表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/47

三河碧海郡 内藤氏

(三河 内藤氏)藤原道長の後裔とも。


内藤清長 (1501~1564*)弥次右衛門。碧海郡上野下村城主。弟に清正(清政・忠郷)。内藤家長の父。甥に正成。1542年上野城の攻防、織田家撃退に弓で軍功。1563年三河一向一揆に一揆方。息子に家長、信成。


内藤家長 (1546~1600)金(喜)一郎・弥次右衛門。清長の息子。碧海郡上野下村城主。幼少より家康に近侍。1560年織田丸根砦攻略に従軍。家康の「家」の字を拝領する。1563年父・清長は一揆に参加。酒井忠尚退去後の上野城主。常に石川軍団の先手を務める。1570年「姉川の合戦」に奮戦。1572年「味方ヶ原の合戦」に殿軍を務める。1575年「長篠の合戦」に一手役。甲斐常光寺城主。1590年関東移封に伊豆韮山1万石。1600年伏見城死守を命じられ鳥居元忠とともに戦死。息子に政長。


内藤信成 (1545~*)(徳川・松平)・三左衛門。内藤家長の庶兄(清長の養子)。松平広忠の息子(徳川家康の異母兄弟)とも、母は清長の姉。松平元信(徳川家康)の「信」字を与えられる。内藤家家老。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍。


内藤忠村 (*)甚五左衛門・忠郷。内藤家長の従兄弟。1575年「長篠の合戦」に従軍。


内藤正成 (1527*28~1602)甚一郎・四郎左衛門・政成。幡豆郡羽角の豪族。内藤清正(清政)の弟(息子とも。養子か?)。弟に忠政。松平広忠の側近。のち叔父・内藤清長の家臣。弓の名手。1560年大高城攻略に活躍。1563年三河一向一揆鎮圧戦に軍功。石川軍団に配属。武勲を織田信長から絶賛される。1590年関東移封に5000石。のち徳川16神将のひとり。息子に正貞。


***********

(本編での登場人物)


内藤清長

・・・誓願寺入道 と名乗らせてもらっています。歴史的には1564年頃に敵対して征伐され消息不明となっていますが。強制的に隠居させられて、ご在命ということにしました。内藤惣領家の復活を目論んでいます。

鳥居家も誓願寺とは縁があるようですし、山科言継の日記に登場する、朝廷に献金した誓願寺は誰を指すのだろうと悩むところです。


内藤家長

・・・内藤家の復権の為に努力しています。歴史的にも前線にて先陣の役目を命じられ酷使されたのではないのでしょうか。


内藤氏が、武田氏と共にあるのは、安芸や若狭、それに甲斐の国の様子を見ても明らかです。

三河の内藤氏は、若狭武田氏に従い管領・細川氏の命で派遣された武士団の中にいたか、

もしくは、守護・一色氏に従い若狭から移住した一団か、

もしくは、甲斐武田氏の一門である巨海このみ氏に従い三河へ移住した一団の中にいたものか、

という感じですが。


三河の中で所領が分散していれば、各時代各氏族に分かれて次々と来たことも考えられますし、一か所集中型ならば単発的に移りすんだかもしれません。


いずれにせよ、内藤信成の「信」字の由来なども含めて、謎の多い内藤氏ですが、独立的な傾向が強かったと言える豪族なのではないでしょうか。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ