アトラクナクアー2
その時、アスカロンがまた勝手に動いた。
デネブに向かってクイッ、クイッと何かを求めるように剣先を振る。
「了解」
何がって言いかけたときには、デネブは俺に向かって右手を突き出し、左手で胸のペンダントを握っていた。
魔法か。
そう思ったのと同時に俺の心臓に大量の血が流れ込むのを感じた。
軽い痛みと共に俺の心が強気に満ち溢れてきた。
やれる。
俺ならやれる。
蜘蛛女がなんぼのもんじゃ。
俺がボコボコにしてやる。
俺はアスカロンを片手で肩に担いでアトラクナクア目がけて駆け出した。
「うぉおらー」
不意にアトラクナクアの背後が微かに光った。
次の瞬間、左腕に鋭い痛みが走る。
見れば細いが硬い糸が一本俺の左腕を貫いている。
糸の先端を振り返ると、それはまるで生きているかのように俺の背後でUターンしてこちらを目がけて飛んできた。
俺はアスカロンを左腕を貫通している糸に振り下ろす。
ブツッと音がして糸が切断され、背後から俺を狙っていたその先端も力なく地面に落ちた。
それを確認して俺はまた走り出した。
狙うはアトラクナクアの胴体から生えている人型の上半身。
多少の傷を受けるのは覚悟の上だ。
ヒュンヒュンと風を切る音がして、微かに煌めきながら何本もの糸が俺に襲い掛かってくる。
俺は足を止めずにアスカロンを闇雲に振り回した。
俺の、と言うよりはアスカロンの技術でアトラクナクアの糸が次々に斬り落とされる。
そして、俺は思い切り横に薙ぐ。軽い手応えがあって、アトラクナクアの八本の太い足のうちの右前足を一本斬り落とした。
緑色の魔液が飛び散り俺の体にもかかる。
しかし、その代償に右の太ももと左の脇腹に糸が突き刺さっていた。
今は防御よりも攻撃だ。
おらおら。
これでどうだとばかりに、アトラクナクアの左前の足に向けてアスカロンを斬りつけた。
同様に魔液が噴出し、俺の顔を汚す。
目の周辺の魔液を左手で拭うと、アトラクナクアが切断された足を見下ろして、……笑ったのが見えた。
驚くべき変化がアトラクナクアに起きていた。
なくなったはずの右前足が元通りにそこにあるのだ。
そして、さらに今しがた魔液を噴き出していた左前足の切断面から新しい足がにょきにょきと生えてきている。
くそっ。
俺は助走をつけて飛び上がり胴体に斬りつけようとした。
「ぐはっ」
地面を蹴る瞬間、激痛が走り、思わず苦悶の声が漏れる。
自分の体を見下ろすと右の肩と左の太ももから血に染まった糸が飛び出ていた。
先ほど貫通した二本の糸が背後から再び襲ってきていたのだ。
俺はアスカロンで糸を切ろうとした。
しかし、新たな糸がアスカロンを持つ右手に突き刺さり、さらに無数の糸が発せられ、俺の体の至る所に突き刺さる。
俺は「ぐぅ」と呻きながら口から血を吐いた。
カラン、と足元で金属的な音がして初めてアスカロンを手から落としたことに気付く。
燃え上がっていた闘争心がガス欠になったように途端に失せる。
こいつには勝てない。
攻略法が見つからない。
急に鋭い痛みが糸の突き刺さった部分から全身に広がる。
痛みに身が悶え「ああ」と声にならない声が漏れる。
「アル!」
デネブの金切り声が背後から聞こえる。
しかし、俺は振り返ることもできない。
俺の体はアトラクナクアの糸によって持ち上げられていた。
正面に蜘蛛女の顔がある。
長い髪で隠され、目は見えない。
軽い笑みを浮かべていた口がガッと大きく開かれた。
耳の傍までが口が裂け、鋭い歯からは涎が滴り落ちる。
そして、体が少しずつアトラクナクアに引き寄せられていくのを俺は全く抵抗できない。
食われるのか?
そう思ったとき、俺の左上から何かが飛んできて俺の体を貫いていた糸をまとめて一刀のもとに切断した。
俺は地面に落下し、尻を強打する。
しかし、その痛みよりも何よりも糸を切ってくれた人物に対する驚きの方が勝る。
「瞬一!」
「違う。俺の名はアンタレス。何度も言わすな」
アンタレスは笑って俺を守るようにフルンティングを構えアトラクナクアの前に立ちはだかった。「剣を拾って、さっさと立てよ」
「ハッ」
背後からデネブの気合いが耳に響き、全身の痛みが消えていく。
デネブが痛み止めの魔法をかけてくれたのだろう。
「熱は大丈夫なのか?」
俺は尻を払い、アスカロンを拾ってアンタレスの横に立った。
小さいが闘争心の火がまた燃えだした。
「ああ。細かい話は後だ。取りあえずこいつを何とかしないとな」
俺とアンタレスに向かって次々と糸が向かってくる。
俺たちは剣を駆使して糸を切り落とすが、きりがない。
アトラクナクアは硬い足も使って攻撃をしてくる。
それに対処していると、どうしてもかわせない糸が出てくる。
俺たちは何箇所も糸で傷を受けた。
「どうすればいい?」
俺は剣を振り回しながら声を張った。
「俺にも分からん!」
アンタレスも困惑顔だ。
これではじりじりと体力を奪われる一方だ。
傷も増える。
やがて、先ほどと同じように宙づりにされるのがおちだろう。
デネブがさらに魔法で素早さを上げてくれる。
それで糸をかわしながら攻撃に出ることもできるようになったが、切った足がすぐに生えてきては意味がない。
「あの尻から出る糸さえ何とかできればな」
アンタレスが糸が発射されるアトラクナクアの胴体後部を顎で指し示した。
「分かってるんだけど。この状況じゃ、ケツまで近づけない」
デネブは攻撃系の魔法が使えないし。
その時、背後から俺とアンタレスの間を白い何かが猛烈なスピードで通り過ぎていった。
フィーン。
甲高い風切り音が耳に残る。
ハラハラと黒く細いものが舞い上がった。
髪?
左のこめかみのあたりに手を当てると生温かくぬるっとした感触があった。
手を見るとべっとりと赤いものが付着している。
紛れもなく俺の血だ。
アンタレスも右の頬を手で抑えている。
そこからぽたぽたと鮮血が滴り落ちていた。
「キャー」
女性の叫び声。
それはデネブではなくアトラクナクアだった。
大きな口を苦痛に歪めて自分の後ろを見下ろしている。
その視線の先にある胴体後部はどくどくと緑色の液体を溢れさせていた。
俺とアンタレスの間を通っていった何かがアトラクナクアの尻を切断したのだろう。
慌てて振り返ると何者かが建物の陰に消えるのが見えた。
微かに黒い衣服の裾が風に揺らめいた。
あれは……ベネト?
「アル!糸が止まったぞ。今がチャンスだ!」
アンタレスが叫ぶ。
アンタレスは腰を下ろし膝立ちになっていた。
膝の上に両手を載せて俺を呼ぶ。
俺はすぐにその意味を理解してアンタレスに向かって駆けた。
膝の上の手に足を置く。
アンタレスがグッと俺の体重を持ち上げる。
俺はその勢いを借りて空中に飛び上がった。
アトラクナクアの髪の奥に赤く濁った眼が大きく見開かれているのを垣間見た。
俺はアスカロンをその目に向かって斬りつけた。
確かな手ごたえが両手に伝わる。
重力が俺を地上に呼び戻す。
俺はアトラクナクアを両断し、その足元に左肩から落ちた。
目の前に滝のように流れ落ちる魔液が地面を叩き穴を穿つ。
勝った。
全身傷だらけだけど。
肩も痛いし。
骨、折れてないかな。
「アル!倒したぞ」
「アル!大丈夫?」
俺は「うん」と頷き、デネブとアンタレスに抱え起こしてもらう。
アトラクナクアは消滅し、糸にがんじがらめにされていた人たちも解放されている。
消火活動が進められ見る見る鎮火されていく。
よかった。
取りあえず、フォワードの壊滅は阻止できただろう。
辺りを見回してもシリウスとリゲルの姿はなかった。
「アトラクナクアのケツが切断されたのって」
「魔法だろうな。空気を押しつぶして高速で弾き飛ばし鋭利に切り刻む。空気の魔法は……」
「ベネトの得意技か?」
「うん。きっとベネトね。何で助けてくれたのかは分からないけど」
デネブは怪訝そうに眉を顰める。
確かに、シリウスとリゲルの態度を思い出すと、同じパーティーのベネトが俺たちを助けてくれた理由はよく分からない。
「ま、理由は何でもいいか。あの蜘蛛女を倒せたんだから。それより、お前は完全に回復したのか?あんなに熱があったのに」
アンタレスは誇らしげに頷いた。
「もう大丈夫だ。魔力を取り除いてもらった上に、傷も治してもらった。気力体力ともに万全」
アンタレスは力こぶを作ってみせた。
「へぇ。それってまさかあの教会の神官がやってくれたのか?」
「ああ。驚いたぞ。あの神官は実はな……」
「キャー」
デネブが叫び声をあげ道端に駆け寄った。
蹲り、何かを抱え上げる。
暗がりの路傍に転がっていたのは……。
「アンサー?アンサー!」




