剣の精
野宿は想像以上に快適だった。
デネブの魔法で温かい食事はとれたし、風呂にも入ることができた。
コップに汲んだ川の水を温度系の魔法で温め、サイズ系の魔法でコップごと大きくすれば立派な露天風呂の出来上がりだ。
湯に浸かりながら見上げる夜空は美しかった。
星の数は俺の田舎町も負けてはいないが、月ぐらいの大きさの星が五つも現れたのには驚いた。
流れ星がそこかしこを走り、赤や青や緑のオーロラのような淡い光の帯が上空から垂れこめる。
そして美しいのは空だけではなかった。
川底には拳程度の大きさの青い光が幾つも輝いて水を滲ませ、幻想的な雰囲気を醸し出した。
苔の一種だということだが、これを見られただけでもこの世界にきてよかったと思うほど美しかった。
「アル。入ってもいい?」
テントの中でまどろみかけていたら、すぐ外からデネブの押し殺したような声がした。
慌てて上体を起こし、「え?どうしたの?」と質問で返す。
同じパーティーの一員とは言え男と女だ。
夜中にテントという狭い空間に二人きりというのは問題があるのではないか。
それとも、こちらの世界では異性との距離感について俺の感覚は非常識なのだろうか。
俺の問いかけを無視してテントの入り口を開き蝋燭の灯りと共に現れたデネブは昼間とは違う淡いベージュのローブ姿だった。
やはり胸には赤い宝石のペンダント。
どうやらデネブにとってこのペンダントはなくてはならない大事なもののようだ。
「毛布、持ってきたの。テントだとどうしても夜中は寒いから」
なるほど。
これはデネブの気遣い、優しさなのか。
変な勘繰りをしてしまっていたことに恥ずかしくなる。
「ありがとう。助かる」
俺が笑顔で手を伸ばすと、デネブは毛布を俺に手渡しつつ、そのまま自然にテントの中に入ってきた。
デネブが座ると急にテントの中が窮屈な感じがしてきた。
温度も少し上がったような気がする。
今日という長い一日を乗り越えて、デネブとは気心の知れた安心できる仲間のように思えている。
しかし、こうして限られた空間に二人きりで向かい合うと、やはり落ち着かない気分になる。
デネブの方はいたって平然としているようだが。
「疲れてない?」
デネブが自分と俺の間に手を置いて少し体をこちらにずらした。
近い。
デネブの顔がすぐそこにある。
俺は思わず腰を引いた。
「ま、ま、ま」
慌てた俺は言葉が渋滞してしまう。
「ん?ま、がどうしたの?」
デネブの声が耳にこそばゆく甘く潤んで聞こえる。
「魔族ってさ、俺たちがテントにいる間、襲ってこないとも限らないよね。俺、見張りしてようかな」
立ち上がろうとする俺の手首をデネブが引く。
「大丈夫よ。ケルベロスを倒した後で魔液を集めてたでしょ。糊を水に溶かしたものにあれを混ぜてテントの周辺に噴霧してあるの。それで、魔族はテントの中のあたしたちのにおいには気付かないわ」
「そうなんだ。そのためにあの緑色の魔液ってのを集めてたんだね」
「そうよ」
デネブの顔がさらに近づいてきている気がする。
よく考えたら、俺の左手首はデネブの右手に掴まれたままだ。
「デネブ?」
「アル。あたし、アルって呼んでていい?それともワシオユーヤの方がいいの?」
「ど、どっちでもいいよ」
「じゃあ、アル。あたし、アルのワシオユーヤの話をもっと聞きたいの。アルは向こうの世界で彼女はいたの?」
「彼女?」
デネブの唇がいつの間にかすぐそばにある。
このままでは唇と唇が重なるのは時間の問題に思える。
「そう。彼女」
「いた、かな。うん。いたな。だから、ちょっと……」
デネブと距離を取ろうにも、しっかり腕を掴まれていて身動きが取れない。
そして逃れられない雰囲気もある。
デネブの全身から甘いいいにおいが漂ってきて、ずっと嗅いでいたい気持ちになるのだ。
「彼女とはどういうことするの?」
デネブが上目遣いで声を潤ませて訊ねてくる。
その仕種に俺はますます困惑する。
デネブが可愛く見えて仕方がない。
これも魔法なのか?
「え?どういうことって?」
「彼女と会えないと寂しいでしょ?だから、今日はあたしがアルの彼女の代わりをしてあげたいなって。彼女にしてもらうと嬉しいことある?教えてくれたら、あたしがしてあげる」
いつの間にか俺は横倒しにされていて、デネブが俺の体の上に上体を預けてきている。
豊かな胸が二の腕に押し付けられていて得も言われぬ快感に気が遠くなりそうだ。
「ア、ア、アンタレスは?」
「心配ないわ」
デネブはペンダントの赤い石を握りながら笑った。「ぐっすり眠らせてあるから」
眠らせてある?
眠っているじゃなくて?
アンタレスに何かしたな。
しかもそのペンダントを握るのは魔法を使う時じゃないのか。
俺に何か魔法をかけようとしているのか。
「失せろ。尻軽女」
不意に若いが棘のある、デネブとは別の女性の声がテントに響いた気がした。
え?
俺とデネブは一瞬見つめ合った後、辺りをキョロキョロ見回した。
と言ってもテントの中なのですぐに見終わってしまう。
「目障りだ。出て行け」
また同じ声が聞こえた。
俺とデネブは声がした方を向いた。
そこには宝剣アスカロンが横たわっている。
そのアスカロンの上にぼんやりとだが何かが浮かび上がってくるのが見えた。
デネブが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
「仕方ないわ。帰るね、アル」
デネブの声に先ほどまでの潤みは一切なくなっている。
甘い雰囲気もたちどころに霧散した。
能面のように表情を消してデネブはそそくさとテントから出て行った。
何だ?
一体何が起きているんだ?
アスカロンの上にはいつの間にか女性の座っている姿があった。
金色の長い髪が真っ直ぐ胸のあたりまで下りている。
その胸はブラジャーのようなもので覆われているだけで肩も腹も白い陶器のような素肌が見えている。
腰回りは短いスカートを身に着けていて、そこからまた生の美脚がすらりと伸びている。
彼女は胸に垂れた髪を手で背中に押しやり、射抜くような流し目で「抜きたいか?」と言った。
「はい?」
登場していきなり下ネタ?
「だから、剣を抜きたいのかと訊いているのだ」
ああ、そういうことか。
「はい。抜きたいです」
そう答えたものの、彼女の露出度の高い格好に目のやり場に困りすぐ俯いてしまう。「あのう、どちら様ですか?」
「名か?我が名はアスカロン。剣の精である」
剣の精?
この世にそんなものがあるのか?
しかし、ここは俺の知っている「この世」とは言えないか。
この女性はまさにアスカロンの上に浮かび上がって現れた。
いかにも精という存在らしい出現の仕方だ。
不意にアンタレスの言葉が思い出される。
アンタレスは、アスカロンに訊いてみろ、と言っていた。
「どうして今日僕は抜けなかったのですか?」
「まずはお前の腕前を確かめたかったからだ。初めて会ったその日に簡単に体を許すような真似をするわけないだろう」
「体を許す?」
そういう発想になる?
そもそも剣なんだから鞘に収まっていては意味がないじゃないか。
「お前なぁ。鞘から出たら私は裸なんだぞ。下手な奴に裸の私を扱われてたまるか」
「すいません」
確かに剣の身になったらそういうものかもしれない。「で、結果はどうだったでしょうか?」
「まあ、ギリギリ合格というところだな。お前、ここのところ日ごろの鍛錬を怠っているだろ。もっと精進しろ」
「はい。すいません」
さすがは剣の精だ。
最近竹刀を握っていなかったことがばれている。
「それから、夜は女を近づけるな。寝るときは私を抱き、優しく撫でながら寝るように。分かったか」
「あ、はい。分かりました」
返事をすると精はスッと消えた。
俺は恐る恐るアスカロンの隣に身を横たえ、半信半疑ながらも言われた通りその柄や鍔や鞘をゆっくり撫でまわしながら眠った。




