自主トレ
唇に残ったデネブの柔らかい感触に俺は動けずにいた。
この先、デネブが誘惑を続けてきたら抗えず乗ってしまう時が来るのではないか。
デネブは可愛いし、胸も大きいし、そして積極的だ。
今日は寝起きで戸惑いが勝ったから追い払ってしまったが、二人きりで言葉を交わしながら少しずつ雰囲気が高まっていったら。
俺は自分がどうなってしまうか分からない。
もちろん彼女である琴美のことが気にならないわけはない。
しかし、琴美と付き合っていたのは元の世界。
こちらの世界でデネブと関係を持ったとしても、それは夢の中での出来事と同じような現実感のなさ、なわけで。
正直、あまり罪悪感もない。
元の世界に戻ったとしても、言わなければ琴美にもばれないし。
それに、最近琴美と疎遠な感じになっていて、あれはご無沙汰なのだ。
俺は鎮まらない股間の膨らみに目を落とした。
こちらの世界に来て、毎日が慣れないことばかり。
疲労が性欲を抑えつけて眠りを要求してくるのだが、元の世界では二日に一回は自分で処理していたことを思うと、デネブが言う通り溜まっているのは間違いない。
ここらで一発抜いておくか、とズボンに手を掛けた時、テントの中でカサッという音が聞こえた。
「ん?」
俺は手を止め反射的に音のした方を見る。
そこにはオセの大刀が横たわっていて、その上にぼんやり人の形が浮かび上がっていた。
これはもしかして……。
俺は慌ててズボンから手を離す。
「ひょっとして、……剣の精?」
俺が話しかけると、精の姿がくっきりと見えるようになった。
大きめの黒いローブを着て、フードを目深に被り、恥ずかしそうに顔を伏せている。
フードの陰から少し見える顔は色白でアスカロンの精よりも幼い感じがする。
「わ、わ、私、何も見てませんので」
精は頬を朱に染め俺に背を向ける。「気になさらず、いないものとして無視してください。ご自由にどうぞ」
そう言われても、狭いテントのなかですぐそばにいるのに無視するわけにもいかない。
うら若い少女の横で自主トレなどできるはずもない。
「君、名前は?」
「レ……ンです」
「え?」
声が小さすぎて聞き取れない。
「レーヴァティンです」
「レーヴァティン。君も剣の精なんだよね?」
「はい」
「ごめんね。君はオセと一緒にいたかっただろうけど、訳あってしばらく僕と一緒にいてもらうね」
「私のことはどうぞお構いなく。所詮、剣は宿り主を選べませんから」
レーヴァティンは話しながら何度も頭を下げる。
「随分、物分かりがいいね」
こういう奥ゆかしい精もいるのか、と僕は驚いた。
この迫力ある太さ大きさの剣からは想像できない性格だ。
アスカロンの精とは全然違う。
アスカロンは俺のことを完全に見下していたからな。「あと、変な鞘でごめんね。抜き身だと落ち着かなくて」
「鞘は服みたいなものなので、ないよりは断然あった方がいいです。前の宿り主が鞘を持っているので仕方ありません。これで結構です」
恐縮した様子でレーヴァティンは縮こまって礼を言う。
しかし、先ほどから全然目を合わせようとはしない。
相当な恥ずかしがり屋なのか。
そう言えば、レーヴァティンの鞘をオセが持っているように、アスカロンの鞘は俺が持っている。
アスカロンも鞘がないと落ち着かないだろう。
剣を奪われた俺のこと怒っているだろうな。
レーヴァティンも早く元の鞘に収まりたいだろうから、剣の交換だけでもしたいところだ。
正直、俺にはレーヴァティンは大きすぎて扱えない。
だからと言って今、オセとぶつかるのは避けたいが。
今頃アスカロンの精はオセと何を語り合っているのだろう。
オセ相手でもあんな風に強気に出るのだろうか。
オセ相手でも体を撫でてもらいたいのだろうか。
そう考えると少しだけ胸が詰まる感じがした。
剣のことで何で、と思うが、これも嫉妬というものなのか。
「なぁ、レーヴァティン」
「はい」
やはり呼びかけてもレーヴァティンはこちらを見ない。
「オセのところに帰りたい?」
俺の問いにレーヴァティンは「んー」と斜め上を見上げてほんの少し考える素振りを見せた。
「先ほども申し上げました通り剣は人を選びませんし、選べません。宿り主がどなたであろうと剣は剣の働きをするまで。ただ、私にあっているかどうかはあると思います。私は重くて太いですから、それなりに腕力のある方でないと扱うのは難しいようで」
重くて太い、と言いながらまたレーヴァティンは顔を赤らめた。
剣にもコンプレックスがあるのだろうか。
「アル。起きてる?」
また、デネブが俺の了解も得ずにテントに顔を突っ込む。「あら。お取込み中?」
俺がレーヴァティンに話しかけている様子を見て、デネブが艶っぽく笑う。
「どこがだよ!晩ごはん?」
「晩ごはんもそうだけど、ちょっと来て。お客さん。オセの剣も連れてきた方がいいかも」
「レーヴァティンも?」
俺はオセの大刀を持ってテントから出た。
そして固まった。
見たことのない生き物が羽を羽ばたかせて中空に漂い俺を見下ろしている。
それはライオンの体だが、その背に大きな羽を持っている。
羽がファサファサと上下動をして、その度に俺の体を揺さぶるほどの風が起きる。
デネブが風で飛ばされそうになるのを堪えながら、「ヴァプラよ。魔族の使者だわ」と叫ぶ。
「その使者が何の用だ?」
俺も腕で顔を覆い、デネブに向かって声を張り上げる。
「見て。口元」
デネブに指差され、ヴァプラの顔を見上げる。
ヴァプラは何かくわえていた。
細長く、鋭い。
見覚えのあるオレンジのライン。
「アスカロン!」
ヴァプラはゆっくりと地上に降りた。
そして、体を伏せ、アスカロンを地面に置く。
「交換ってことか?」
俺がレーヴァティンをヴァプラに向けて示すと、ヴァプラはゆっくり瞼を閉じ、そしてゆっくり開いた。
俺の言っている意味が分かり、そのとおりだ、と言っているように思えた。
俺はゆっくりとヴァプラに近づいた。
「アル。気を付けて」
デネブが心配そうな顔でペンダントを握り、右手を俺に向かって差し出す。
何かあれば魔法を放つ準備をしてくれているのだろう。
俺はゆっくりヴァプラの前脚の間に入った。
見上げるとヴァプラと目が合う。
ヴァプラの顔だけで俺の上半身ぐらいありそうな巨体だ。
ここで噛みつかれれば一巻の終わりだが、ヴァプラには百獣の王の貫録があり、卑怯なことはしないだろうという自分勝手な安心感があった。
俺は屈んでアスカロンを拾い上げ、同じ場所にレーヴァティンを置いた。
「きっとまた、会うんだろうな。レーヴァティン。その時はお手柔らかに」
俺はヴァプラから目を逸らさず、ゆっくりと後ずさりした。
俺が前脚から離れると、ヴァプラは器用にオセの大刀をくわえ、「ガルッ」と一吠えした。
羽を羽ばたかせ風を巻き起こすと軽々と飛び上がり、俺に一瞥をくれると、ゆっくりと旋回してあっという間に去っていった。
「はー、怖かった」
デネブがペンダントを握ったまま座り込む。「せっかく作ったご飯がひっくり返っちゃったよ」
デネブが言う通りヴァプラの風でテーブルも椅子も鍋も全てがひっくり返っている。
「おい。早く私を洗え。ヴァプラの唾液が臭くて死にそうだ」
ハッと振り返るとすぐ隣にアスカロンの精の不機嫌そうな顔があった。
見下ろすとアスカロンの刀身がべったり濡れている。
帰ってくるなり、命令だ。
俺は川に向かって走った。
川べりに蔓が茂っていたので引きちぎる。
今日はこれでアスカロンを体に巻き付けて寝ることにしよう。
もう、機嫌を損なうのは勘弁だ。




