奇跡の手
「アル……」
弱々しい声と共にデネブが大量の血を吐いた。
「喋るな、デネブ」
俺はデネブを抱え上げ、懸命に、懸命に駆けた。
フォワードの街を突っ切り、まっすぐ診療所へ向かった。
診療所から衛兵が何人も出てくる。
「どいてくれ。陛下を、陛下にお目通りを」
アンタレスが衛兵を押しのけ、俺が走る道を作る。
デネブを助けられるのは前国王の光魔法しかない。
俺はアロンダイトを闇夜の森に置いてきて、魔法が使えなくなっている。
俺は診療所に飛び込み、不敬を承知で「陛下!陛下!」と叫びながら廊下を駆けた。
血相を変えた前国王が廊下に出てきた。
「アルタイル!何が起きた!」
「陛下。デネブを、デネブを助けてください!」
「何だ、これは。この血の量は……」
サッと傷を見て、前国王は一瞬言葉を失った。「奥の部屋へ。ヴェガの隣のベッドに」
俺は部屋に駆けこんだ。
そこには以前と変わらぬ姿で眠り続けるヴェガ王女。
俺は前国王の指示通りにデネブをベッドに横たえた。
そして真っ赤に濡れた自分の手を見て、へなへなと座りこんだ。
デネブは背中だけではなく、腹部からも大量に血を流していた。
レーヴァティンはデネブの体を貫通していた。
前国王に「どけっ!」と蹴飛ばされ、俺は部屋を転がる。
ビリビリとデネブの服が破れる音がする。
そして、前国王が息を飲み込んだのが聞こえた。
「デネブ!耐えろよ!」
前国王は手を魔法で光らせ、デネブの傷口にそのままその手を差し込んだ。
「うぅ」
もっと大きな声で叫ぶのかと思ったが、デネブにはもうその力も残っていないのか、くぐもった重い息を漏らしただけだった。
立ち上がって見るとデネブの顔はもう完全に血の色を失っていた。
パクパクと口を動かすが、何も分からない。
俺は血塗られた赤い手でデネブの手を握った。
「アルタイル」
前国王がデネブの腹の中に手を差し込んだまま俺を呼ぶ。「アストラガルスの根は持ち帰ったか?」
「はい。ここに」
俺は雑嚢からアストラガルスの根を出した。
「これが、アストラガルス……」
前国王は俺の手の上の小さな球体を数秒間じっと見つめ、俺に一つ頷いた。「直ちに小さく砕き、煮詰め、薬湯を作れ。急げ。時間はない」
俺は部屋の外へ駆け出した。
「どうだ?大丈夫か?」
廊下で待っていたアンタレスが急きこんで訊ねてくる。
「かなりまずい。アストラガルスで薬湯を作る。台所はどこだ?」
水がいる。
それから鍋。
火も起こさないと。
「あそこだ!」
アンタレスが叫ぶ。
指を差す方を見ると、衛兵が中庭の井戸で鍋に水を汲んでいた。
俺は走った。
「ごめん。ちょっと、これ貸して」
衛兵に体をぶつけるようにして鍋ごと強奪する。
鍋の中にはジャガイモのようなものがいくつも入っていた。
ほし草を束ねたたわしのようなものも。
俺は中庭の芝生の上に鍋の中のものをぶちまけた。
「おい。何するんだ!」
衛兵が俺の肩を強く押す。
「陛下のご命令である。許してくれ。急ぎアストラガルスの根で薬湯を作る」
アンタレスが間に入って衛兵に詫びる。
「アストラガルス……。それでは、あなたたちが……」
俺は井戸から水を汲み上げ、まず自分の手を洗った。
デネブの血が流れていく。
そして次に鍋の中に水を注いだ。
そしてほし草のたわしで擦るようにしてアストラガルスの根を洗う。
丹念に洗っている時間はない。
「こちらへどうぞ」
衛兵は素早い理解で俺たちを台所に案内した。
「すまない。助かります」
俺が礼を言うと、衛兵は何も語らず敬礼を示した。
台所の中で三人の衛兵が食事の準備をしていた。
かまどに火が入っていて、その上で鍋がぐつぐついっている。
「全てを中断せよ。この場は今から薬湯づくりに専念する」
俺たちを案内してくれた衛兵は大声を張り上げ、そして俺たちを振り返った。「ご指示を」
衛兵が俺たちに正対すると、台所にいた三人も機敏にその横に整列して俺の言葉を待った。
「今からこのアストラガルスの根を砕き、煎じて、薬湯を作る。まずはこの根を砕くハンマーのようなものがいります。鍋の中で粉々にしてそこへ湯を注ぐ。できますか?」
「全力で!」
四人の衛兵は一旦散らばったかと思うと、すぐに戻ってきた。
一人の衛兵が俺にハンマーを差し出す。
もう一人の衛兵が持ってきた鍋の中にアストラガルスの根を置く。
俺は思い切りハンマーを振り下ろした。
ぐしゃ
アストラガルスの根がハンマーで少し凹んだ。
中からは汁のようなものは一切出てこない。
まさに樹木の根のように少し裂かれた繊維質が覗いただけだ。
俺は何度もハンマーを振るった。
アストラガルスの根はどんどん平べったくなり、硬い繊維質のせんべいのようになった。
そこへ湯を注ぎ、それをかまどにかける。
すると湯はたちまち白く濁り出した。
煮詰めていくと色が少しずつ黄色っぽくなっていく。
底のアストラガルスの根が見えるぐらいにまで水分が減ると、薬湯は茶色になっていた。
十分に煮詰まっただろう。
俺は二つのコップに薬湯を注いだ。
盆の上にコップを置き衛兵に礼を言う。
「ありがとうございました。これでヴェガ王女とデネブが助かるかもしれません」
「治癒されることを祈ります」
整列した四人の衛兵が敬礼で俺たちを見送ってくれた。
俺とアンタレスも衛兵を真似て敬礼を返し、薬湯を持って奥の部屋に向かう。
入ると前国王が疲れた表情を見せてデネブを見下ろしていた。
「陛下!」
「もしかして……」
間に合わなかったか。
そんな……。
「うろたえるな。デネブは生きておる。だが、わしにできることはもうない」
「薬湯を持って参りました」
「よし。全てをこれに賭けよう。ヴェガの命もデネブの命も……。異存はあるか」
「ありません!」
俺の背中に緊張が走った。
険しかった旅路もついに終焉を迎える。
これだけ頑張ったんだ。
きっとこの薬湯で二人ともまた目を覚ましてくれるはず。
だけど……。
あんなものを煎じた薬湯が本当に万病に効くというのか。
奇跡をもたらすというのか。
「わしは半信半疑だった。この世に奇跡などあるのか、と。しかし、お前がその血に染まった手でアストラガルスの根を見せてくれた時に、確信した。奇跡は起こるのだ、と。剣士アルタイルよ。お前の手はあの時内側から光り輝いていた。アストラガルスの根ではなく、お前の手が輝いていたのだ。アルタイルよ。お前自身が奇跡なのだ。わしは奇跡を見た。そのお前が持ち帰り、煎じたアストラガルスの薬湯で二人が目を覚まさないはずがない」
前国王はコップに手をかざした。「飲んでみよ」
「俺がですか?」
「人肌に冷めているか、確認せよ」
仕方なく恐る恐るコップを口に近づける。
温度は人肌だった。
味は……ない。
苦いかと思っていたので、拍子抜けするほどだ。
しかし、体がスーッとする。
ハーブのような感じか。
「大丈夫です」
前国王は薬湯を二つの水差しに注いだ。
俺は眠るヴェガ王女の、前国王はデネブの口にそれぞれ薬湯をゆっくり少しずつ傾ける。
薬湯は砂漠に振った雨のように口の中に染みこんでいった。
「後は様子を見守るしかないな」
前国王は俺とアンタレスを呼び寄せ、手を俺たちの肩に置いた。「よくやってくれた。礼を言う。今はお前たちも少し休め」
俺はその言葉を遠くに聞いた。
疲れが出たのだろうか。
足に力が入らない。
陛下の顔が二重、三重に見える。
世界が歪み出して……。




