武田家譜代家老衆(信玄世代)
馬場信春 120騎(1514*1515~1575)教来石信房・民部少輔・美濃守・景政・信勝。武川衆出身。直属の士隊将に抜擢される。譜代家老家。「四天王」のひとり。1568年今川征伐に先鋒を務め軍功。1572年美濃岩村城攻略に活躍。1572年「三方ケ原の合戦」に軍功。信濃国更科郡牧之島城主。のち深志城主。座右の銘「戦場常在」。1575年「長篠の合戦」に討死。62歳。飛騨方面旗頭。息に民部少輔。
▽岡部* (*)治部。駿河衆・岡部正綱の弟。馬場信春に属し1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
▽落合* (*)市之丞。甲斐国西八代郡市川大門の豪族。馬場信春に属し1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
内藤昌豊 250~300騎(1522*1524~1575)工藤祐長・源左衛門尉・修理亮・昌秀。工藤虎豊の息。武田信虎に一族が誅殺され諸国を流浪。晴信の代に帰参し、1568年内藤家相続。譜代家老家。「四天王」のひとり。勝頼の許可を得て、保科正俊の息を養子とする。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に討死。のち馬場に代わり深志城主。浅利信種戦死後、上野国箕輪城主。上野方面旗頭。52歳または54歳とも。養子に内藤(保科)昌月。
高坂昌信 150(450)騎(1527~1578)春日虎綱・香坂・源助・弾正忠・晴久・昌宣。石和の大農家、春日大隈の息。16歳のときに出仕。近習小姓。使番衆から城持ちに出世。譜代家老家。「四天王」のひとり。世に「逃げ弾正」と讃えられる。信濃安曇郡香坂氏の養子。嫡子・昌澄は1575年「長篠の合戦」に討死。小諸城主、尻飾城主、信濃国埴科郡、海津城主。北信濃方面旗頭。北信濃川中島四郡(埴科・水内・高井・更科郡)の代官。息に昌澄、信達(駿河三枚橋城主。)。
原 昌胤 120騎(1526~1575)隼人佐・昌勝。陣場奉行・昌俊の息。譜代家老家。諏訪勝頼の補佐役。1575年「長篠の合戦」に討死。息に昌引。<信玄曰く「陣取りは昌胤に任せよ」。>
▽原 昌引 (*)宗一郎。昌胤の息。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。
浅利信種 120騎(*~1569)式部丞・式部少輔・右馬介・右馬助・信音。浅利郷領主、浅利伊予守虎在の息。譜代家老家。甘利昌忠の後、上野箕輪城主。上野方面旗頭。1569年相模「三増峠の合戦」に討死。跡職は昌種が継承。<なんだかんだで一門から譜代家老に降格か。>
跡部勝資 300騎(*~1582)大炊助・尾張守。譜代家老家。信秋の息。弟に昌秀。1570年家督。勝頼後見・補佐役、原昌胤とともに両職。長男・又八郎(信業)は上野国和田業繁の婿。甲斐宮地塚郷。1561年第4次「川中島の合戦」に従軍。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1572年信玄の死後、勝頼の重職として活躍。1582年諏訪で討死。諏訪方面旗頭。娘婿に朝比奈信良。息に昌勝。<甲斐守護代家の跡部氏の末らしい。><大身の跡部家のほう。>
栗原詮冬 100騎(1525~*)左兵衛・左衛門・(信盛?)。甲斐栗原郷領主、信盛(昌清)の息。譜代家老家。父・信盛は譜代家老衆200騎持。<事績が先代と混同されているかもしれません。><なんだかんだで一門から譜代家老に降格か。>
小山田昌行 70騎(*~1582)(上原昌行)・備中守・御備中・昌成。譜代家老家。(上原)古備中・昌辰(虎満)の息。小山田信茂の一族(分家し独立した別家)。真田幸隆を補佐し信濃雨飾(尼飾)城主。1568年蒲原城攻略に武功。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1575年「長篠の合戦」に松平主殿助・伊忠を討取。高遠城にて仁科盛信とともに討死。<もともとは飯富家の与力かもしれませんね。>
▽小山田昌重 (*~1582)(上原)・六左衛門・大学(助)・信常・昌貞。昌行の弟。1568年蒲原城攻略に武功。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。1582年高遠城にて仁科盛信とともに討死。<上原流の小山田の一門のようです。>
↑室住虎登 50騎(1495*1500~1564)板垣直方・諸角・玄蕃允。士隊将家。侍大将。豊後守・昌清(虎定)の養子。弟の板垣信経とともに兄・信形を補佐。上原城留守居。信濃国柏鉢城主。息に昌守、本田重政。<譜代家老に格下げ?。><事績が先代と混同されているかもしれません。><1570年に諸角助四郎は原盛胤と乱闘。>
▽成瀬正一 (*)吉左衛門。武田家臣、諸角与力。のち徳川家に帰参。
今福友清 70騎(*1513~1582)(武田)・石見守・浄閑斎。譜代家老家。公事(罪人を裁く係り)四奉行のひとり。1567年駿河久能山城。息に虎孝、昌和、昌常。信濃狩谷原城主。
↑金丸虎義 (*~1572)(一色)・筑前守。武田家準一門。足軽大将家。幼少より晴信に仕える。「使番12人衆」のひとり。士隊将のひとり。侍大将家。
↑小宮山昌友 30騎(*~1572)丹後守・虎高。信濃国南佐久郡の土豪。昌清の息。譜代家老家。諸住虎定の戦死後、一時上原(高島)城主、のち上野国の松井田城主。1572年遠江「二俣城攻略」に戦死。弟に昌照。跡職は友晴が継承。<馬場信房と先陣を競い戦死する。><二俣攻略は勝頼の大将としての武名がかかっているようなので奮闘し無理してしまったのでしょうか。>
▽小宮山昌照 (*)民部。信濃国南佐久郡の土豪。昌清の息。兄に昌友。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。
初鹿野忠次 (*~1561)源五郎。使番12人衆のひとり。侍大将家。1561年第4次「川中島の合戦」にて戦死。跡職は加藤昌次(昌久)が継承。
山県昌景 300騎(1529*1530~1575)飯富昌景・源四郎・三郎兵衛。飯富虎昌の弟。晴信補佐役。「四天王」のひとり。近習小姓、使番、士隊将となる。譜代家老家。1565年兄・飯富虎昌を讒言。1572年上洛軍の別働隊を率いる。1572年「味方ケ原の合戦」に軍功。1575年「長篠の合戦」に討死。47歳。駿河庵原郡、江尻城主。駿河方面旗頭。息に昌満(駿河田中城主)。養子に三枝守友(山県昌貞)、荻原定昌(山県定昌)。
▽小菅忠元 (*~1582)(山県)。山県昌景の一族。1569年「三増峠の合戦」に武功。1575年山県昌景の与力から、足軽大将となる。1582年信濃高遠城の攻防で戦死。
↑秋山信友 50~350騎(1527*1531~1575)晴近・伯耆守・虎繁。伊奈郡大島城主。1572年「味方ケ原の合戦」に軍功。美濃岩村城主。「長篠の合戦」ののち織田信忠軍団3万の攻囲をうける。籠城5ヶ月、一命をもって城兵の助命と交換で開城する。美濃方面旗頭。
加藤景忠 (*~1575)上野原の加藤氏。虎景の息。1561年上杉家と抗争する北条氏康の援軍要請に応え武蔵国由井へ後詰の将。弟は初鹿野家を継承する。跡職は養子の勝沼信厚が継承。上野原城主。




