丘の上の教会
丘に至るまでにも道行く人に、病院はないか、教会の神官はどのような人かと訊ねたが、リゲルが漏らした情報以上のことはあまり分からなかった。
分かったのは今日は一年に一度のフォワード祭という街をあげての豊穣の祭りの日で、日が暮れるとどんちゃん騒ぎが始まるということ。
そして、この街唯一の医療機関である診療所の医師はかなりの酒好きで腕はあまり良くないということだった。
さらに、教会の神官は人嫌いで教会に引きこもっていて街の誰かと喋っているところを見たことがないということも。
俺たちは藁にすがるような思いで酒好きの医師のもとを訪れたが、まだ明るいのに既に酒臭く、アンタレスの傷を見るなり顔をしかめて「こんな魔力の強い傷、無理、無理」と手を振って俺たちを追い払った。
その追い払い方は本当にアンタレスの傷は手に余るということもあるが、今日は祭りだから仕事をしたくないという堕落した考え方が窺えた。
やけくそで、「じゃあ、どうすればいい?」と訊ねると、酔っぱらい医師はやはり丘の上を指差した。
「あそこの神官はすごいらしいぞ」
噂だけどな、と肩を揺すって笑った。
俺たちは仕方なく体を引きずるようにして丘を登った。
目的の神官は変人で、しかもその魔法の腕を誰も見たことがない。
嫌な思いをして徒労に終わるだけじゃないか、という気がしてならなかった。
しかし、ヴェガ王女を救うにはアンタレスの力が必要で、そのアンタレスの体から魔力を取り払い熱を下げるには、今は丘の上の神官を頼るしかなかった。
俺たちの足取りは重かった。
アンサーだけが機嫌良さそうに草の生い茂る緑の斜面を登っていた。
飛び交う小さな虫を追いかけたり、花の匂いを嗅いだり、草むらに寝そべって体を地面に擦りつけたり。
その仕種が愛らしくて、ほんの少し救われる思いがした。
いよいよ教会の前に来ると、街の喧騒の届かない、静まり返った硬い雰囲気が俺たちを緊張させた。
先ほどまで機嫌の良かったアンサーまで様子が変わった。
じりじりと後ずさりし、建物全体を威嚇するように低く唸り声をあげる。
「アンサー。どうしたの?」
デネブが優しく訊ねてもアンサーは攻撃姿勢を解かない。
そして、デネブのローブの裾に齧りつき、建物から遠ざかろうとする。
「ちょ、ちょっと、アンサー」
アンサーの急変ぶりにデネブが戸惑いの声を上げる。
「何か、感じ取ってるんだろうな」
アンサーがこんなにわがままを言うのは初めてだ。
デネブもどうしようもない様子でアンサーのなすがまま、「分かった。分かったよ」と教会から距離を取った。
建物から三十メートルほどのところにある大木のところまで行って、漸くアンサーはデネブのローブから口を離した。
アンタレスはまだ小さいまま俺の手の上でぐったりしている。
耳を近づけると浅く速い呼吸が聞こえる。
熱は下がる気配がない。
高熱が続いていては体力が消耗する。
このままではアンタレスの命が危ない。
俺は遠くのデネブに向かって一つ頷き、教会の扉に近づいた。
粗末な造りの木の扉をノックする。
俺は扉の前で、その時を待った。
しかし、中からは何の返答もない。
二度、三度とノックを繰り返すが、結果は同じだった。
こんにちは。
声を張り上げて呼びかけるが、やはり応答はない。
「留守かな」
数歩下がって教会全体を眺めた。
少し古びた煉瓦造りの建物だ。
窓は少なく、どこか息苦しい感じがする。
「留守なの?」
いつの間にかデネブが傍にまで来ていた。
アンサーは大木のところに置いてきたようだ。
「そうみたい」
「そもそも本当に神官って住んでるのかな?」
デネブは建物の横に回り古い木窓の割れ目から中を覗き込んだ。「誰もいないよ」
俺もデネブの隣に立ち、割れ目に目を近づける。
中にあるのは数脚の長椅子と小さな祭壇。
どれも埃が白く積もっている。
長い間掃除もされていないような印象だ。
本当にただの空き家にしか思えない。
「でも、やっぱり誰か住んでるんだよ」
俺は教会の裏手にある柵に囲まれた小さな放牧場を指差した。
そこには二頭の山羊が物静かに草を食んでいた。「誰かが飼ってるってことだろ」
「そうかな。餌になる草が生えてるから、人間がいなくても生きていけるんじゃない?」
そう言われれば、そうかもしれない。
その時俺は背筋がゾクッと寒くなるのを覚えた。
デネブを見ると、彼女も驚いたような表情で青ざめている。
反射的に建物の二階を見上げると、そこの窓が微かに開いていて、誰かがこちらを見下ろしている気がした。
神官か。
「すいません。ちょっと、お訊ねしますが……」
突然人の気配は消えた。
窓は薄く開いたままだが、視線を全く感じない。
「何だったんだろ。何か怖い感じがしたけど」
デネブもきっと同じ気配を感じたのだ。
彼女の表情にはまだこわばりが残っている。
「あのー。すいませーん」
俺はもう一度玄関に戻りドアをノックして中へ呼びかけた。
しかし、案の定、何の返事もない。
誰かが中にいるとしたら、これは明確な拒絶反応なのだろう。
お前たちとは関わりを持ちたくない。
目の前の建物全体がそう言っているように思えるぐらい、冷ややかな空気がこちらを圧してくる。
俺は手元のアンタレスを見下ろした。
いつまでも俺の手の上では体が休まらないだろう。
辺りは朱に染まり始めている。
どこか露営する場所を決めなくては。
俺とデネブはアンサーのいる大木に戻り根に腰を下ろした。
すぐにアンサーが怖さを振り払うようにデネブの膝の上に飛び乗り顔をデネブに擦りつける。
「そろそろアンタレスの魔法を解いてあげないといけないわ。魔法にかかりっぱなしも体に良くないの」
「そうだな。いつまでも俺の手の上じゃゆっくり休めないし」
デネブは大木の脇にテントを広げ、アンタレスをその中に寝かせ魔法を解いた。
「うぅ」と微かな呻きを漏らしたが、アンタレスは目を開くことなく、そのまま寝息を立てはじめた。




