脱水症状とエネルギー切れ
顔がスースーする。
と思ったら、今度は生温かい何かで頬が濡らされている感触があった。
目を開くと、耳元で「ニャオ」と声がして、口の周りをファサっと柔らかい尻尾のようなものが撫でていく。
猫?
「え?」
ガバッと半身を起こすと、黒い何かが遠ざかっていったのが見えた。
ズキズキと頭が痛む。
イテテと顔をしかめ、こめかみに手を当てると「起きたか」と声を掛けられた。
「ベネト……俺」
ベネトは肩に黒猫を乗せた状態でつかつかと歩み寄ってきた。
そして顔を近づけ俺の両目を覗き込むように見る。
ベネトのローブの首元がたわんで、その奥の意外にも豊満な胸の谷間が目に飛び込んできた。
慌てて視線を逸らした俺の鼻をバラの花のような香りがくすぐる。
ベネトの香水のようだ。
「ここは?」
見たことのない部屋だ。
俺はベッドの上にいる。
シーツや布団の感触が心地良い。
窓の造りや備え付けの調度品は華美ではないが重厚さがあって気品に溢れていた。
「王宮の中の小部屋だ。侍女用の空き部屋なのだろう。隣の部屋でアンタレスも休んでる」
「アンタレスも?俺たち、二人そろってどうしちゃったんだろ?」
「心配ない。ちょっとした脱水症状とエネルギー切れだ」
脱水症状にエネルギー切れ。
言われてもピンとこない俺に「これを飲め」とベネトが白い液体が入った碗をくれた。
飲んでみると、それは見た目通りの牛乳だった。
人肌に温めてあって、少し甘く、飲み易い。
ベネトは屈んで俺と同じものをシャウカットにも与えた。
黒猫は嬉しそうに白い液体に舌を伸ばす。
「お前たちが連れていたあの山羊は前国王陛下の魔法だったんだ。正体は紙切れ。だからニュンの乳を飲んだところで、水分も栄養もない。ただの空気を飲んでいたのと同じだ。魔法の効果で神経が一部麻痺して腹が満ちた感覚はあっただろうがな」
「マジで?」
騙された。
倒れたタイミングが王城の中だったから良かったが、平原で力尽きていたことも考えられたのではないか。
俺は小さい声で「あのくそオヤジめ」と罵った。
「王家を蔑ろにすると、ヴァンパイアバットにでも変身させるぞ」
シャウカットの背を撫でながら俺を見上げるベネトの目が少しも笑っていなくて、俺は背筋を寒くする。
「でもさ、もう少し帰るのが遅れてたら……」
「遅れない」
ベネトは俺に反論の隙を与えない。「前国王陛下は魔族除けの効果のある紙で魔法の山羊を作られた。だから、お前たちは魔族に遭わずに王城まで来ることができた。お前たちの旅程は陛下の計算通りだ」
「ってことは、オセも?」
オセの出現も計算通りだったのだろうか。
下手をすれば、あそこで全滅していたかもしれないのだ。
「そこはな……」
急にベネトが歯切れ悪くなる。「さすがにあのレベルの魔族になると魔族除けが効かない。そういう意味ではついてなかったな。しかも、お前たちは感じていなかったかもしれないが、あの時点でお前たちのエネルギーは切れかかっていたから、動きに精彩がなかった。だけど、それでオセも油断したんだろう。私の存在に全然気づいていなかった。そういう意味ではついてたな」
ククとベネトが小さく笑う。
「ほんと助かったよ。ベネトがいなかったら今頃どうなってたか」
「死んでる」
「はっきり言うなよ」
「実は、私もお前たちを見つけてからは一定の距離でつけていたんだ。さすがに、私も王国に一人で戻れるか不安だったからな。いざという時は大声出すなりシャウカットを走らせるなりしてお前たちに助けてもらうつもりだった。そういう意味では心強かったよ」
「へぇ」
ベネトほどの実力者に心強かった、と言われると素直に嬉しい。「もっと早く声掛けてくれれば良かったのに」
「パーティーの二人に裏切られた私の気持ちも察してくれ。これでも心が折れてたんだ」
声を詰まらせながら国王に報告していたベネトの姿を思い出す。
裏切りを見破れなかった彼女にの胸の中には悔しさ、惨めさ、腹立たしさが渦巻いていただろう。
俺たちに話し掛ける気になれないのは仕方ない。
湿っぽい雰囲気はドライなベネトには似合わない。
俺は話題を変えようとした。
「だけど、あのニュンがただの紙切れとは思わなかったなぁ」
そう言うとベネトの表情が急に引き締まった。
「ただの紙切れではない。ニュンは前国王陛下から今上陛下への大事な親書。お前たちは大切な任務を与えられていたということだ」
「そうなの?」
知らないうちに俺とアンタレスは新たな任務のため王国へ戻ることになっていたのか。
やっぱり、騙されたような、上手に担がれていたような気がして面白くない。
「飲んだらもう少し寝ろ。明日には出発だからな」
「は?出発ってどこに?」
「ヴェガ王女を救出に、に決まってる。私たちはまだ何も成し遂げてないんだ」
ベネトは一つため息をついて部屋の扉を開ける。
シャウカットが音もなく廊下へ出て行った。
ベネトもその後をついて行く。「アンタレスはもう少し物分かりが良かったぞ」
閉められたドアに向かって俺は「イー」と苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
デネブとベネトでは全然違う。
明日からあの高飛車なベネトと旅に出て四六時中一緒なのかと思うと気が重い。
息が詰まりそうだ。
あーあ。
デネブとの旅は楽しかったな。
ベネトはご飯作ってくれるのかな。
「おい」
「へ?」
呼ばれて振り返るとアスカロンの精がそこにいた。
いつもと同じように露出の多い恰好で腕を組んで中空に漂い俺を見下ろしている。
すらりと伸びた生の脚が艶めかしい。
が、その視線は冷ややかだ。
どうやらまた怒っているらしい。
「せっかくあの高慢ちきなオセを切り刻んでやるチャンスだったのに、何やってんだよ」
「だって……」
「だって、じゃない!」
「はいっ」
アスカロンには労りという心が欠如している。
もともとないとは思っていたが。
「次だ。次は絶対に仕留めるぞ。私をぞんざいに扱ったことを後悔させてやる」
アスカロンは意外にねちねちしている。
「はぁ」
そう簡単にオセを倒せるとは思えない。
蹴られた腹はまだズキズキ痛む。
「情けない声を出すな。次、出くわしたときに勝てなかったら私はもうお前を見限るぞ」
「分かりましたぁ」
正直それでもいいかなと俺は思っていた。
国王にお願いして、他の剣と交換してもらえないか頼んでみようかな。
いくら歴史に名を残すような宝剣でも、こんな高飛車で面倒くさい精と一緒にいるのは疲れる。
「お前。今、それでもいいと思っただろ。そうはいかないぞ。私はお前とオセを倒すと決めたんだ。少なくともそれまではずっと一緒だ。お前の腕と私の切れ味があればきっとあいつを倒せる。自信を持て。さぁ、それを飲んだら、しっかり寝ろ。な。今日は添い寝だけでしてくれればいいから」
アスカロンは逃げるようにサッと姿を消した。
ツンデレってやつなのだろうか。
こちらが一歩引いた態度を示したら、アスカロンは急に優しくなった。
今後はもう少し強気に出てみても良いのかもしれない。
意外にかわいいところもあるな、と俺はにやにやしながら牛乳を飲み干した。




