鮮血の聖母
ファンタジー。少女と魔剣。シリアス。
少女は待っていたのかもしれないと、私は思う。誰よりも強く美しかった少女は、けれど生きる事を放棄していたように思える。頭の高い位置で結わえた髪は色の全く混ざっていない純白で、その瞳は深みのある冷ややかな真紅。色の白い肌に細い肢体。今にも折れそうな程に細い腕で剣を振るい続けた、哀しき剣士。
汚れなき、清らかな乙女。殺さねば殺されるという戦乱の時代を駆け抜けた少女。何の為に、誰の為に彼女は戦い続けていたのだろうか。今になっても解らない。誰よりも近い所にいた筈だというのに、彼女の事を私が理解できていないのは、けれどひどく自然な事のように思える。
私の名は、ルーン。かつて少女・アーディアの片腕として敵を屠り続けた古の魔剣。永き時を経て意志を宿したその魔剣こそが、私なのである。
鮮血の聖母。いつからかそう呼ばれるようになった少女・アーディアは、魔剣の私ですらうんざりするほどの血臭も死臭も戦乱も、すべて淡々と見詰めて受け止めるような性格をしている。アーディアと初めて出会ったのは6年ほど前だった。彼女はまだ10歳ぐらいのあどけない少女であったと、私は記憶している。少なくとも、顔立ちは。
暗い冬の夜空に血のように紅い満月の輝いたその日、全身を他者の血で染め上げた暗い瞳の少女は私の前に現れた。当時私は、私の力を恐れた聖職者達に封じられ、身動き一つできない状態だった。血塗れの少女を、死臭を纏いながら尚汚れなき少女を、私は美しいと思った。だからこそ、呼びかけ問いかけた。彼女ならば、私が口をきいても受け止めてくれそうだと思ったのかもしれない。
——娘、何をしている?
——……言葉を話せるの?
——如何にも。我は魔剣。名はルーン。そなたの名は?
——アーディア。罪人アーディアよ。
自らを罪人と称す少女に、私はひどく心躍るモノを感じた。永い時間を封印の中で過ごしていた私にとって、少女は面白いモノだと思えたのだ。アーディアの幼い顔立ちの中、冷え切った瞳が空洞のように飢えきっていて、私はその眼球に触れたいという衝動に駆られた。もっとも、魔剣である身で触れるなどという事はアーディアの瞳を傷つける事に他ならず、そのような事はしていないが。
魔剣である私が、誰かを望むというのはあまりにも異質すぎる事であったのだろう。けれど、私はアーディアの生き様に興味を持ち、彼女は私の力に興味を持った。だからこそ彼女は、私の戒めを破壊してくれたのだ。
解放された私を、アーディアの細く幼い掌が握りしめた。柄の部分に感じた高めの体温の、まだどこか頼りない掌の感触。私はそれを、今でもはっきりと覚えている。
そう、それが始まりだったのだ。どこか感情の欠落した10歳の少女と、意志を持った魔剣である私。私達の出会いは、確かに運命の欠片であったのではないかと思う。そうでなくては、なぜ私がこれほどまでに心躍り、たかが人間などという存在に興味を持ったのかが解らない。
不意に、柄に触れていた掌が、力を込めた。意識を過去の記憶へととばしていた私を呼び戻す時の、アーディアの癖だ。言葉など使いはしない。そんなモノは必要ないとばかりに、彼女は必要最低限の言葉ぐらいしか口にはしない。意志の疎通が図れるのだから、苦労はしないが。
「ルーン。」
「如何した、アーディア。」
「来る。」
「承知した。」
アーディアの声は耳に心地よい。無機質な、硬質的とさえもとれる淡々とした声だからこそ。本来ならば生命を持たぬ鋼の身であるが故か、私は温もりを宿した肉声などには興味はない。人間でありながら我々に近しいモノであるかのようなアーディアを、私は望んでいる。
アーディアの視線が夜の闇を裂き、刃を携えて駆けてくる傭兵崩れを見据える。この少女の瞳にはそこにあるモノしか映らず、そこにあるモノすら映らないだろう。人間など、いや、人間を含む生命など、彼女は微塵も気にかけていないのではないかと思える。後にも先にも、私がアーディアが口にする名を聞いたのは私のモノだけだ。なんと我らに近い欠けた精神の持ち主か。なんと、愛おしい事か。
………………愛おしい?魔剣であるこの私が、人間であるアーディアを?魔剣の中でも最凶と謳われるこの私が?短き寿命の中で足掻き、互いを傷つけあう事しか知らぬ人間の少女を愛おしんでいる?そんな事が、あっていいわけがない。あるわけがない。
「ルーン、斬り捨てろ。」
「…………っ、解っている。」
私の動揺など知らぬように、アーディアはいつもの口調で告げる。それに安堵しながら、私は目の前の男達に牙を剥く。魔剣となってからどれだけの時間が過ぎたのか解らないが、私は人間の血を浴びすぎている気がする。アーディアと組んでからは尚の事。
斬り捨てた男達が、アーディアをみている。風に靡く長い白髪と、真っ白な旅装を鮮やかな返り血で染め上げたアーディアを、男達は呼ぶ。まるでそう定められていたかのように。他の呼び名を知らぬかのように、ただ、呼ぶ。
——鮮血の聖母。
何故、そう呼ぶのか。何故、この少女が聖母なのか。私はアーディアを聖母だなどとは思わない。思えない。
この少女は、アーディアは、精神の欠けたモノなのだ。人間とは思えない程に心が欠落した、少女。だからこそ私はここにいる。アーディアの側に。だからこそ彼女はここにいる。私の側に。
ふと、気づいた。アーディアが、見ている。いつの間にそこに現れたのか、怒りの表情を浮かべた少年を、アーディアが見ている。あの、誰も視界に映さなかった少女が。あの、誰も見ていないアーディアが。
ふわりと、アーディアは微笑した。柔らかな、少女めいた微笑。私の知らないアーディアがいる。アーディアではない何者かが、そこにいる。そう思った瞬間、私はひどく衝撃を受けた。自分でも解らない感情の元に。
「久しぶりだな、リージス。」
「やっと見つけたぞ、アーディア!この罪人め!!!」
「そう、私は罪人。では、おまえが私を裁くのか?」
「ふざけるな!!」
「アーディア!」
思わず、私は声を荒げてしまった。遠くを見詰めるような、凪いだ瞳をしたアーディア。彼女に向けて短刀を手に駆けだしてくる、まだ幼さ残る顔立ちの少年。少年の短い黄金の髪がその勢いで揺れる。憎悪だけを宿した青の瞳が、まっすぐにアーディアを睨みつけていた。
アーディアがどうするか。私には解ってしまった。凪いだ瞳。穏やかな表情を浮かべるアーディア。その胸元に、年頃の少女にしてはやや小振りかもしれない胸に、短刀の切っ先が吸い込まれていく。小さく呻く声が、私の頭上からした。
深く、深く潜り込んだ刃が、アーディアの心臓を貫いている。私にはそれが解った。私を握りしめるアーディアの掌から、ゆっくりと力が抜けていく。私は絶叫していたのかもしれない。弾かれたように周囲を見渡す少年がいたのだから、恐らくそうだろう。
ぐらりと傾くアーディアの身体。つられるように、私も地面に叩き付けられる。どこか怯えるような瞳をした少年が、アーディアを見下ろしている。既に動く力さえ失った、抜け殻にも等しい少女を。
「……アー、ディア……っ。」
「……これで、やっと………………。」
「アーディア!」
私が聞き取れたのは、その言葉だけだった。彼女の掌から抜け出し、顔面の前に浮かんだ私を見て、アーディアは小さく微笑んだ。微笑んだように、私には思えた。彼女の微笑みなど見た事がないから、それが果たして笑みであったのかどうかは解らないが。
ゆっくりと目を伏せて、アーディアは何も言わなくなった。その肉体から魂が抜け出ていくのも、既に彼女が死んでしまったのだという事も、理性で理解していながら、私は認めたくはなかった。彼女が失われたのだという事実を、私はどうしても、認めたくはなかった。
リージスとアーディアが呼んでいた少年を、私は見た。自分でも不思議なほどに、心が凪いでいる。元来鋼の身。感情などというモノがあるとは思ってもいなかったが、ここまで冷え切ったのは久しぶりだと思う。初めて意識を宿した時の、無感動さにも似ていた。
「何故、殺した。」
「……っ、お前、魔剣……っ?!」
「速やかに答えろ。何故アーディアを殺した?この娘を、何故貴様ごときが手にかける?」
そう、そして、何故。何故アーディアは、それを受け入れた?まるでそれが当然の事であるかのように、何故彼女はそんな事を受け入れたというのだ?!穏やかに微笑みながら、安堵したような表情を浮かべながら、何故?!
「……アーディアは、兄と、義姉の、仇だ。だから、仇を討った。憎ければ殺しに来いと、そう言ったのは、アーディアだ。6年前に。」
「………………。」
「だから、俺は……っ!」
ならば、私がこの少年を斬り殺しても、仇を討ったと言う事で終わるのだろうか?いや、終わるまい。アーディアは、そんな事は望まないのだ。私には解る。あの娘は、満足していたのだ。殺される事に、ようやっと解放される事に。
いつの間にかリージスが立ち去っていた事に、私は気づかなかった。ただぼんやりと、既に事切れたアーディアを見詰めていたのだ。言葉すら失っていた。できるならば、この感情も、意識も、失ってしまいたい。誰かに使われるだけの、ただの鋼の身に戻りたかった。
これほどの苦しみを、嘆きを、痛みを、私は知らない。自らの何かを奪い取られるような、抉るような痛みなど、私は知らない。鋼の身で、何故それほどまでの思いを私は抱く?私は、ただの、魔剣であるというのに。
——…………ルーン。私は、聖母と救世主を殺した。故に、鮮血の聖母なのだ。
かつて、そうアーディアは語った。私は思いだした。その言葉を告げた時の、彼女の寂しげな横顔を。まるでらしくないと思い、私はそれを忘れてしまっていた。そして、その意味さえも、私は理解しようとはしなかった。
聖母と救世主とは、あの少年の兄と義姉の事だろう。何故殺したのかは知らない。私に出会う前に、彼女はその二人を殺してきたに違いない。だからこその暗い瞳だったのだ。彼女は恐らく、その二人を慕っていたのだろう。今の私は、そう考える。
生き続ける事に疲れていた少女。ようやっと死に場所を得た少女。私は、自らの持つ魔力を用いて彼女の身体を運んだ。彼女が時折漏らす言葉の端々から、水を好んでいる事を知っていた。だから、誰もいない湖に、彼女の亡骸を沈めた。
アーディア。今ならば私は解る。お前を理解できなかったのは、理解する事が怖かったからだ。人間に近くなる事で、私が魔剣でなくなるのが怖かった。お前を愛おしいと思うようになっていく自分が、私は怖かった。
だが、認めていればよかった。そうすれば、お前を守る事ができたのかもしれない。私のアーディア。鋼の身で初めて私が求めた少女。もう二度と、私は誰も求めない。お前が眠り続けるこの湖を守護しよう。
お前の眠りを、誰にも邪魔されないように。
昔、鮮血の聖母と呼ばれた、哀しい少女が、いた………………。
FIN