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朝倉家一門衆(同名衆)

<一門衆 五代目当主・朝倉義景の世代>


⇔朝倉景鏡 兵1000。(1530~1574)土橋信鏡・孫八郎・式部大夫・大野郡司。朝倉景高の息。母は鳥丸冬光の娘。美濃方面担当。朝倉一門の大身、父の代から宗家に対抗する。1564年朝倉景隆とともに加賀出征。総大将争いで朝倉景光が自害。1567年足利義昭御前での朝倉一門席次抗争、対朝倉景紀。1568年、足利義昭辻警固衆。1570年「姉川の合戦」に出陣。1570年志賀坂本において、織田信治・森可成・青地茂綱を撃破。堅田でも坂井政尚を破る。朝倉景紀との総大将争いや、度々の遠征の疲弊から出陣を拒否し、1573年信長の越前進攻に呼応して当主・義景を死に追いやる。越前国大野城主。弟に在重。


⇔朝倉景健 兵1500。(1537~1575)安居景健・孫三郎・足羽郡司。朝倉景隆の息。景鏡とともに総大将格。1570年頃兄の三人が相次いで死亡し末子・景健が家督相続。1568年、足利義昭辻警固衆。1570年「姉川の合戦」には第3陣・総大将として出陣するが敗北。1570年志賀坂本において、織田信治・森可成・青地茂綱を撃破。1570年京都に浅井軍と共に駐留。1573年朝倉滅亡後は信長に属す。越前国安居城主。1574年越前一向一揆に降服。1575年信長の命で誅殺される。


⇔朝倉景綱 兵500。(*~1575)織田・兵庫頭・兵庫助。越前織田領主。義景の叔父・朝倉景延の息。1573年に信長に属す。海軍。丹生郡織田城主。


朝倉景行 兵2000。(*~1573)北庄・景行・土佐守。北ノ庄城主・朝倉景範の息。北ノ庄城主。近江刀禰坂に戦死。


鳥羽景房 兵800。(*)元・朝倉一門衆。朝倉家外様衆。<もともと朝倉家の分家です。>


青蓮華景基 兵700。(*)勝蓮華・近江守。元・朝倉一門衆。坂井郡正蓮華村在地領主。朝倉家外様衆。息に景継。<もともと朝倉家の分家です。>


 前線基地・敦賀郡・敦賀湊


朝倉景光 (*~1564)孫九郎・敦賀郡司。孝景弟・朝倉景紀の嫡男。四代・朝倉孝景の甥。名将・朝倉(宗滴)教景の孫。1557年頃家督を継承する。1562・63年若狭武田家に協力し粟屋氏の反乱を鎮圧。1564年加賀に出征。朝倉景鏡と総大将争いに敗れ自害する。<子息・道景は朝倉義景の養子となるカ。>


半田* (*)又八・又八郎。敦賀郡司・朝倉家の侍大将。1563・65年若狭に進攻する。


朝倉景恒 兵3000。(*~*1570)中務大輔・敦賀郡司。朝倉景紀の息、名将・朝倉(宗滴)教景の孫。出家するも1564年兄・景光の自害により家督。1570年織田信長の越前進攻に前線の守将となるが敗北。越前に退去するが行方不明。金ヶ崎城主。


⇔▽朝倉景盛 兵1000。(*~1574)敦賀景盛・出雲守・景亮・敦賀郡司。朝倉景尚の息。1568年足利義秋の朝倉館訪問に列座。近江方面の旗頭。1573年信長に属す。<敦賀の朝倉景冬、景豊の系統は謀反で断絶。その跡職は朝倉教景が引き継ぐ。>


▽竹内* (*)三助。朝倉出雲守・敦賀家家臣。1573年虎御前山に夜襲をかける。<松永久秀家臣、竹内秀勝の一族か?。>


▽上村* (*)内蔵助。朝倉出雲守・敦賀家家臣。1573年虎御前山に夜襲をかける。


▽織田景信 (*~1574)敦賀。朝倉景冬の息。信長に属す。<景冬の養子か?。>


▽朝倉景嘉 (*)修理亮。1568年将軍足利義昭辻警固衆。1573年浅倉家滅亡に上杉謙信を頼る。上杉家家臣。<敦賀朝倉氏が修理亮を名乗るらしい。>


▽寺田* (*)采女正。朝倉景恒の拠る金ヶ崎城の前衛。1570年若狭国佐柿城・武藤上野守を降した織田軍の攻撃を受け落城。手筒山城主。


疋田* 兵1500。(*~1570*)右近。1570年織田軍に降伏。手筒山守将。疋田城主。<疋田斎藤家?>


疋田* (*~1573)六郎三郎。織田軍の越前侵攻に栂野吉仍とともに籠城し戦死。疋田城主。<疋田斎藤家?>


(第6世代)

<一門衆 義景の次世代>

▽朝倉道景 (*~1573)彦四郎・権頭。敦賀郡司、朝倉景恒の息。名将・朝倉(宗滴)教景の曾孫。義景の跡の嫡流となる人物カ(名乗りから朝倉義景の養子カ)。近江刀禰坂に戦死。17歳。<貞景の息(5男)波多野道郷の息が波多野道景。同一人物か。景恒、義景と縁があったか。>



<朝倉家同名衆>

一門衆から格下げされ家来衆の待遇。(掃部介家、玄蕃助・越中守家が代々一乗谷奉行両職。)


朝倉景頼 (*~1573)掃部助・与七。朝倉掃部助・景梁の息。池田庄寺島城主。国人・池田家目付け。「刃禰坂の合戦」に戦死。


朝倉景連 (*)玄蕃助。名将・朝倉(宗滴)教景の実子。朝倉越中守・景伝の養子。義景の代、臣下に下り一乗谷奉行<1550~1573>。1555年宗滴最後の加賀出陣に従軍。1555年に加賀一向一揆と菅生口で対陣。<一乗谷奉行の越中守家。>


▽朝倉景胤 (*~1573)三郎。景連の息。名将・朝倉(宗滴)教景の孫。「刃禰坂の合戦」に敗走。信長に属す。のち一向一揆に降り、誅殺される。<一乗谷奉行の越中守家。>


▽朝倉景泰 (*)(織田)・七郎。景連の息。名将・朝倉(宗滴)教景の孫。信長に属す。<一乗谷奉行の越中守家。>


三段崎* 兵500。(*)権頭。朝倉同名衆(朝倉庶流)。1568年、足利義昭辻警固衆。

▽三段崎紀存 (*~*1570)勘解由左衛門。朝倉同名衆(朝倉庶流)。朝倉景紀の与力。朝倉景恒の家老として、金ヶ崎城を死守。織田家の捕虜となる。


三段崎* (*~1573)六郎。「刃禰坂の合戦」に戦死。


三段崎* (*~1570*1573)八郎左衛門尉・勘右衛門。山内一豊の顔面に傷を負わすが戦死。息・新右衛門は上杉家、後北条氏、結城秀康に出仕。


↓溝江長逸 (*~1574)大炊助。朝倉同名衆。義景家臣。溝江郷の豪族。景逸の息。1568年足利義昭の朝倉屋形御成の際に同名衆として申次。外様衆・堀江氏と領地が西に隣接し、牽制する役割を担う。堀江景忠親子謀反の際に居館が本陣となり、堀江氏の本庄館と抗争。堀江氏は加賀に落ちる。織田家に通じ、朝倉滅亡後に北ノ庄遠江守の領地を得る。1574年一揆の蜂起により自害。息の長澄は秀吉馬廻。のち井伊家に出仕。

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