地稽古
玄関を開けると澱んだ空気が漂ってきた。
汗と埃と残飯とアルコールと。
色んなものが混ざり合った退廃的で不快なにおいが無性に俺を苛立たせる。
俺は家の中に駆けあがり、台所に向かうと戸棚からゴミ袋を取り出して、散乱しているゴミを手あたり次第放り込んだ。
ビールの空き缶。
カップ酒の蓋。
口の開いたスナック菓子の袋。ティッシュの塊。
干からびたサラミ。
飛び散っている柿の種。
ゴミ袋の口を縛り、サッシ窓の外へ放り投げる。
そして振り返って、そこで赤ら顔でいぎたなく眠りこけている男を見下ろす。
俺はその男の臀部辺りを思い切り蹴飛ばした。
「ん、んぁあ。あ?有也か」
男は俺に蹴られた尻を擦りながら、黄色く濁った眼で俺を見上げた。
「オヤジ。稽古つけてくれよ」
「あん?稽古?」
男は気だるそうに大きくあくびをした。「知るか」
再び目を閉じてしまう男。
俺は舌打ちを残してその場を離れ、階段を上がり自分の部屋に入った。
制服のままベッドに横たわる。
大きく息を吐く。
明日、入院。明後日、手術。
死にたくないと泣いていた琴美の姿が頭にちらつく。
「ったく。何だって、急にこんなことに……」
俺だって琴美を死なせたくない。
でも、どんな病気なのか、何をどうする手術なのか、俺は何も知らない。
知ったところで何もできない。
先ほど家に送っていった時の不安そうな泣き笑いのあの顔が俺にとっての最後の琴美になるかもしれないのか。
現実感はないが、可能性はあるということだ。
それが分かっていても何もしてやれない俺。
ただこうやって無駄に寝転がって時間を過ぎさせるしかない俺。
このままだと琴美の身にもしものことがあったら、後悔しそうな気がする。
琴美ともう会えなくなったら、どれだけ辛いのだろう。
だからと言って琴美のためにしてやれることなど何もない。
だけど琴美をこのまま死なせたくない。
でも何もできない。
ああ。ダメだ。
思考が堂々巡りする。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
俺はベッドから降りて制服を脱ぎ、いつ以来かな、と考えながら道着に袖を通した。
竹刀を持ち、少し被っていた埃を払って部屋を出る。
男の部屋に入ってクローゼットを漁り、道着を取り出して階下に降りる。
まだ眠っている男の顔に向かって道着を放り投げた。
「さっきから何なんだよ、お前」
男はしかめっ面で体を起こし、酒臭い息を吐き出しながらスエットの中に手を突っ込んで脇腹を掻く。
「だから、稽古」
「稽古、稽古って何で俺がつけなきゃいけねぇんだよ。部活でやれよ」
「酒、買うから。吟醸酒」
その一言で男の目が変わる。
「お前が吟醸酒を買ってくれるのか?」
「ああ」
「ったく。しょうがねぇなぁ」
男はニタニタ笑ってスエットを脱いだ。
白くたるんだ腹が見えた。
俺は先に家を出て隣の道場に入る。
奥の小部屋から防具を用意して、シンと静まり返った板の間に正座する。
目を閉じ、耳をすませば懐かしい音が聞こえてくるようだ。
竹刀がぶつかり合い、激しく駆け回り、大声で気合を発する。
俺は物心ついたころから毎日この道場で稽古していた。
道場主であるオヤジに連れられて。
剣道が楽しくて仕方なかった。
目の動き、足運び、切っ先の揺らぎ、息遣い。
全神経を相手に集中させ、隙を見つけて打ち込む。
相手も仕掛けてくる。
一瞬でも早い方が勝ち。
瞬きした分でも遅かったら負け。
その緊張感と技が決まったときの高揚感。
それは何物にも代えがたいものだった。
竹刀を持つのが嫌になったのは最近のことだ。
昔から酒癖の悪いオヤジが母親に手を挙げて、耐えかねた母親が俺にも黙って家を出て行った。
そして、ますます酒に溺れて、道場を閉鎖したオヤジの落ちぶれた様子は直視できないものだった。
剣道の腕で全国的に名を馳せ、どれだけ懸命に挑んでも歯が立たない憧れの存在だったオヤジ。
そのオヤジが今は日がな一日家でごろ寝して怠惰な姿をさらしている。
憧れは消え、逆に、こうはなりたくない最低な存在に変わるのに大して時間はかからなかった。
すぐに竹刀を握る気もなくなって、俺は部活にも顔を出さなくなった。
剣道を続けることがオヤジに近づくようで、うまくなりたいと思えなくなってしまったのだ。
のっしのっしとオヤジが道場に入ってくる。
俺の姿を認め、道場の中央を挟んで反対側に向かう。
久しぶりに見るオヤジの道着姿に俺は緊張した。
ふぬけた顔をして、肉のたるみも隠しきれないが、それでもそこにいるのはどれだけ打ち込んでも軽くあしらわれた、俺が知っているなかで最強の剣士だ。
俺は黙って垂れを腰に巻き、胴を身に着け再び正座する。
オヤジも同様に防具を身に着けているのを見るとさらに緊張感が高まった。
オヤジにばれないように腹の底から息を吐き出し、手拭いを頭に巻いた。
面を着け、籠手をはめ、立ち上がるとジャンプをして足を道場の床にドンドンと打ちつける。
軽く素振りをして竹刀の感触を確かめる。
軽い。
アスカロンとは大違いだ。
しかし、シリウスと戦ったときのアスカロンは思うままに操れた。
重さこそ違え、今の竹刀の感触はあの時のアスカロンと同じように動く気がする。
親父も準備ができたようだ。
「フン、フン」と素振りを繰り返すオヤジは先ほどまでのぐうたら中年ダメ男ではなくなっている。
オヤジと竹刀をぶつけ合うのは中学生のとき以来だ。
高校に入って部活で剣道をするようになってからは一度も道場で対峙したことはない。
中学生の頃に比べれば上達しているはずだ。
だけど、最近は部活に出ていなくて、体がなまっているのは否めない。
今の俺がどこまでオヤジに通用するだろうか。
ひょっとしたら余裕で勝てるのかもしれない。
そうなったら本当にオヤジを見下してしまうかもしれないけれど。
「稽古って何やるんだ?」
オヤジが首を回し手をぶらぶらさせながら訊いてくる。
「地稽古で」
要は試合形式で何本も打ち合うということ。
何のためにオヤジと打ち合うのか、自分でもうまく言えない。
でも、頭の中のもやもやを少しでもすっきりさせる方法が他には思いつかなかった。
そう長いとは言えない今までの俺の人生を振り返ると、何かに一番没頭できたのは親父との地稽古だと思う。
「ふーん」
オヤジは何のためらいもなく開始線まで歩いてきて、蹲踞をした。
するとバランスを崩して「おっとっと」と言いながら手を床につく。
蹲踞もまともにできないのか。
俺はがっかりしてため息をつきながら開始線に近づいた。
向かい合って腰を下ろすと、オヤジが「酒だからな」と面の向こうでニタッと笑った。




