山羊のニュン
朝、目覚めると、アンタレスは既に起きて前国王と祭壇を前に祈りを捧げていた。
儀式が終わると、前国王は祭壇の中央にあった水差しを恭しく持ち上げ、それを捧げ持ったまま階下に降りていった。
ついて行こうとすると、咎められた。
下にはサタンを封じ込めた何かがあるらしい。
それは誰にも見られるわけにはいかないということだ。
再び姿を現した前国王はそのまま上の階のデネブのところに向かった。
そこでは何やら呪文と共に聖水を横たわるデネブの全身に振りかけ、聖水で濡らした布で彼女の唇を湿らせる様子を見ることを許された。
一瞬唇が朱に染まり、顔にも生気が戻り、今にも目を覚ましそうに見えたが、すぐに元の青白さに戻ってしまった。
「これを毎日?」
俺が訊ねると、前国王は小さく頷いた。
「今、見たであろう。聖水の力で彼女は生気を取り戻す。死んではいない証拠だ。これを見るとどうしても奇跡を信じたくなる。そして、わしが彼女を見放したら、それこそ彼女はたちどころに屍となってしまう」
パンとスープの質素な朝食を済ませると前国王は教会の裏手に俺とアンタレスを呼んだ。
「君たちはどうする?このまま闇夜の森を目指すのか、それとも一旦国へ戻るのか?」
アンタレスが既定事実のように「ポール王国へ戻ります」と返答する。
話し合ったわけではないが、アンタレスが言ったことに俺も納得していた。
魔法使いがいないのだから、それしかない。
シリウスたちが先にヴェガ王女を探し出してしまうかもしれないが、それならそれで良い。
大事なことは誰がヴェガ王女を見つけるかではなく、ヴェガ王女が生きてポール王国へ戻ることだ。
「ではこの山羊を連れていくがよい。この山羊の乳は疲れを吹き飛ばす。きっと役に立つはずだ」
前国王の背後にはいつの間にか白い雌の山羊がいた。
長い耳がピンと尖っていて、優しい目をした可愛らしい山羊だ。
「これが乳房だ。指で先を絞れば乳が出る」
そう言って前国王は山羊の後足の傍にしゃがみ込み、その腹から垂れている淡いピンクの乳房の先端を握った。
「乳は絞ったことがあるか?」
俺もアンタレスもそろって首を横に振る。
「人の乳はどうだ?」
え?
「女の乳を揉んだことはないのかと訊いているのだ」
「あ、あ、あります」
俺は琴美の小さくて柔らかい乳房を思い出して少し赤面した。
「ほう。若いのにやるな。そっちは?」
話を向けられたアンタレスは首まで真っ赤に染めてブルブルと首を横に振った。
「なんじゃ情けない。この山羊のおっぱいで発情するなよ」
前国王は冗談なのか何なのか分からないことを言って、乳房の下で掌を受け、そこへ向かって乳房を軽く絞った。
細い線となったミルクが掌に溜まる。
「飲むか?」
前国王の皺だらけの手に溜まったミルクを顔に近づけられたが、それを飲むのはさすがに抵抗があった。
硬直していると前国王は「ハッハッハ」と豪快に笑い、自分でミルクを飲んだ。
「実に美味い」
「名前は何て言うんですか?」
俺が訊ねると、前国王は一瞬困ったような顔をしたように見えた。
「名前か……。名前は、ニュンだ」
明らかに今名付けた。
しかし、俺とアンタレスは苦笑いで見つめ合い黙って頷いた。
前国王に見送られて、俺とアンタレスと白山羊のニュンは丘を降りた。
ニュンには結構な荷物を背負わせている。
俺とアンタレスのテントに二人分の食材と水と食器。
デネブがいないからサイズの魔法が使えない。
従って前国王にデネブの魔法を解いてもらって、元の大きさになったものを運ぶしかなかった。
魔法のありがたさが身に染みて理解できた。
いつ魔族が襲ってくるか分からないから、俺とアンタレスは軽装でいたかった。
ニュンが背負える重さにも限度がある。
従って荷物は必要最小限度にとどめた。
それにフォワードの街がアトラクナクアに破壊されていて、食材もわずかしか得られなかった。
比較的安全な川沿いではなく、最速の直線コースでポール王国に戻るしかなかった。
「なぁ?」
リードを持ち、山羊の首筋を撫でながら俺が訊ねると、少し離れて歩くアンタレスが「何?」と応える。
「ひょっとして怖いのか?」
俺が訊ねるとアンタレスは少し顔を引きつらせて「何が?」と訊ね返した。
もうそれで答えは分かった。
アンタレスはニュンが怖いのだ。
「可愛いのに。どこが怖い?」
「怖くない!ただ……」
「ただ?」
「畏れ多いだけだ。陛下からいただいた山羊だぞ。触れるのももったいない」
「じゃあ、乳は飲まないのか?疲れが吹っ飛ぶみたいだけど」
「いや、それは、……飲ませてもらいたい」
「何だよ、それ」
俺は笑いながら「なぁ?」とニュンの首筋を撫でた。
ニュンは人懐っこく俺の手に頬を擦りつけ舌を伸ばす。
アンサーも可愛かったが、ニュンも違った愛らしさがある。
「ちょっと、飲んでみようぜ」
「もう、か?先を急いでるんだぞ」
「ちょっとだけだよ。俺が絞ってみる」
俺は雑嚢からコップを取り出し、乳房の下にあてがった。
乳房を握った手に力を込めると意外に簡単に乳が勢い良くコップの底を叩く。
ニュンは乳を絞られていても大人しかった。
俺は意外に乳しぼりが上手らしい。
琴美のおっぱいを初めて揉んだときは「ちょっと痛い。もう少し優しくして」と窘められたっけ。
「よし、飲むぞ」
俺はコップに口をつけて少しずつ傾けた。
トロッとした温かい液体は思いのほか甘く、飲み易かった。
そして、不思議なことに腹の奥が熱を持ち、体が軽くなるような感覚が湧き起こってきた。




