三河蒲郡 鵜殿氏
鵜殿氏は、藤原泰衡後見人・熊野別当の後裔。
(上ノ郷)
鵜殿長持 (1513~1557*1562)(今川)・藤太郎・長門守。長将の息。三河蒲郡(西郡)の国人領主。義元の妹婿。1516年鵜殿長将、没。親今川派として三河支配の重鎮。娘(養女?)は徳川家康の側室(蓮葉院)に。三河上郷城主。1562年徳川軍に攻囲され戦死。息に長照、長忠。<形原・五井・竹谷などの信光流の松平氏が周辺に存在します。松平諸家は、いつからそこにいるのか。もともとは鵜殿家の家臣として、その周辺の城主だったりしないのでしょうか。>
鵜殿長照 (1531~1562)(今川)・蔵太郎。今川家一門衆。三河蒲郡の国人領主。長持(1513~1562)の息。父・長持は義元の妹婿。三河上郷城。尾張大高城主。今川家に忠節を尽くす。1560年「桶狭間の合戦」以降、三河国にて今川勢力として奮闘するが父は戦死し、弟とともに捕虜となる。人質交換として徳川信康が解放され、今川家に戻る。1562年徳川軍に攻囲され戦死。三河西郡城主。長照は伴与七郎に討たれた。
鵜殿氏長 (1549~1624)(今川)・上郷鵜殿・三郎・新七郎・石見守。三河宝飯郡の豪族。元・今川義元家臣。鵜殿長照(*~1562)の息。弟に氏次。1562年家康により居城を攻撃され捕虜。松平信康と人質交換となる。今川家に戻り遠江二俣城主・松井宗恒の与力。1568年徳川軍に降伏臣従。1570年「姉川の合戦」、1575年「長篠の合戦」に従軍。1590年関東移封に従う。養子に氏信。上ノ郷城主。
鵜殿氏次 (*~1600)(今川)・上郷鵜殿・藤三郎。深溝松平家忠の与力。三河宝飯郡の豪族。元・今川義元家臣。鵜殿長照(*~1562)の息。兄に氏長。1562年家康により居城を攻撃され捕虜。松平信康と人質交換となる。のち再び降伏。臣従し深溝松平家忠の与力。1600年「伏見城の攻防戦」に戦死。
(柏原鵜殿家) 鵜殿長忠。
鵜殿長祐 (*~1564)柏原鵜殿家。今川家直参。長持の弟。養子に長忠。1544年歌師宗牧を接待。1564年三河一揆に渡辺守綱に討たれる。
鵜殿長忠 (*)藤助。柏原鵜殿家。長持の息。長祐の養子となる。今川家の武将・小原鎮実の与力。桶狭間後は下ノ郷の玄長に従う。息に長次。娘(西郡局)婿に徳川家康。
(不相鵜殿家)
鵜殿長景 (*)長持の叔父。
(下ノ郷) 鵜殿玄長。
鵜殿長存 (*~1543)又三郎。長将の弟。息に玄長。
鵜殿玄長 (*)長存の息。1544連歌師宗牧を接待。息に長龍。
鵜殿長龍 (*)1565年下ノ郷の長存寺壁書を残す。1590年家康の関東移封に従う。息に長信。
鵜殿長信 (*~1592)八郎三郎。下郷鵜殿氏。長龍の息。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に藤助。西郡城城主。
(鵜殿・三木松平)
鵜殿康孝 (*)三木松平・(十郎三郎)。松平信忠の息。清康、三木松平信孝の弟。1536年三河に侵入した織田信秀を兄とともに撃退。酒井軍団に所属。息に康定。
鵜殿康定 (*)三木松平・(八郎三郎)・康忠。松平康孝の息。酒井軍団に所属。1579年家康に従い、岡崎信康の謀反に警戒。北端城の守備に入る。以降消息不明。
・・・・・・・・
上ノ郷が嫡流の様子です。下ノ郷も分流として家格が高い様子。
1567年正月席次の国衆筆頭にある八郎三郎は長信でしょう。
それから、紆余曲折があった事が想像され、1579年の信康追放に動員された鵜殿氏は、
長信の嫡子が廃嫡されて、三木松平から来た康定の事なのではないかと想像されます。