟の一階の端にある、角の部屋。日当たりはよくないが、近所迷惑の被害には早々会わない場所。

 インターホンを鳴らすと、疲れた女性の声が出た。


「どちら様ですか?」


「栄志です」


「えいくん……? ほんまにえいくん?」


「はい、お久しぶりです」


「よぉ来たなぁ。でも、ごめんな。今雪菜おらへんねん。私が悪いんやけどな、なんか、何やってんねんやろな。こんなん……母親失格や」


 雪菜の母親の懺悔に、雪菜は胸を撫で下ろす。捨てられたわけではなかった。それがわかっただけでも、嬉しい。


「とりあえず、上がっていいですか?」


「そうやな。ええよ、上がって」


 確認を取ってから、扉を開ける。中ではどたばたしているような慌ただしい音が聞こえるが、無視して入った。

 もちろん、雪菜も一緒に。


「……雪菜!」


 雪菜を見るなり、母親が抱きつく。

 涙を浮かべながら抱きしめてくる母親に苦笑しつつも、雪菜の目尻にも涙が見て取れた。栄志は居心地悪く感じながらも、黙ってその様子を見届ける。この後、全て説明すればわかってくれるだろう。


「おばちゃん」


「ん、あぁ、えいくん、ごめんな。人前やのに泣いてもうて……」


「それは別にいいんやけど、そろそろ離したらな」


 抱きしめられている雪菜――否、抱きしめられているようには見えなかった。締め付けられるように、抱きしめられている。

 そこには、もう二度と突き放さないという母親の意思が感じ取れるのだが、受ける方からすれば、もう少し手加減してほしいところではあった。


「はぁっ、もう、お母さん苦しいやんか」


「ごめん雪菜。でも、許してくれへんか?」


「ぅ……ええよ」


「ありがとう」


 今度は優しく抱きしめて、背中をぽんぽんと叩く。

 そうしている内に、雪菜は涙が止まらなくなって、母親の胸の中でさめざめ泣き続けた。

 雪菜が泣き止んだ頃には、既に19時を回っていた。


「折角やから、晩御飯でも食べながら話そか」


「えいちゃん、それでいい?」


「別にええよ。俺んとこは自由やしな」


 そう言いつつも、早く戻って母親を安心させたい思いもある。

 この時間に帰っていないことはあまりない。雨の日では尚更。今では止んでいるとはいえ、先ほどまで降っていたのだから、どこかで事故に巻き込まれているかもしれないだとか、想像が膨らんでいる可能性もあった。

 もし、栄志が逆の立場だったら。

 不安で胸が張り裂けそうになり、家を飛び出して探しているだろうか。

 相手がもし雪菜であれば、間違いなくそうしている。

 そこまで考えが至った栄志は、だけど、晩御飯を食べて帰ることにした。ちょっとした悪戯心である。これだけ疑って、なじったのだから、この程度の仕返しは許される。彼は本気でそう思った。


「えいくん、出来たから運ぶの手伝って」


「あ、お母さん、私がやるから! えいちゃんは座って待ってて!」


「あー……手伝うで?」


「ええから!」


 強く言われ、おとなしく引き下がる。

 栄志が静かに頷くと、雪菜は満足げに笑った。

 食卓が揃い、3人が席につく。


「いただきます」


 口を揃えて言うと、雪菜の母親は2人が小学校の頃を思い出した。

 おままごとをしていた時も、こうして一緒に食べるときも、お互いに「あーん」をし合って微笑ましかった光景が浮かぶ。

 懐かしくて、つい昨日まで当たり前だったかのような光景だ。

 それがどうしてか、捻じれて、摺れて、こんがらがって。

 2人を見ていると、昔とは違うことを思い知らされる。

 雪菜が栄志におかずを「あーん」するわけでもなく、栄志が無造作に雪菜の茶碗から白米を奪うわけでもない。

 落ち着いた雰囲気で、今は雑談する時ではないからだろうが、会話がなく、もくもくと箸を進めている。

 成長を喜べばいいのか、2人がまた引き合わされたことに喜べばいいのか。


「実はな、お母さん」


 雪菜が箸を置き、真剣な眼差しを向けた。


「うん」


「私、原田さんにいじめられてんねん」


 自らの母に打ち明ける。

 それが出来るのは僅かな人数だけだろう、と栄志は思う。

 身内にいじめられている事実を打ち明けるのは勇気が必要で、また見放されたり、母から教師に伝わった時、学校全体に伝わる可能性もある。そうなれば、学校に居場所がなくなる可能性も高い。

 ある程度予想はついていたのか、母親は静かに首肯した。

 雪菜がこれまでのことについて語り、客観的に見た様子を栄志が補足する。

 そうして話が終わり、食事も終えた頃には、21時を回っていた。



「あとはえいちゃんのお母さんやね」


「そうやな。でも、寝やんでええんか? 別に、俺だけでもええんやけど」


「そんなんあかん。私だけ一緒におってもらって、えいちゃんだけ1人なんは私が許せへん!」


「でももう夜遅いし……」


「大丈夫やから! な、お母さん!」


 晩御飯の片づけをしている母親に問いかける。


「行ってきい。木下さんも、雪菜と一緒やったら冷静になるやろうしな」


「ありがとう、お母さん。ほら、えいちゃん行くで!」


 すっかり元気になった雪菜が栄志の手を取り、栄志の家に向かった。走ってはいないが、早歩きの速度で。

 辺りは静寂に包まれ、雨の匂いが残る中庭を抜ける。階段を2つ上がり、3階に着いた。栄志の家は階段の隣にあり、階段を駆け上がった先にあった。

 先と同じく、インターホンを鳴らして来客を報せる。

 しかし、待てど暮らせど、返事はない。

 それが酷く怖くて、雪菜が自殺したニュースが脳裏をかすめた。

 もしかしたら、同じように自殺しているかもしれない。過去に身近で起きた出来事だからこそ、想像が容易く、すぐに想像してしまう。

 首つり。飛び降り。溺死。

 家で出来ることなど限られているが、凶器はそこかしこにあった。包丁も、浴室も、凶器になり得る。

 もう一度インターホンを押してみるも、返事はなかった。


「母さん!」


 鍵は閉まっていなかったようで、ノブを回すと金属の摺れる音が鳴り、簡単に扉が開かれていく。

 扉を閉めていないことに危機感を覚えた栄志は、すぐにリビングへ直行した。


「どこや! 母さん! どこおんの!」


 だが、見当たらない。リビングにあるこたつの布団を捲り、中で窒息死を図ったのかと思って確認してもおらず、台所の包丁の数を確認してみれば、全てそこにある。風呂場にも念の為行ってみたが、手首を切って湯船に浸ける、などと言った、ドラマ染みたことをしているわけでもない。

最後にベランダを確認すべく、カーテンを思い切り滑らせた。

しかし、ベランダ用のサンダルが一つ、いつも通りに置かれているだけで、特に変わっているところはない。最後に見た記憶と同じで、昨日から雨が続いていた所為で部屋干しのため、ベランダに洗濯物も一切なく、3階からの景色がよく見渡せる。

 やはり、念には念を。

 ベランダに出てサンダルを履き、階下を確認しようとするが、怖くて見られない。ここから飛び降りたならば、真下に死体が転がっているはずだ。これから死のうと思っている人が、丁寧に服を畳んだり、靴を並べたりはしない。だから大丈夫だ、と畳まれている洗濯物を一瞥し、意を決して下を覗き見た。


「よかった……」


 暗くて見えづらいが、僅かにマンションから漏れた光があったために見える。そこに自身の母が血を流して横たわっている様子があるわけではないようで、吹き抜けた寒風に身を震わせた栄志は急いで部屋の中に戻った。

 確認できるところは全て確認した。

それでも母を見つけられないということは、少なくとも突発的に自殺を試みていない証拠でもある。

 へたり込んだ栄志を後ろからそっと抱きしめる。

 雪菜は気の抜けてしまった栄志を安心させるため、また、1人ではないことを教えるために包み込んだ。


「母さん、どこおるんや」


 けれど、母親が見つかったわけではない。

 買い物に出かけるには時間が遅すぎる。

 では、どこへ行ったのか。

 栄志には一つだけ心当たりがあった。


「第2公園……」


 栄志が小学生のころ、よく父親と母親と3人で遊んだ公園。

小学校を卒業する前に父親は他界してしまって、今思い出すのも一苦労ではあるのだが、公園で遊んだ記憶だけは鮮明に思い出せる。

 家の鍵を閉めず、栄志は走り出す。

 雪菜も置いて行かれまいとついていこうとするが、インドア派である雪菜と、サッカー部エースの栄志では歴然とした差があった。

 時間にして1分少々で行き着いた第2公園。夜闇に包まれた公園の電灯に照らされたベンチに座る女性。彼女こそ、栄志の探し求めている人物だ。

 彼女は光のない瞳で虚空を眺め、ただ時間の過ぎゆくままに過ごす。

 私は何故、あんなことを言ったのか。勢いで言ってしまったとは言え、あまりにも辛辣すぎる言葉。もし、自分が、母親に言われていたら――、そう考えると、体が震えた。

 精神状態によって変わるだろうが、それでも良くて家出、悪くて自殺と言ったところか。

 思わず頭を抱えそうになった。――その時、


「母さん、やっと見つけたわ」


 息を乱した息子の声が聞こえた。

 視界に影が差し、電灯の光を遮る少年。手元に帰ってくるかどうか、今の今まで不安でたまらなかった彼が、戻ってきてくれた。

 ただそれだけで涙が溢れる。


「栄志……栄志、栄志! 酷いこと言うてごめんなぁ! ほんまにごめんなぁ!」


 嗚咽と共に漏れる、謝罪の言葉。

 栄志はただただ、受け止める。

 彼女が泣き止むまでの間に雪菜が追いつき、栄志が母親の解放をしながら事情を説明した。


「そうやったんか。……雪菜ちゃん、気付いてやれんくて、ごめんな。不甲斐ない大人やな」


「そんな、全然。私が相談せんかったのが悪いんですから、気にせんといてください」


「俺は、気付いてたけど、助けてやれんかった。……ごめん」


「えいちゃん!」


 栄志に優しく抱きしめられ、思わず彼の名を呼ぶ。

 暖かくて、優しい温もり。

 ごつごつした大きな手で頭を撫でられ、より一層幸せが深まる。


「ふふっ、仲良しやなぁ」


 栄志の母親にからかわれると慌てて離れた。見れば、彼女は指先で涙を拭きとっていた。


「いつまでもこうしておれんな。教育委員会とか、保護者会にも連絡せんなあかんわ。明日から忙しいなるでぇ」


 その言葉に、緩んでいた表情を引き締めなおす。

 3人は頷き合って、帰路に着いた。


 翌日、栄志と雪菜は学校を休み、2人の母親と共にそれぞれのところへ働きかける。

 学校を休んだ手前、生徒である栄志と雪菜が学校へいじめの連絡を入れるわけにもいかず、雪菜の母親が担当し、教育委員会への連絡は栄志の母親が担当する。

 栄志と雪菜はこれまでのいじめに関して、ノートに書き出していった。いつ、どこで、何をされたか。それらをきっちり把握しているのとしていないのでは、大きな差が生まれる。

 午前の内に連絡すると、昼から学校に来られないか、と相談があったため、彼女たちは一も二もなく了承した。

 久し振りにファミレスで4人での食事を楽しんだ後、栄志と雪菜は制服に着替えてから学校に向かう。

母親たちは既に向かっており、先に保護者カードを受け取るとのことだ。

 2人が学校に到着すると、担任の森野に案内され、空き教室に入った。

 机と椅子が端に避けられており、真ん中には対談出来るスペースを確保してあり、机が8個向かい合って並べられ、合わせて椅子が8脚ある。


「栄志くんと雪菜さんは、お母さんの隣に座ってください」


 2人が言われた通りに席に着くと、4人から見て右に座っていた中年の男性が立ち上がった。


「この度はご足労いただきありがとうございます。それで、早速ですが、雪菜さんがいじめられているという件ですが……」

 きっちりスーツを着こなした、4人から見ると左に座る40台の男性に睨まれながらも、彼――生徒指導教員の田神明人は話を進めて行く。


「森野先生から見て、どうでしたか?」


 空き教室まで案内した森野は、この時間に担当するクラスもあったが、これ以上に大切なことはないため、自習としていた。


「確かに、そんな感じのことはありましたけど……それってほんまにいじめなんですか? 勘違いとかちゃいますん?」


 自らの保身に走る森野に対して、唾を吐きそうになった栄志は思いとどまる。

 だが、栄志とは別の人物、教育委員会から派遣された、田神の右隣に座る布束が睨んだ。


「これがいじめではないと? あんたはアホか。これでいじめちゃうかったら何がいじめやねん。現実みろ。あんたのことも報告させてもらうからな」


「なっ、なんやねんそれ! 俺かてあの子の親に睨まれるん怖かったんやで! そんなんあんまりやろ!」


「それは甘えや。あんたがしっかりしとけばこないなことになっとらん」


「そないなこと言うたかて……!」


 布束は深いため息を吐くと、椅子に深く腰掛けた。


「じきに原田あさかさんのご両親も、あさかさんもここに来る。話はそれからでええんちゃいますか」


 目を瞑り、聞く価値もないと言わんばかりに森野の言い分を無視する。

 少しして、あさかが空き教室に入ってきた。彼女は栄志をひと睨みすると、机と垂直に並べられた数個の椅子の内、窓側の端に座った。

 続いて、事務に連れられて中年の夫婦が入室する。


「どこ座ればええんですか?」


 あさかの父が確認を取ると、あさかの隣に母が座り、その隣に父が座った。

 話し合いの場が出来上がり、布束が第一声を放つ。


「じゃあ、今からあさかさんが雪菜さんをいじめていた問題について、話し合いを行います。質問はありますか?」


 いじめ、と聞いてあさかの顔色が悪くなり、父の表情が抜け落ちる。


「あさか、どういうことや。説明してみい」


「し、知らんやん。うちの方がいじめられてたんやし!」


「証拠は」


「ほら、この髪! そこの男にやられてん!」


 指差すと、父がそちらを見た。栄志はぴくりと反応を示すと、彼と目を合わせる。


「ほんまか?」


「それは……確かに切りましたけど、俺がハサミを奪ってへんかったら、そいつが雪菜の髪をバッサリ切ろうとしてたんです」


「って言うてるけど?」


「ちゃう! そいつが全部悪いねん! 騙されたらあかん!」


 あさかが次々と栄志の悪口を叩き、言われている栄志でさえみっともないと思うほど喚き続けた。

 見かねた母が、あさかの頬をはたく。


「ちょっと静かにしい」


 頬に痛みが走る。こんなつもりではなかった。雪菜は、こんなことをする度胸を持ち褪せていなかったはずだ。なのに――あいつの所為。全ては、栄志が悪い。

 だが、父に睨まれて萎縮する。


「申し訳ありません、苅田さん。そんで、雪菜ちゃん」


 あさかの父が謝罪の言葉を口にした。

 これに驚いたのは、他でもない栄志と雪菜たち4人だった。

 謝られるとは思っていなかったし、もっと、あさかの言っていた通りの人物を思い描いていたため、想像とかけ離れている。

 今もあさかを淡々と説教している様子を見て、演技ではないかと思う。

 けれど、あさかが涙を流し、時折あさかが言い訳を口にすると母のビンタが飛んでいることから、演技ではないことが窺い知れた。もしこれが演技だというなら、女優にでもなるべきだろう。


「あさかには、帰ってからきつく言い聞かせておきます。今後、こんなことが起こらんように」


「は、はい」


 壮絶な躾を見た後だからか、栄志と雪菜の母親の顔は、若干引きつっていた。


「布束さん、私どもはどうすればいいですか?」


「話が早くて、助かります。それでは――」


 淡々と、実にスムーズに進んでいく。

 ただ、学校と教育委員会に連絡を入れただけで、こうも早く解決するのか。

 今までいじめられていた頃の自分に、教えてやりたい。

 だが、時間がまき戻るわけでもなく、今、解決するのだから構わないか、と思いなおす。

 もしこの先、誰かがいじめられている現場を目撃したら、アドバイスしてやればいい。


「じゃあ、これで話は終わりますんで、帰ってくださって結構ですよ」


 あっけない幕引きに、少々呆然としながらも、4人は家路につく。

 その日は、梅雨とは思えないほどの雲一つない快晴。

 全てが終わり、栄志は一つ、すっかり忘れていたことを思い出し、嘆息する。もう全て終わったあとで、顧問の高谷になんと言えばいいのか。けれど、次に何かあったら、必ず相談することをひっそりと心に誓った。

 栄志が後で聞いた話では、あさかは厳格な父と母に嫌気が刺し、ストレス発散の感覚で雪菜をいじめていたそうだ。


 更に翌日。

 栄志は雪菜を迎えに行く。

 階段を降りて、中庭を越えて。

 インターホンを鳴らした。


「あ、えいちゃん。ちょっと待ってな。あとちょっとやから」


 本当に少しの間待っていると、すぐに出てきた。

 2人は並んで歩き、中学校に向かう。

 道中、栄志はおもむろに指を絡めた。

 しばらく歩き、第2公園に立ち寄った。


「ゆき」


 ベンチにはいかず、入り口付近で立ち止まり、真っ直ぐに雪菜を見つめる。

 雪菜が死んだと知ってから、自分の奥底でくすぶっていたこの気持ち。

 全てが解決した今なら、言えるだろうか。

 いや、言えるかどうかではない。

 彼は、自分の素直の気持ちを彼女に伝えたかった。ただ、伝えるだけでいい。


「好きや、ゆき。俺と付き合ってくれ」


「えぃ……ちゃん……」


 真剣な眼差しを受けて、雪菜の涙腺が崩壊する。

 嬉しさのあまり、止まらない涙を何度もセーラー服の袖でふき取りながら、栄志を見ようとしても、潤んだ瞳ではぼやけて見えない。

 好きで、好きで、大好きな彼。

 私の長い髪が好きやって言うてくれた、君。

 中学に進み、遠ざけられて、離れ離れになって、好かれていないと思っていた。

 これまで、巻き込んでしまうと思って言えなかった。

 でも、今なら伝えられる。

 彼が言ってくれた。

 なら、応えなければならない。

 否、応えたい。


「私も、めっちゃ好きやで。えいちゃん」


 全てはここから始まった。

 出会いの公園。

 幼稚園に通っていた頃、雪菜が転んで泣いているところを、栄志がなだめすかした。

 栄志が砂遊びをしているところを、雪菜が興味を持って一緒に遊んだ。

 ジャングルジムでも遊んだし、滑り台では連なって滑ったこともある。

 中学に入るまでの思い出が詰まった、第2公園。

 ここを起点として、2人は恋人繋ぎをして、公園から踏み出す。

 2人で過ごす、外の世界を夢見て。

 再出発の、明日への一歩を。

 


去年の10月に書いたやつです。

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― 新着の感想 ―
[一言] タイムリープ……良いですねっ
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