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奇跡の薬

「鷲尾君?」


 女性の声に呼び止められて振り返った。

 拍子に汗が飛び散る。

 全速力で自転車を漕いできたからだ。

 この病院のある隣の市までは下り坂が多く、バス、電車、バスで来るよりも早い。

 それでもかなりの距離を走ることになる。

 さらに帰りは山登りになるから往きよりもかなりしんどい。


「あ、琴美のお母さん。こんにちは」

「何?すっごい汗ね。まさか自転車?」

「ええ、まあ」

「琴美のために?」

「あ、いや、……まあ、はい」

「ありがとう。さすが琴美の自慢の彼氏ね」


 琴美の母親は持っていたハンカチで目尻を拭った。「あの子、本当にちゃんと病気のこと言えたんだ」


「あの。琴美は?」

「あ、ああ、そうね。琴美はまだ病室にいるわ。もうすぐ……」


 琴美の母親は腕時計を見た。「あと一時間ぐらいで手術室に向かうんだけど」


「そうですか。間に合った、んですかね」

「うん。琴美にそろそろ有也が来る気がするから見てきてって言われたの。そしたら本当に来るから、もうびっくり」

「え?約束なんかしてないのに何で分かったんだろ」


 琴美の母親は、こっちよ、と俺の前を歩いた。


「それが、恋人同士ってやつでしょ。いいなぁ、あいつ」


 琴美の母親は羨ましそうに言う。「でも、それぐらいないと手術頑張れないか」


「やっぱ、手術って、難しいんですか?」

「そんなに難しいわけじゃないわ。って、私もよく分からないけどね。まあ、問題ないはずよ。でも受ける本人は相当緊張してると思うの。場所も心臓だしね。ここは鷲尾君の偉大な愛の力で落ち着かせてあげてやって」


 ここよ、と病室をノックする。

 ドアを開けて「琴美さん。待ち焦がれた愛しの彼氏を連れてまいりましたぞよ」と中に入っていくから、俺はどんな顔をしていいのか分からず、病室に足を踏み入れるのも躊躇する。


「ちょっと、何言ってんのよ。恥ずかしいからやめて」

「何が、やめてよ。散々、有也に会いたい、有也に会いたい、言ってたくせに」

「だから、やめてって、もう」

「あれ?お父さんは?」

「タバコ」

「おお、そうか。父親としては微妙ですわな。ん?」


 琴美のお母さんは振り返りドアのところまで戻ってきて、「何やってんのよ」と俺の手を掴まえて中に入って行く。


「よう」


 他に言葉を思いつかず、ベッドに向かって俺は軽く手を挙げてみた。


 枕を抱えて座る琴美は一瞬俺を見て、すぐに視線を逸らし、「うん」と頷いた。

 少し顔が赤い気がする。


「じゃあ、私もこの辺で。寂しくしょげてるお父さんを慰めに行ってくるわ。後はお若い二人で仲良くやってね。やってねって言っても手術前だから激しいのはダメよ」


 激しいの?


「お母さん!」


 琴美がさらに顔を赤らめ、怒った声を出すと、琴美の母親はケラケラ笑って「これにてどろん」と病室を出て行った。


 急に静かに、そして急に二人きり。


「ごめんね。変な母親で」

「あ、いや」


 琴美の母親のあけっぴろげな性格は以前から知っているから今さら驚かない。

 俺はベッドの横の丸椅子に腰を下ろして琴美を見つめた。「間に合って良かった」


「来てくれないかと思ったよ」


 琴美は拗ねたように手にした枕をポンポン叩く。


「ちょっと、色々あってさ」

「色々?」

「また異世界に行ってたんだ。どうしてもアストラガルスの根を見つけたくて」

「え?ディレクターは誰がやったの?」

「誰も」

「誰も?ディレクターがいないのにあっちの世界に行ったの?」


 琴美の声が怒気を帯びて大きくなる。

 激しいのはだめって言われていたのに。


「あ、いや、最後はオヤジがディレクターになってくれて、無事帰ってこれたんだ。母さんも来てくれたし。たまたまだけど、あれはあれで久しぶりに夫婦で話すいいきっかけになってると思う」


 今頃オヤジと母さんはこちらの世界に戻ってきているだろうか。

 二人であちらの世界で彷徨っているだけかも。

 だって冒険の目的が俺を探すことなのに、俺はこっちに戻ってきているんだから。

 でも、そんなこと言ったら、ご両親まで心配させて何やってるの、って余計に琴美に叱られそうで、やめておく。


「しまったなぁ。異世界に行くのが危険なことだってしっかり説明しておくべきだった。まさか一人で行こうとするとは思ってなかったわ」

「あ、いや、プラネタリウムのおじさんには危ないからダメだって言われたんだけど、どうしても行きたくってさ」

「私のために?」

「まあ、そうかな」

「ふーん。へへっ。ありがとう」


 琴美は照れたように口の辺りを枕に埋める。「で?例のやつ、見つけた?」


「ああ。見つけた。これぐらいの硬くて丸いやつだったよ。梅干しの種のちょっと大きいような感じかな」

「へえ。それで、ヴェガ王女は良くなった?」

「あ、どうなんだろ?」

「知らないの?」

「薬湯を飲ませたんだけど、その後すぐにこちらの世界に戻ってきちゃって」

「じゃあ、アストラガルスの効果は分かんないじゃん」

「んー。そうだな。そういうことに、なるかも、な」

「んー、もう。それが肝心なのに」


 琴美がもどかしいような声を出す。


 俺っていつもこんな感じだな。

 肝心なところでボロが出る。

 だからしっかり者の琴美が傍にいてくれると安心するんだけど。


「でも、飲むとスーッとして、なんかいい感じだったぞ。あれはきっと何でも治っちゃうな。今頃本物のアルタイルと仲良くやってるよ」

「飲んだの?」

「うん。ちょっとだけだけど」

「ふーん」


 琴美の潤んだ瞳が俺の唇を見つめる。「私にも分けてよ。奇跡の薬」


「どうやって?」

「こうやって」


 琴美は腕を取って俺の体を引き寄せ、さらに首に手を回して優しくキスをした。「あっちで一線、超えてないでしょうね」


「なわけないだろ」

「どうだかなぁ」


 琴美はもう一度、先ほどとは違って強く唇を押し当ててきた。



 その数分後、オヤジからメールが送られてきた。



 お前、何、勝手にこっちの世界に戻っちまってんだよ。

 おかげで無駄骨、でもないか。

 安心しろ。

 ヴェガ王女もデネブちゃんも元気になったぞ。


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