白の幻想 −血塗れの戦神
ファンタジー。傭兵二人。シリアス。
真白く世界を塗り潰せ。空から降り落ちるはかなき白よ。汚れなきまばゆき白の世界。雪よ、この世の朱を 埋めつくせ。
「……梓岐、何をしている?」
「見ろ、愈瑳。一面白の世界だ。」
「あぁ、雪か……。」
天幕の入り口を片手で押し上げながら頭を外に出した青年が、降り続ける雪を肩や頭に積もらせた青年を見ていた。前者は首の後ろで結わえた濃紺の長髪に、底冷えする蒼氷の瞳をしている。彼の名前は愈瑳という。
愈瑳の言葉と視線を受けながら振り返らなかった青年は、梓岐という名前だ。紫がかった白髪を短く切り揃えた、紅の瞳の美青年である。やや細身で中性的な顔立ちをしているが、柔和さとは無縁だ。それはおそらく、彼がまとう鋭利な刃にも似た雰囲気のせいだろう。
彼等は、傭兵である。戦場を渡り歩き、敵対者の生命を奪い、己の腕と才覚と運だけで生き延びていく者達だ。戦を繰り返す常冬の北の大地。その地に生まれたが故に、傭兵となり生きていく人々がいる。そしてその生き様は、時に故郷の民に、時にかつての友に刃を向ける事になるのだ。
望んで選んだ道だと、彼等は胸を張って言う。他の道など選べなかったのだと解りながらそう言うのは、彼等の誇り故だ。そして、梓岐と愈瑳にもその誇りは存在していた。
「風邪をひくぞ。」
「そこまで柔な身体をしてはいない。」
「いくら何でも戦闘の後だ。中に入れ、梓岐。」
「……。」
その言葉に、しかたないと言いたげに梓岐が足を踏み出す。天幕の中に戻ってきた親友の、見ているだけで冷えていると解る顔色に、愈瑳は無意識のうちにため息をついていた。弱まり始めていた火鉢に薪をくべ、どうでもよさそうな顔をしている梓岐を招き寄せる。自分というモノにとことん無頓着な梓岐は、怪我をしようと病を得ようとまったく気にしない性格をしていた。結果、愈瑳が世話を焼くようになる。
梓岐に熱い茶を渡した後に、愈瑳は結わえていた髪を一度解いた。長い髪が肩から滑り落ち、それまでとは異なる印象を与える。同じ天幕内にいた部隊の者達は、珍しいモノを見たと楽しそうに騒いでいる。その中でただ一人、梓岐だけが顔を歪めた。
梓岐の表情に気付いた愈瑳が、すまないと謝罪した後に手早く髪を結わえた。無造作に束ねられた髪が青年の動きに合わせて揺れる。ふいと愈瑳から視線をそらした梓岐は、手の中の湯呑みに眼差しを向けていた。今にも泣き出しそうな瞳で。
「悪かった。緩んでいたから結び直そうと思ったんだ。」
「……切れ。」
「梓岐、そこまで言うか?似合ってると評判なんだぞ?」
「似合ってなどいない。道化にしか見えないぞ。」
「……梓岐、すねるぞ。」
「勝手にしていろ。」
とりつくしまもないというのはこういう事を言うのだと、愈瑳は心の中で思った。それでも、どちらに非があるかは愈瑳にも解っている。だからこそ彼は、あえて何も言わずに苦笑するのだ。
失った遠い過去からの遺物。外の世界を覆いつくす雪の白が、心の傷さえ癒やしてくれれば良いのにと思う。愈瑳自身の傷と、梓岐が背負った傷とを。安らぎを甘受できずに、戦いの中に身を置く理由となっている傷を。
愈瑳には、恵那という名の妹がいた。彼とまったく同じ色彩の、長く伸ばした髪が風に舞う様がひどく愛らしい、幼い子供のように無邪気に無垢に微笑む、そんな少女だった。梓岐を庇って死んだ、一人の少女である。それは、彼らが傭兵になってまだ間もない頃、今から5,6年は前になることだ。それでも未だに、二人の傷が癒えることはない。
「とりあえず、それを呑んだら休めよ。俺達は早朝の警備担当だからな。」
「解っている。」
愈瑳の言葉に素気ない返事を返してから、梓岐は湯飲みの中身を口に含む。その表情は淡々としていて感情が読めず、彼の内面が酷く動揺し、とまどい、悲しみに染まっていると知る者はいないだろう。いつからだっただろうかと、愈瑳は思う。梓岐が感情を表に出すことが減り、他人を拒絶するようになったのは。
まぁ、良い。そんな風に愈瑳は思う。たとえ梓岐が他人を拒絶し、他人に誤解されても、愈瑳が側にいる限り、梓岐は梓岐であり続けるだろう。同じ痛みと記憶、そして掛け替えのない思い出を共有する彼がいる限り。そして彼もまた、梓岐がいる限り、愈瑳として生きていけるのだ。
早朝。警備に当たっていた彼らは、突然現れた敵の傭兵部隊と混戦に陥った。梓岐と愈瑳の眼前に立ちふさがったのは、隻眼の男だった。見覚えのある男である。他の誰でなく、恵那を殺した、敵とも呼ぶべき男。
梓岐の両眼が、炎のように燃え上がった。常の沈着ぶりをかなぐり捨てて、剣を携えて男に向けて走り出す。愈瑳の制止の言葉も、彼の耳には届かなかった。憎い仇であると解ってはいても愈瑳が梓岐を制した理由は、ただ一つ。隻眼の男は、人間の限界を超えたとしか思えないほどの実力を持った傭兵だったのだ。
「梓岐、よせ!」
「貴様だけは俺のこの手で殺してやる!!!」
「…………未熟。」
低い声が梓岐と愈瑳の耳を打った。感情を刮げ落としたような、酷く冷淡の声音だった。そのくせ、腹が立つほど良く通る。その言葉に神経を逆なでされた梓岐が、男に向けて斬りかかる。
登り始めた太陽が白刃を煌めかせ、その輝きに愈瑳は一瞬目を庇う。梓岐の渾身の一撃を片腕で支えた剣で受け止めた男は、目の前で復讐の鬼と化した梓岐に向けて小さな笑みを向けた。それは明らかな嘲笑。己のとうてい届かぬと解りきった者に対する、嘲りの微笑みだった。
男からいったん距離を取った梓岐が、いらだちを込めて再び躍りかかる。だがしかし、その身体を突き飛ばす腕があった。瞬間、梓岐の身体は揺らいで、たたらを踏むようにしてバランスを取る。弾かれたように横を見た梓岐の視界に映ったのは、自分を突き飛ばした愈瑳と、その背中から生える隻眼の男の大剣だった。
「愈瑳!」
「…………愚かな。」
「愚かは、どっちだろう、なぁ……?これでお前は、身動き、できないぜ?」
ごほっと血を吐きながら、愈瑳が唇を歪めて笑ってみせる。大剣を握る男の腕を右手でつかみ、左手に構えていた剣で男の脇腹を貫いた。痛みに顔を歪める男を見て、愈瑳はやはり笑みを浮かべた。これで、男が無理矢理にでも大剣を引き抜き、愈瑳の剣を抜かない限り、その動きは封じられてしまうことになる。
痛みをこらえるように眉を寄せながら、愈瑳が梓岐を見た。その唇が、言葉を発するより早く、梓岐はその意味を悟る。何故と、困惑を告げようとした唇は戦慄き、梓岐はゆっくりと二人に歩み寄った。隻眼の男の表情に、その時初めて感情が走った。愈瑳の身体を、振り払えないのである。
その理由は、何であったのか。男と愈瑳の身長差は軽く見積もっても10�pはある。愈瑳が小柄なのではなく、男が長身すぎるのである。それを考えれば、男が愈瑳を振り払うのはたやすいことであったのかもしれない。けれど、できないのだ。それは愈瑳の信念とでも言うモノが生み出した、強すぎる力だったのかもしれない。
「やれ、梓岐……ッ!」
「っ、うぁぁぁぁぁっ!!!!!」
怒りなのか、憎しみなのか、それとも己に対する憤りなのか、自分を支配する感情が何であるのかを理解できないままに、梓岐は剣を振るった。隻眼の男の首が切り捨てられ、宙を舞う。それが大地に落ちるのを見届けるより先に、梓岐は崩れ落ちた愈瑳の身体を抱き上げた。
その胸を貫いていた大剣を、慎重に引き抜く。声を張り上げて医療兵を呼ぶ梓岐の腕を、弱々しいながら確かな力で、愈瑳がつかんだ。良いんだと、穏やかに微笑む姿に、梓岐は恵那を見た。かつて自分を庇い、隻眼の男の刃に倒れた少女。その兄である青年は、少女と同じように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「愈瑳……、俺は…………ッ!」
「恵那の、仇が討てたな……。」
「お前、何で、こんな真似……ッ!」
「バカだな、お前……。大事な、幼馴染み、だろう…………?それに、お前を見捨てて、生き延びたら、恵那に、怒られる……。」
眠いなと、愈瑳が小さく呟いた。ゆっくりと閉じられ始める瞼を見て、梓岐が取り乱す。やめろと、よせと、目を開けろと、泣きそうな声で梓岐が叫ぶ。他の誰でもなく、相手が愈瑳であるから。理由はそれだけで十分だった。
恵那を喪った時、もう誰も大切なモノを作らないと、梓岐は決めた。残ったのは、愈瑳だけ。愈瑳は彼と同じように戦う術を持つ男だった。だから大丈夫だと、彼は思っていた。それなのに今、彼の前の前で愈瑳は倒れている。死にかけている。
「愈瑳、愈瑳……ッ!」
「…………梓岐、俺は……、俺達、は……。」
「愈瑳?やめろ、愈瑳、死ぬな…………ッ!!!!」
その続きを言うことなく、愈瑳の瞼は閉じられた。唇が動くことはなく、梓岐の腕をつかんでいた指から力が抜けて、ぽとりと地面に落ちてしまう。まるで、人形のように。
愈瑳の身体から溢れていた血液が、止まる。その紅で全身を染めた梓岐が、呆然と虚空を見上げた。腕の中で愈瑳が既に物言わぬ屍人形と化したことを、彼は嫌と言うほど確かに理解してしまったのだ。戦場で、山のように見てきたからこそ。
獣の咆哮のような叫びが、上がった。既に敵兵を撃退していた仲間達が、呆然としたように彼らの方を見た。血塗れのまま息絶えた愈瑳と、その血を浴びて血化粧を施された梓岐と。怖くなるほど鮮烈な印象を纏い、そして同時に、どこか非現実的にすら映る彼らの姿に、傭兵である者達が皆、一様に身体を震わせた。
梓岐の頬を伝った涙が、愈瑳の頬に触れる。その涙に溶かされるようにして固まり始めていた血が流れる。赤い涙が愈瑳の頬を伝い、その死に顔を染めていく。ただ、それだけが。
雪が、降り始めていた。その白が、戦場を覆い尽くしていく。梓岐にも愈瑳にも雪は降り積もり、彼らの紅を吸い取って、薄紅色に染まる。その様を見ながら、梓岐は涙した。喪った者の大きさに、ただ一人涙した。誰にも何も言わず、言わせないままに。
全てが白に染まり、それで世界が終わればいいのにと、青年は願う…………。
FIN