008
トルトが、死を覚悟した、そのとき。
――諦めるでない。
唐突に、重く響く声が聞こえてきた。以前もあった、神のお告げだ。すぐに分かった。しかし、この絶望的な状況で諦めるなとは、無茶を言う神様だ。今のままじゃあ、どんなに身をよじっても、やつの凶刃からは逃げられやしないんだから。
心の中で、トルトは文句をつけた。それに反応したのか、体の内側に、強大な力を感じた。感じたと思ったら、ぐわっと、大きく、自らの身から飛び出すように、力が広がった。一瞬のことだった。
トルトの身は、斬り裂かれなかった。
「――なにっ!?」
クラフティが、驚愕の声をあげる。結局、トルトはわけが分からぬままにクラフティの凶刃から逃れ、勢いに乗ったままごろごろと地を転がった。なんとか受身を取り、さっと顔をあげて状況を確認する。
クラフティの剣は、何かにはばまれていたようで、今ようやく振り下ろされたところだった。その顔は、驚愕に歪んでいる。クラフティの向こうでは、ワッリも同じように目を見開いていた。エルトゥネは、ぽかんと口をあけていた。
「……お前さん、加護を使えるのか!?」
加護。ワッリは、確かにそう言った。
「おのれっ! 継承者とやらはくだらん儀式を終えないと、インチキ光を使えないのではなかったのか!」
クラフティは、表情を忌々しげなものに変えて、吐き捨てるようにつぶやいている。
ふたりの言葉を合わせて考察すると、つまりトルトが、加護の力をもって、クラフティの攻撃から身を守った、ということになる。よく分からないが、身の内から力が解き放たれるような感覚を味わったことだし、おそらくあれがそうなのだろう、という説明はつく。しかし。
加護の力は、たやすく扱えるようになる代物ではない。神に認められ、その力の一片を授けられることによって、初めて操ることができるようになるのだ。神官の家に生まれなかった者にとっては、クラフティの言う儀式がそうであるし、その儀式を行う資格を得るために、トルトは旅をし、加護継承の認定記章を手に入れてきたわけだ。本来、トルトに加護は使えないはずだ。
トルトは、混乱した。確かに、加護の光でもないと説明がつかない状況だが、そもそもトルトはその加護を使えないはずではなかったか、と。顔にも、でてしまっているだろう。それほどの事態である。
「……ふん。貴様のその慌てよう、今のはまぐれと見た! ならば今度こそ、斬り捨ててくれるっ!」
トルトの様子を見たクラフティが不敵な笑みを取り戻し、斬りかかってきた。まともに相手にすることを避け、横に転がってかわす。かかんだままというわけにもいかないので、なおも打ちかかってくるクラフティに対し、立ち上がって応戦を始めた。再び、剣と剣とが交わる音が、ほらあな内に響き渡る。
「ハハッ、どうしたァ! さっさと光を出してみろォ!」
トルトがわずかに及び腰なのを見て、クラフティは形勢有利をさとったようだ。剣の振りに、勢いがあった。なおさら、押され気味になる。
「……へっ、るせぇ! てめぇなんざ、加護なしで充分だ!」
こんな男に、気力で負けるわけにはいかない。トルトは、虚勢を張ってみせた。口に出してみると、そんな気もしてくる。自分は確かに加護が使えて、だが、その力を使わずして、この外道を打ち倒してみせるのだ。痛快ではないか。トルトの太刀筋にも、冴えが戻ってきた。
斬りあいは、続く。お互いに一歩も譲らず、少しも隙を見せない。実力者同士の、激しい打ちあい。誰かが割って入ろうとすれば、ただではすまないだろう。
「……神官様は、あんなに必死に戦ってるのに。私は、黙って見るしか、できないの……?」
ぽつり、と。それまで黙っていたエルトゥネが、不意に、悔しさをにじませた声で、こぼす。クラフティとの死闘を演じていたトルトの耳は、どういうわけか、その小さなつぶやきを聞き取った。その言葉が、あの出発前の、エルトゥネの不安げな顔に、つながる気がした。
「エル、あんた……」
ずっと気になっていたことだけに、トルトの意識は、一瞬そちらに向いた。それだけでも、大きな隙となってしまう。
「余所見している暇があるのか!」
叫びながら放たれた、大きな一振り。咄嗟に剣をあわせたが、受け止めきれない。
「ぐぁっ!」
トルトは吹っ飛ばされた。ほらあなの壁に、したたかに背をぶつける。剣だけは取り落としていないが、その場にうずくまるのは避けられなかった。
目だけで、クラフティを見据えた。クラフティはトルトを一瞥すると、ふいと体の向きを変えた。
「邪魔者はあの様だ。クラフティ盗賊団に対する愚行の罪、娘の貴様に償ってもらうとしようか」
そう言って、切っ先をエルトゥネへと向けた。エルトゥネの顔が、明らかにこわばった。
「てめぇっ、なにをしやがる!」
トルトは叫んだが、もはやクラフティには相手にされていない。
「さぁ……俺のために死ねェッ!」
ぐっと深く踏み込み、クラフティの剣が、右下へ向かって、さっと振り下ろされそうになった。が。
「やらせん!」
エルトゥネの前に立っていたワッリが、体から光を放ち、その刃を受け止める。加護の光を、防御に利用したのだ。
「おじいちゃん!?」
エルトゥネの目が、大きく見開かれた。
「死に損ないが、邪魔立てするかッ!」
クラフティは、空いていた左手を剣へ添え、力を込めなおした。
「ぬぅっ……!」
ワッリの表情が、歪む。いかな加護といえど、直接的に暴力を防ぐことに使えば、それは力比べと同じだ。クラフティのかけている圧力に、ワッリは必死に耐えている。
「じいさん!」
トルトは剣を杖代わりに、なんとか身を起こそうとする。クラフティの好きにさせるわけにはいかない。あのままでは、ワッリは加護の光ごと斬られてしまう。俺が、なんとかしなければ。
「そんな、おじいちゃん!」
エルトゥネの顔が、悲痛なものになった。声にも、ワッリが危ないという、心配している色がある。
「エル! わしに構うな、早う逃げろ!」
ワッリは、振り向かずに叫んだ。振り向く余裕などないのだろう。それほどまでに、あの老人は追い詰められていた。
「でも!」
「早う!」
なおもためらいを見せるエルトゥネを、ワッリは一喝した。エルトゥネは、悲しげに顔を伏せた。
「ごちゃごちゃうるせェんだよ。潰れろォ!」
興が乗っているのか、すっかり口調が変わったクラフティは、さらに力をこめた。ますます、ワッリは押され気味になる。
「くそっ! この程度の痛みがなんだ! 足を前へだして、あいつをぶっとばす、ただそれだけじゃねぇか! 動けよ!」
トルトは、ようやっと立ち上がったところで、いまだ壁際から動けずにいた。思い切り壁にぶつかったのが、効いている。全身のあちこちが、悲鳴をあげていた。
「このじじいがァッ! いい加減にしやがれェッ!」
焦れたクラフティは、ありったけの力を剣にこめ始めた。いよいよ、ワッリの加護ももたないかと思われた、そのとき。
トルトは、エルトゥネの背後に、魔術の方陣が浮かび上がったのを見た。
「おじいちゃんから……」
エルトゥネの顔が上がり、その瞳がキッと、クラフティを見据えた。方陣が赤く光り、みるみる熱を帯びていく。生じた炎が、一点に集まり始めた。
「離れてぇぇぇぇぇっ!!」
エルトゥネは叫びとともに、両手を前へ突き出した。灼熱の業火が、ねじれるようにして、一直線にクラフティへとはなたれる。
「なっ――」
咄嗟に剣で防ぐ構えをとったのは、さすがといえる。だが、魔術方陣からはなたれた炎は、あっという間にクラフティの剣を包み込んだ。
「熱ィッ!?」
クラフティはとっさに剣を手放し、大きく跳び退った。エルトゥネのはなった魔術は、クラフティ当人を焼き尽くすことはできなかったが、その愛剣を、黒ずんだ灰へと変えた。
エルトゥネのやつ、魔術師だったのか。それを黙ってるとは、じいさんもにくいことしやがる、と思ったトルトだったが、よく見ると、ワッリも驚いているようである。肩で息をしつつ、呆然としていた。
フラッ、と、エルトゥネの小さな体が揺れた。すぐそばのワッリが、慌てた様子で抱きとめる。エルトゥネは、穏やかそうな顔で目を閉じていた。おおかた、大魔術をはなった反動で、疲れて気絶した、というところだろうか。
ともあれ、あとはクラフティをぶっとばすだけだ。この場でそれができるのは、トルトひとりしかいない。ほらあなは行き止まりであり、クラフティに逃げ場はない。トルトは、自分の体に鞭打って、剣を構えようとした。
――今こそ好機。汝に、わが力を一時的に授けよう。
また、声がした。今度はなんだ、とトルトが身構えると、ふいに周囲が、光で満ち溢れた。すると、トルトの痛みが、みるみるうちに引いていく。今度は、加護の力による治癒、というところか。トルトの痛みが取れると、残った光が、剣へと集まった。
クラフティの双眸が、恐怖で歪んだ。
「なんっ……なんなんだ、てめぇらは! ふざけやがって!」
半狂乱という風に叫びながら、じわじわと後ずさる。しかし、クラフティの背が、ほらあなの壁に当たった。
「ヒィッ……!」
恐怖でどうにかなりそうなクラフティに対し、トルトは冷静さを取り戻していた。確かにおかしなことは起きたが、どれも自分らの有利な方へ傾けてくれた。であれば、これを利用しない手はない。この際、理屈などどうでもいいではないか。
「おっ、おい! 誰かいねぇのか! 俺を、助けろォ!」
悲痛な声で、クラフティが叫んだ。それに答える声が、ひとつ。
「その誰かとは、この人たちのことですか?」
ひょうひょうとした、余裕のある声。ウィスだ。ウィスは、両手にふたりの盗賊をぶら下げながら、ほらあなの中に姿を現した。ふたりの盗賊は、白目を剥いて気絶している。
「入り口は、神官で囲んであります。もう逃げられませんよ、クラフティ」
手にした盗賊を無造作に放り投げながら、ウィスは言った。クラフティの顔が、ますます恐怖に歪んだ。ウィスは、チラとトルトの方を見たが、とくに何も言わなかった。
「さぁて……散々な目にあわせてくれたな」
もはや、トルトをさえぎるものはない。光輝く剣を手に、一歩、また一歩と、クラフティへと歩みを進めていく。
「やっ、やめろ……!」
「へぇ、怖いのか。そりゃ怖いよなぁ?」
クラフティは、背後の壁にすがりつくような体勢になっている。その様を見ながら、トルトは着実にクラフティへと近づいていく。
「この恐怖は、てめぇが今までに数多の人間に味わわせてきた恐怖だ。怖くて当然だよなぁ」
剣が届くか届かないかというところまで来て、トルトはぴたり、と歩みを止めた。クラフティの体が、震え上がった。
「た、助け……」
この期に及んで命乞いを始めようとしたクラフティを無視し、トルトは言葉を続けた。
「てめぇは、理不尽な暴力を振るいすぎた。その報い、正義のもとに、神に代わってこの俺が受けさせてやろう!」
光の剣を、さっと振りかざす。クラフティの目が、限界まで見開かれた。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
トルトは、勢いよく剣を振り下ろす。同時に、クラフティが悲痛な叫び声をあげた。