アトラクナクアー1
日が暮れると丘の下、街中のどこからともなく音楽が聞こえてきた。
それにあわせて歌ったり嬌声をあげたりする人々のざわめきも風に乗って運ばれてくる。
その分、丘の上のテントは静けさが際立った。
この先どうしたら良いのかという閉塞感も。
「楽しそうだね」
デネブがテーブルに頬杖をついてぼそっと言う。
「ああ。そうだな」
眼下にはまるで地上にも星が瞬いているかのような無数の蝋燭や松明、篝火の灯り。
そしてそこを行き交う人、人、人。
一年間の勤労と努力が報われた喜びが大きな活力となって街全体に渦巻いているのが伝わってくる。
その渦は部外者である俺たちを寄せ付けない壁のようにも感じられた。
俺は元の世界の夏祭りを思い出していた。
田舎町の唯一のエンターテインメント。
少ないけど花火が上がって、夜店が出て、太鼓と笛が響いて。盆踊りもあったな。
三年前の夏祭りで浴衣姿の琴美に俺はドキッとした。
白地に朝顔の浴衣が可憐で鮮やかだった。
髪を両サイドからくるくると巻いて後ろで止めているだけなのに、いつもと違ってすっきりと見える首筋のラインが光を放っているように眩しかった。
普段とは違うおめかしを見せることが恥ずかしいのか、俯き加減ながらも俺の反応をチラチラ確認するような琴美の上目遣いが可愛かった。
前から淡い好意は持っていたけれど、その時にクリティカルにやられたのを覚えている。
そして、その夏祭りの帰り道にお互い自然と手を繋いだ。
「好き」って言ったのはどちらが先だったか。
後々、そのことで揉めるぐらい、肝心なところはお互い緊張していて記憶が曖昧になっている。
琴美。
俺はこんなところまで来ちゃったよ。
お前は今どこで何をしている?
ヴェガって、本当にお前なのか?
「ねぇ」
俺はデネブに肩を叩かれて我に返った。「何か変じゃない?」
「ん?何が?」
そう問い返したときにはデネブが言う「何か」を俺も理解できていた。
先ほどまでの喧騒の質が明らかに違っている。
聞こえてくるのは音楽と嬌声ではない。
バギッ。ベギッ。グゥワー。
何かを破壊する音。
誰かが痛みに叫ぶ声。
こんなの祭りじゃない。
俺は気が付けばアスカロンを握り締めて駆け出していた。
「アル!アンタレスはどうしよう?」
「寝かせとこう。無理はさせられない」
「分かった」
デネブも椅子を蹴って駆け出した。
アンサーは猛然と丘を下り、あっという間に俺を抜いていく。
俺も負けじと転げるように丘を駆け下りた。
フォワードの街は大混乱に陥っていた。
至る所で火の手が上がっている。
触手のような炎がぬらりぬらりと空に向かって揺らめいている。
助けて、助けてと人々は背後を振り返りつつ丘の上を目指して逃げていく。
皆、泥や煤で服や体を汚している。
火傷や怪我をしている人も多い。
何が起きているんだ?
「どうしたんですか?何があったんですか?」
デネブが大きな声で問いかけるが、誰も立ち止まってはくれない。
「魔族が……」
一人のおじさんが心ここにあらずという感じでふらふらと通り過ぎていく。「どうして魔族が」
魔族?
この街は強力な魔法の結界で魔族から守られているのではなかったのか。
「そりゃあ、結界のどこかに穴が開いたんだろうなぁ」
頭上から声が降ってきて、ハッと見上げる。
「シリウス!」
民家の屋根の上に二人の人間の姿が紅蓮の炎に照らされて赤々と浮かび上がっていた。
シリウスとリゲルだった。
リゲルの巨体で火事とは関係なく下の木造の家が潰れてしまいそうで怖い。
俺の手はそんなつもりもないのに腰に佩いたアスカロンに伸びた。
アスカロンが気をつけろと言っているのか。
「おいおい。敵は俺じゃなくて、あいつだろ」
苦笑して顎を振る。
シリウスが示した方向に異様な姿の巨大な生き物がいた。
体長は周囲の家と同じぐらいだ。
何本もの灰色の足はつま先だけが毒々しい朱色を帯びており鋭利に尖っている。
その足が中央の丸々とした大きな胴体を支えている。
胴体の上には人間っぽい上半身がついており、長い黒髪を振り乱している。
ふくよかな胸が露わだ。
そいつの周囲で銀色に光る幾筋もの線はまるで……。
「蜘蛛?」
「アトラクナクア。蜘蛛女だ」
あいつは手強いぞ、とまるで他人事のように笑うシリウス。
リゲルもニタニタと頬を歪める。
アトラクナクアは四方に飛ばした糸で瞬く間に建物を引きずり倒し、道に惑う人間を巣に貼り付け、その苦悶に歪む顔を見ては「クケケケケ」と奇怪に高笑いする。
俺はアトラクナクアの異常さに声を失った。
こんな奴を相手にしていては命がいくつあっても足りない。
「シリウスは戦わないのか?」
「俺はヴェガ王女を助ける役目があって先を急ぐからな。君に任せるよ」
駄目だ。
全然やる気がない。
同じ役目を負っているのに、何で俺が任されなくちゃいけないんだ。
俺はアスカロンを抜いた。
抜きたくもないのに抜いていた。
やはりアスカロンは俺の意思に関係なく俺の腕を動かすことができるようだ。
何と怖ろしい武器なのか。
構えてみるとアスカロンの重さをまるで感じない。
刀身が微かに橙色を帯びて輝いているように見える。
怒っているのか、気合いに満ちているのか。
とにかくビリビリとアスカロンの気迫が俺の全身に伝わってくる。
勝手にやる気になられても困るのだけれど。
俺は一歩下がった。
もう一歩下がる。
「アル?どうしたの?」
「どうもしてないけど?」
「あの蜘蛛女から距離を取ってる?」
ばれたか。
まあ、誰の目にも明らかだろうが。
「闇雲に戦っても勝ち目ないだろ。まずはどんな動きがあるか、どんな攻撃があるのか観察しないと」
「でも、今はアル以外に戦う人いないよ。早くあいつをやらないと、フォワードが壊滅しちゃう」
だからって俺に戦えって言うのか。
アンタレスがいればまだしも、あんな巨大蜘蛛女、どうやったら倒せるんだ。
俺の心には恐怖心しかない。
完全に飲まれている。
剣道の試合と同じだ。
恐怖心=勝ち目がないってことだ。
 




