ここはどこ?
誰かに激しく揺り動かされる。
「アル?アル!お願い。起きて!目を覚ましてっ!」
若い女性の金切り声が耳のすぐそばから聞こえてくる気がする。
どうしたんだろう、一体。
恋人が交通事故にでも遭ったのだろうか。
「アル!アル!アルぅ。アル……」
女性の声は涙声に変わっていった。
可愛そうに。
恋人は死んじゃったのだろうか。
救急車は呼んだのかな。
アルっていうのが名前だとすると、彼氏は日本の人じゃないのかもしれないな。
「アル!どうした、アル!」
今度は若い男の声だ。
この声、どこかで聞いたことがあるような。
それにしてもアルって人は何がどうなっちゃったんだろ。
そう思って、俺は重い瞼をグッと開いた。
すると、いきなり「アル!」と誰かに抱きつかれた。
顔に当たるこの柔らかい感触は何だろう。
もしかして、女性のあれ?
おっぱいってやつ?
何?この展開。
そして、右の手の甲が生温かい湿った感触は何だ?
俺を抱きしめていた女性が体を離し、顔をまじまじと見つめきて「ああ、良かった。死んじゃったかと思った」と言って、再び俺の首筋に抱きついてきた。
鼻先を漂う細く長い金色の髪の束から柑橘の甘い香りがする。
「アル。びっくりさせるなよ」
横たわる俺の顔を覗き込んでくるのは……。
「瞬一?」
俺の声が聞こえなかったのか、瞬一はきょとんとした顔で俺を見る。「琴美は?」
「ん?こと、何?」
訝しげな表情の瞬一は鉄製の兜のようなものを小脇に抱え、その肩、胸、腹まわり、膝は革の鎧で覆われていた。
腰に帯びている長いものは明らかに剣だった。
長く黒い柄が印象的で、まるで映画のポスターの中からそのまま出てきたような物々しさだ。
何、その恰好。
と思ったが、自分を見下ろして俺も胸から腹にかけて鉄製の鎧を着ており、帯剣していることに気付く。
女性は鼻を啜りながら、身を起こした。
照れたように笑うその瞳は明らかに潤んでいる。
見たこともない女性だった。
年齢は俺と同じぐらいだろう。
頬が土で少し汚れているが、大きな目がくりくりとしている。
笑うと、頬に小さなくぼみができて、……かわいい。
フードがついた群青色のローブのようなものを身にまとい、首から胸に下げたペンダントには赤い宝石が輝いている。
こちらはロールプレイングゲームに出てくる魔法使いさながらだ。
「アル。大丈夫?」
女性は思わず見とれてしまっている俺の顔を両手で挟み「アル?」と問いかけてくる。
ち、近い。
彼女の唇がわずか数十センチのところにある。
顔が赤らむのが自分でも分かる。
それにしてもアルって何だ?
人の名前か?
俺のことをアルと呼んでいるように思えてならないが、俺の名前は鷲尾有也。
アルではない。
そして、その前に確認しておかなくてはいけないことがある。
「えっと……。どちら様?」
え?
その女性は俺が発した疑問に絶句した様子だった。
「もしかして、あたしのこと?」
彼女は若干引きつった表情で自分の胸に手を当て恐る恐るという感じで問い返してきた。
俺は、ものすごく悪いことをした気になってきた。
彼女の様子だと、彼女は俺のことをよく知っているようだ。
だとすれば名前を訊かれるなんてショックだろう。
俺は助けを求めるように瞬一の顔を見上げた。
「アル。どうしちゃったんだよ。いつもお前にちょっかいかけてくるデネブだろ」
常にクールな瞬一には珍しく場を和ますようにおどけた調子だ。
それほど俺の発言が場にそぐわないものだったのだろう。
それにしてもデネブって、ついさっき聞いた気がするんだけど。
「ちょっかいだなんて失礼ね、アンタレス」
アンタレス?
デネブもアンタレスも確か星の名前じゃなかったか。
何だ、ここ?
一体どこに来ちゃったんだろ。
そう思って自分の右手を見下ろしたら、犬のような動物が俺の手の甲をぺろぺろと舐めていた。
「うわっ」
反射的に手を引っ込めると、その淡い茶色の体毛を帯びた尻尾の太くて長い動物は大人しく座ってきょとんとした顔で俺を見つめる。「何、この犬」
「犬じゃないわ。キツネのアンサーよ。いつもあたしとアンサーは一緒にいるじゃない」
「本当に分かってないみたいだな。頭でも打ったか?」
アンタレスと呼ばれた瞬一が自分の膝に手を置き心配そうに俺を見つめる。
「本当にそうかも。さっき、雷撃系の魔法を食らって吹き飛ばされたあたしをアルが抱きとめてくれたんだけど、そのまま一緒に倒れちゃって。そのときアルが下敷きになっちゃったんだ。このあたりってゴロゴロと大きな石が転がってるし」
そう言ってデネブが俺の後頭部を手で擦る。
「イテッ」
デネブに触られたところがものすごく痛くて、思わず半身を起こす。
「アル……」
デネブの手が赤く濡れていた。
俺も自分で後頭部に手を回す。
ぬるっとした感触とともに頭に激痛が走る。
見てみると、手にはべっとり血がついていた。
そして急にくらっと視界が回転して意識が遠ざかっていく。
あ、そうか。
なるほど。
これは夢だったんだな。